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蜘蛛の塔  作者: シュリ
Solitude

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第十三話 糸

 少女は駆けだしていた。両腕が優しく開かれる。思いきり飛び込み、その胸に顔を埋めた。

「大きくなられましたね」

 メアリが微笑む。

「長い間、お護りできなくて、申し訳ありませんでした」

「メアリ、ほんとうに、あのメアリなの……?」

「ええ。神の望みに逆らうことになるため伏せておりましたが、私は鴉。屋敷に勤める乳母メアリの姿を借りて、お嬢様のお世話をしておりました」

 少女は、小さな蜘蛛の言葉をぼんやりと思い出す。

「よくわからないけれど、すべて計画のうち……だったの、よね」

「ええ。しかし計画よりも早く、領主から解雇されてしまいました。まだもう少し成長なさるまで、お護り続けなければならなかったのに……」

 メアリの、少女を抱く腕に力がこもる。

「本当に、ご無事でなによりですわ」

「あの蜘蛛のおかげなの」

 少女が後ろを指さす。メアリは顔を上げ、その指先にたたずむ黒い蜘蛛の巨体をじっと見つめた。

「あなたが」

 怪訝な顔つきである。それもそのはずだった。傍に控える二匹の金の蜘蛛の姿と黒い蜘蛛の姿を交互に見比べ、「失礼ですが」と切り出した。

「あなたは一体どうしてそのような姿なのですか? 蜘蛛に擬態能力はないはずですが」

 ――彼は突然変異なのだ。

 小さな金の蜘蛛の意思が流れてくる。

「ああ……」

 メアリが目を細める。

「なるほど。生まれつきそのようなお体なのですね」

「メアリ、彼は、餓死寸前だったわたしに食事を与えてくれたわ。『塔』の入り口を塞いで守ってくれた。彼のおかげで生かされたのよ」

 ――その蜘蛛を懐柔した才こそ、神の証。

 小さな蜘蛛がうなずく。

 ――今こそ、我々一同が集い、屋敷を奪還すべきである。

「待って」

 少女が慌てて止めに入る。

「それは……それは、まだ……お母様を追い出すなんて」

 メアリはきょとんとしていた。

「お嬢様。あの者は何の罪もない貴女を忌み、このような場所に閉じ込めたのですよ。そのような屈辱を受けてまで、庇い立てなさるおつもりですか」

「それは」

 少女はうつむく。

「それは、そうだけど、でも――」

 どうしても、決意ができない。心が不安定に揺さぶられる。

「そ、それに、わたしはその蜘蛛の餌になるの。彼はそのために今までわたしを守ってくれたのだから」

「なんですって」

 メアリは黒蜘蛛の方へつかつかと歩み寄った。黒蜘蛛はいつの間にか元の大きさに戻っている。メアリはしゃがみこみ、その黒く並んだ瞳をじっと見つめた。少女にはわからない何かが二人の間を行き交っている。その輪は他の二匹の蜘蛛にも広がったようで、少女を置いて無言の話し合いが行われてしまった。

 話し合いが終わるまで、少女は揺り椅子を揺らしながら待っていた。

 やがてメアリが顔を上げた。

「お嬢様、事情はわかりました。しかし、この蜘蛛にはもう、貴女を食する気は無いようです」

「――え」

 少女が黒蜘蛛を見る。

彼は目を合わせようとしない。

「お嬢様ご自身の力でこの者を懐柔したのですわ。ですから、もうそのようなことは忘れて、お屋敷を取り戻すことだけをお考えください」

「……」

 少女は絶句した。

 ……もうわたしを食べたくないの?

 心にぽかりと穴が開いたようだった。これまで築いた黒蜘蛛との絆がぶつりと絶たれたような気がした。

 いや、そもそも絆などあったのだろうか。

少女自身は、蜘蛛の行動によって果てしない飢えと孤独から救われた。自身を取り囲む当たり前の暗闇の中で、温かな手を差し伸べてくれたのだ。もうあの頃の生活には戻れない。だから必死で取り縋っている。

 蜘蛛は少女を食べたかった。食べるために、食べられる状態に育てようとした。誰かに奪われないよう守ってくれた。その期待から外れたから、食べるための手間と釣り合わなくなったから、手放した。それだけのことだったのではないか。

 歪で、濡れた紙縒りのように危うい関係。所詮、捕食者と被捕食者。それだけの関係だったのだ。

 そんな少女の心情を知ってか知らずか、蜘蛛たちとメアリは話を進めてしまう。

「お嬢様、あの屋敷は先代の神が元々所持しておられました。取り戻したいという生前の願いを我々は叶えて差し上げたい。そして何より、貴女がお生まれになった家でもあります。ですから、ひとまず貴女が屋敷に帰られるよう全力で取りはからいましょう」

「……それは、お母さまを追い出さないということ」

「もちろんです。それが貴女の望みなら、我々は叶えるまでですわ」

 屋敷の誰をも傷つけることなく、少女自身も屋敷へ帰ることができる。考えてみれば、夢のような申し出だった。

「もしそうなったら、メアリは……」

 ……蜘蛛は? と言いかけた言葉をかろうじて呑み込む。

「ご心配無用です。私は変わらず貴女に付き従いますわ。お望みでしたら、そこの蜘蛛にもお命じになれば良いでしょう」

 メアリは優雅な指先で黒い蜘蛛を指した。

 命令などしてしまったら、ますます蜘蛛が遠のいてしまう気がした。

「……ありがとう、メアリ」

 それだけ言って、少女は小さい金の蜘蛛に向き直った。

「誰も追い出さずに、わたしを住まわせてくれるなら、協力できることは、するわ」

 ――では、細かな打ち合わせは後日とする。

 小さな蜘蛛との金色の糸が断ち切られた。

「お嬢様、私は私の方で鴉たちと打ち合わせねばなりませんから……どうか今しばらく、お待ちください」

 メアリは一礼して、瞬く間に金の鴉へ姿を変えた。塔の入り口へと羽ばたいていく。

 後からやってきた蜘蛛も小さくなり、三匹の蜘蛛は壁の穴へと戻っていく。

「待って」

 少女の声に、蜘蛛たちは動きを止めた。

「まだ……まだ、帰らないで」

 少女の白い瞳が黒蜘蛛を一心に見つめている。

 蜘蛛たちは察したのか、二匹の金の蜘蛛だけが先に帰っていった。

 黒蜘蛛は壁の隅でじっとしていた。六つ並んだ単眼を少女に向けている。

 少女は揺り椅子から立ち上がって、すたすたと蜘蛛の方へ歩み寄っていった。

「あの」

 なんと声をかけたらいいのだろう。

 彼の餌でなくなった今、彼が今どんな気持ちでそこにいるのかわからなくなった。

「もう、わたしは、……いらない?」

 声が震えている。あまりにも正直すぎる言葉だった。口にしてから後悔する。不要になった存在にすがられるのは決して良い気分ではないだろう。

 黒蜘蛛が口をわずかに開ける。金の糸がするすると伸びて、少女の指先に巻き付いた。

 何かを伝えようとしている。少女はごくりと唾を飲んだ。いよいよ彼の言葉が聞けるのだ。これまで一度も思いを交わしたことのない彼の。

 しかし、どれほど待てど、言葉の塊は伝わってこなかった。結ばれた金の糸はやがて黒ずみ、しんと垂れ下がるだけだった。

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