第十四話 Lily
黒蜘蛛の糸は少女に思いを伝えることができなかった。何度伸ばしてもすぐに黒く染まってしまい、失敗してしまうのだ。
その様を見て、少女も何かを察したようだった。糸を吐き続ける蜘蛛に対し切なげに笑いかける。
「わたし、全然太らないし、苦労だけかけてしまったものね。困らせてしまって、ごめんなさい」
そう呟く少女に、違う! と必死で訴えた。届かない声は空で虚しくかき消える。
信じがたいことだが、蜘蛛に食べる意思がないことを知った少女はとてもショックを受けていた。少女の受けた衝撃と悲しみが、見えない魔力の糸を伝って蜘蛛に強く押し寄せたのを思い出す。
なぜ、あくまでも餌であろうとするのだろう。
少女の白い唇の隙間から、微かな寝息が漏れている。薄闇の中で少女にもたれかかられるまま、黒蜘蛛は思いを巡らせていた。
深く考え込んでいたせいか、塔の入り口に鴉が降り立っていたことにも気がつかなかった。
鴉は人間の女へ姿を変えた。少女が「メアリ」と呼び、飛びついたあの姿である。
「蜘蛛の兵にしては、ずいぶんと気が抜けていらっしゃいますね」
メアリ、と呼ばれた鴉は、足音を殺して静かに歩み寄る。
「私が刺客ならば、あなたの視界の暗闇からいつでも奇襲をかけられますよ」
メアリは、揺り椅子の上ですやすやと眠る少女の姿を見下ろし、柔らかく目を細めた。
「こんなお顔をなさるなんて……」
メアリは右手で少女の頬にそっと触れた。作り物のような白い頬の上をゆっくりと滑らせる。愛おしそうに、何度も何度も。
「あなたがこの方に目をつけ、護り続けてきたことには感謝申し上げましょう。その動機にも目を瞑ります。ですから、今から私が申し上げる作戦に協力していただきたいのです」
女は蜘蛛の方へ顔を寄せ、声を潜めた。
「我々は、先代の神の望みと、その子である彼女の思いを叶えたいと思っています。そのためにも、奪還作戦にはお嬢様を同行させません」
どういうことだ。蜘蛛は首を傾げた。最長老によれば、人間の鉱石はこの少女でなければ見ることも触れることもできないのに。
「お嬢様には鉱石を見つけて取り除き、出口を確保していただくだけで良いのです。あとは我々鴉と蜘蛛で屋敷を奪還します。そして、お嬢様の望みが叶った状態で屋敷を明け渡すのです。その間、あなたはお嬢様についていてもらい、我々の作戦を目にすることのないよう見張っていていただきたいのですが」
この鴉の口から肝心の屋敷奪還作戦の内容を告げられた時、蜘蛛は迷いを抱いた。
これは鴉と蜘蛛とで最終的に決議されたことであり、変えることはできないそうだ。今更意見を言えど聞き入れられないだろう。それ以前に黒蜘蛛は差別されているので、その決議とやらの存在さえ知らされていなかった。
それでも――真実を知った時、少女がどんな顔をするか、考えただけでも心が痛んだ。
作戦決行は、七度の日没の後。
鴉のメアリは毎日『塔』を訪れ、陽が沈むまで少女と共に過ごした。黒蜘蛛も傍に控えている。護衛、という名目で、黒蜘蛛は巣に戻ることを許されなくなったらしい。少女はますますこの蜘蛛を気の毒に思った。自分のせいで苦労ばかりかけていると申し訳なさでいっぱいになる。
少女がメアリと再会を果たしてから六度、日を跨いだ。その間、少女が『塔』に開けた穴から蜘蛛がやってきて話しかけてきたり、上から鴉がやってきて食べ物を与えられたりしていた。
そんな折、少女はメアリに向かって呟いた。
「わたし、神さまと呼ばれるのは嫌だわ」
メアリは「お嬢様」と呼び、蜘蛛たちは「神」と呼ぶ。お嬢様はともかく、神では呼ばれた気がしない。その不満を口にすると、メアリは空を仰いで考えた。
「そうですねえ……お嬢様はお名前をお持ちではありませんから」
「なまえ?」
「はい。お嬢様は私をメアリと呼んでくださいますでしょう。お嬢様にもお名前があれば、皆そのように呼ぶでしょう」
少女は指先を小さな顎に当てて唸る。
「名前なんて……わからないわ。この世界で知っている名前はメアリしかないから……」
「では」
メアリは両手を伸ばし、少女の頬をそっと包み込んだ。
「こういうのはいかがでしょう。この世界に存在する花たちには、皆名前と、与えられた花言葉が存在するのです。お嬢様は美しい、純白のお体をお持ちです。そしてそのお心までが汚れなく澄んでおられる。貴女にはまさしく、白百合――リリーがふさわしいと思います」
少女は大きな白い目をぱちくりさせた。
「り、りー」
「はい。白百合の花をご覧になったことは……おありでないでしょうね」
メアリはため息をつく。
「あなたがここに来られる前に、もっとたくさん、いろいろなものをご覧に入れたかった」
その時だった。少女の傍で巨像のように動かなかった黒蜘蛛が突如動き出し、するすると石壁を登ってあっという間に姿を消してしまった。
「あれ、どこにいくの」
少女が慌てて身を乗り出す。
メアリは、蜘蛛の消えた『塔』の入り口を見上げた。
――まさかね。あの何を考えているのかわからない蜘蛛が、気の利いた心を持ち合わせているわけがない。
と、心の中で呟きながら。
そのうち、『塔』に差していた陽が陰り、日没の時がやってきた。メアリは立ち上がる。
「お嬢様。先日お話しました、お屋敷の作戦についてですが、無事決行されようとしています。どうかもう少しだけ、ご辛抱くださいませね」
メアリの金色の瞳が柔らかい光を湛える。この目が少女は大好きだった。この目だけは、いつだって少女に優しかったから。
「わかったわ……わたしにできること、また教えてね」
「はい。明日、お話いたしますわ」
それでは、と言って、金色の鴉は飛び立った。
『塔』に薄闇が降りる。揺り椅子を揺らしながら少女は待っていた。
するすると、『塔』の闇より濃い色の黒蜘蛛が降りてくる。糸で絡めた何かをひきずって。
少女の目の前まで来ると、蜘蛛は脚先の爪で糸を切った。半透明の糸の塊から、白い花弁がふわりとまろび出る。
少女ははっと息を呑んだ。
ほっそりと優雅な花びら。心地よく鼻をくすぐる、これまで嗅いだこともないような甘やかな香り。
「リリー……」
少女の半開きの唇から声が漏れる。
黒蜘蛛は白百合を求め、森の中を探し回っていたのだ。
「リリー……。わたしの名前、リリー……?」
相変わらず蜘蛛から返答はない。しかし、彼はわざわざ探して持ってきてくれた。
少女の新しい名を、彼は認めてくれたのだ。
揺り椅子から身体を起こし、黒い巨体に顔をうずめた。
白い百合がぱさりと落ちる。
止まらない嗚咽。定まりのないぐちゃぐちゃの心が次から次から、涙となって落ちてくる。蜘蛛は少女の涙と思いを、全身で受け止めていた。
自身の意思を伝えるにはそうするより他なかったのだ。





