64話 言えない苦しみ、何もできない悲しみ その2
言えない苦しみ、何もできない悲しみ その2
私は穂波さんに一言残して、家を飛び出した。
太陽が沈んで、暗くなっている街。点在する街灯が、道をほのかに照らし出す。通行人はなく、車も通らない。街は静寂が支配する。そんな中、一人駆けていく足音が響く。呼吸が乱れて、心臓がバクバクと撥ねる。
すぐに、那岐のもとへ行きたかった。
那岐を泣かせる奴は嫌いだ。
有紀も、飯田も。
私は学校までノンストップで走り続けた。吐き出す息は白い。走るペースなんて考えなかった。冷たくて乾燥した空気が、肺を冷やし、喉を傷つける。
「ゲホゲホ、ゲホ――」
校舎に入って、走るのを止めると途端咳が出だす。
私はコンクリートの壁に凭れかかって、しばらく休む。すると荒れた呼吸が落ち着いていく。暑苦しいのでカッターの上に来ているセーターを脱いだ。
那岐は自分がどこにいるのか言わなかった。那岐に電話をかけてもつながらない。ラインをしても未読のままだ。
「なんで出ない。友達を心配させるな」
私は一人愚痴て、校舎内を当てもなくグルグル回った。あまり行きたくなかったが、旧校舎の中も探ってみる。この校舎は電灯が全くついていない。光源は月光のみ。旧校舎一階を歩いている時だ。何か気配を感じた。廊下の先、グラウンドに通じる扉のあたりだった。
扉近くに寄ると、そこで体育座りして小さく丸まっている女の子を見つけた。顔は俯けて、私に気付いていない様子。
そっと肩に手を遣る。
「那岐」
名前を呼んでやると、恐る恐る顔を上げる。その顔は悲壮感に染まっていて、見ているだけで可哀想だった。
「加奈」
私は、彼女の手を掴んで引っ張り上げる。
「辛い時に、こんな寂しくて暗い所にいるな」
私たちは渡り廊下横の中庭に行った。校舎を背に付けられたベンチに彼女を座らせると、ベンチ隣の自販機から温かくて甘いココアを買う。こういう辛いときは、温かくて甘いものが少しでも体に活力を与えると私は思っている。
確か那岐は缶を開けるのが苦手と言っていた。私は、缶を開けて、那岐に渡す。
「熱いから、気をつけろ」
「うん、ありがとう」
「ココアを飲んだら、少しはほっとするかもしれないぞ。それを飲んで落ち着てから、私に話してくれるか」
「うん」
那岐は両手でつかんでいるココアをずずっとすすった。空には時折雲がたれこんで、月の光を隠す。私は空に浮かぶ月を眺めてた。そうして、那岐が自分から話すのを待った。月が雲から姿をあらわにした時だった。
那岐は口を開く。
「怖いんだよ。とても、とても、怖くなった」
「何が、怖いんだ?」
私は努めて優しく問いかける。
「私、飯田君の悩んでいる姿をみた。本当に辛そうで、どうしようもないことを悩んでいる。一人の生徒が負うべきじゃないことに、真剣に向き合って。その姿は、過去の有紀ちゃんに重なった」
「それで、怖くなったのか?」
「うん」
二条有紀は、家族関係のことで悩み、その結果リストカットした。
確かに、そんな事態が飯田と重なるのは相当にショックだ。
ただ、それとは別に、どうしてあんな暗くて冷たいところで丸まっていたんだ? もし私が行かなかったら、一晩そこで過ごしかねない状態だった。
「あんな暗い場所にずっといるつもりだったのか?」
「私、有紀ちゃんの、あの光景を思い出して、体が動かなくなって」
那岐は膝をがくがくと震えさせる。両の手で自身を抱きしめる。顔は青ざめていた。
まずい、過去をフラッシュバックさせているんだ。
私は那岐をギュッと抱きしめる。とにかく安心させないといけない。怖い思い出なんて、今は消えていろ。
那岐の様子は、かなり危険なものだ。私は彼女を背負って、保健室に向かおうとする。すると渡り廊下、校舎入り口から担任の神奈川先生が出てきた。彼女は白衣を羽織っており、片手に缶コーヒーをもって眠たそうだった。
彼女は私たちを見て、不思議そうに首を傾げる。
「はあ、まったく難儀なモノね」
神奈川先生は、保健室から出てくるとため息交じりにそういった。
那岐は神奈川先生の知り合いでいらっしゃる内科医に応急処置をしてもらった。その際私と先生は邪魔になってはいけないと席を外させてもらった。
彼女は、現在保健室のベッドで横になったいる。
私は、保健室の外、ドアに向かい側の壁に凭れて腕を組んでいた。
私たちが外へ出て十数分経過したころ、中から入るように言われる。私と神奈川先生は、保健室の中央、事務机とベッドの間に丸椅子を置いて座る。白髪の医師と向かい合う形だ。
医師は、神奈川先生に渡されたコップの水を仰ぐ。瞬く間に飲み干したそれを先生に返す。
「あの子は今眠らせているけど。一体どうしたんだい? ショック状態を起こしていたよ」
那岐が苦しそうにしだしたときの状況の詳細は、まだ先生に話していない。私は、那岐が過剰に反応した言葉とそれを口にした状況を説明する。
「那岐は、とある生徒の悩んでいる姿を見て、有紀に似ていると言っていました。その姿が重なって、怖いと。リストカットをしたときのあの子を思い出して辛いと言っていました」
「えっと、神宮寺さんは、ある生徒が有紀と同じことをしてしまうんじゃないかって、心配しているってことなのかな」
先生は優しく問いかける。
私はこくりと頷いた。
内科医の先生は、険しい顔をしたままだ。ドクターは、しばし思案した後に、自身の見解をつらつらと述べる。
「状況の仔細を知らないが、その生徒さんの言いようだと、トラウマとなる原因がいくつかかさなって、心的ストレスを発生させた。多分その許容を超えて身体に影響が出たんだろうね。そういう子には、とにかく安心させないといけない」
ドクターは、カーテンを少し開いてベッドで横になる那岐の様子を窺った。
そして彼女に起こっている症状を私たちに簡単に説明した。
どうやら、那岐は精神的ショックのあまり極度の低血圧症を引き起こしたらしい。血流の巡りは悪くなって、ストレスへの神経的負担から体温を失ったとも。
それにしても、先生の知り合いの医師が近くにいたことは不幸中の幸いだった。それは先生も気になっていたらしく。
「診療所まで距離はあるのに、どうしてこんな近くにいらっしゃったんですか?」
と聞いていた。
「往診でこの近くまで来ていたんだよ」
医師は椅子から立ち上がると、先生に小さな声であることを言った。地獄耳の私は、聞くべきでないと分かつつ、聞いてしまった。
内容は、那岐を心療内科に見せたほうがいいとのことだった。




