14話 別れていくことと新たに出逢ったこと その5
14話 別れていくことと新たに出逢ったこと その5
『負けるな有紀、俺が、俺がついているから』
私と同い年くらいの男の子の声。優しく暖かい低い声。
ふと、聞こえたそれが私の胸を暖かくした。
私は胸に手を当てる。そしてその声の余韻に浸っていた。この声は、私に勇気と力を与えてくれた。そんな気がする。
「有紀ちゃん、有紀ちゃん」
ふと傍らから、聞きなれた声が聞こえる。
私はゆっくりと瞳を開けた。すると眼前にニコニコした可愛らしい少女がいた。
どうしてだろう、私はこの子の名前が分からない。この子と私は特別に仲がいいことは理解していた。だというのになぜ名前が出てこない。もう喉のほうまで出かかっているというのに、思い出そうと頭をひねったが無駄だった。
私は彼女から目を離す。周りにはテーブルと椅子が並べられている。そこにまばらではあるが、人が座ってコーヒーを飲んだりしていた。
ぼんやりとだが、ここがどこか理解し始めた。それにしてもどうして私はこんなところに来ているのだ。向かいに座るのはおそらく私の友人として、その子とここで時間をつぶしていたのか。前の記憶が抜け落ちていて、状況を理解できない。
「ねえ、私って、寝てたの?」
「いや、あなたが『疲れたー』っていうとテーブルに突っ伏してそのまま静かになったから、起こしただけ。そんなに寝てはいないよ」
「そう」
私は右側頭部を手でガシガシかいた。するとそこから強烈な痛みが走り、表情がこわばった。まるで固い金づちに殴られたような痛みだった。痛みが走った部分に触れた手を見る。手の腹は白く、特に変わった様子はなかった。
私は突然走った痛みに、首を傾げた。
私たちは喫茶店を出た。
どれくらいそこで滞在していたのか知りたかったので、左手につけていた腕時計に目を向ける。腕時計はしかと針を刺していた。しかし私にはそれがぼんやりとして理解できない。時計はちゃんと動いているのに、時間がわからない。一体どういうことだ?
私は混乱する。
気が付いたら喫茶店にいて、よく知っているはずの友人の名前を忘れていて、極め付けには時計が読めなくなっている。
明らかにおかしい。
なんだ、このスライムをどっと被ったみたいに頭がぼんやりしているのは。水のようにさらさらしてフレッシュな思考ができなくなっている。
私の不安は不意に口を突いた。
「私って、おかしい……」
「何を言っているんだか、別に普段通りじゃない」
女の子は肩をすくめた。
私の親友である女の子と道行くままに歩き続けた。どこを目指して歩いているのか、私にはわからない。漠然とだけど目的地があってそこへ行くために歩いているはず。
私たちは永遠と一本道を歩く。どこを目指しているのか? そんなものはもうどうでもいい。ただ、行く道の先に終わりが見えればいい。それですべて終わると思った。
すでに日が落ちて真っ暗な道の中、ぽつんと佇んでいる男の姿が目に入った。無精ひげに血走った眼、太ったために大きく腹が出ている。
嫌な予感がした。この男を見て生理的にそう思った。
呼吸が浅くなる。目がくらくらしていく。吐き気を催して蹲る私の前に少女はかばう形で前に出た。店を出てから終わりなき道をずっとともに歩き続けてきた私の親友。
先ほどまで可愛らしい表情だった彼女は、今険しい顔つきとなっている。瞳は敵を見るように厳しいものとなっていた。
「殺される」
心の中を突いて出た言葉がそれだった。明らかにオーバーリアクションだと思う。だけどそれを一笑に付すことはできなかった。私にとって知り合いとは言えないはずの人間だのに、最も恐れるべき人間と私は認知した。
逃げることができず、茫然としていたら、どさっという音と共に女の子が地面に倒れ込んだ。
私の瞳から涙があふれる。
男は倒れた少女に構わず、私のもとへ一歩一歩と歩を進める。
私は女の子がこんな風にされてしまったことが許せなかった。名前を忘れてしまっているのに、その子との絆が確固たるものであるという事は理解していた。
私は目の前に立つ男を睨みあげる。殺気は怖くて目も合わせられなかった。だけど今は違った。怒りの感情が私を動かした。相変わらず、私の体は凍り付いたかのように動かない。だけど、私は目を背けることなく、男は何かを振りかぶる姿を瞳に焼きつけた。