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明日私は、恋してますか  作者: 植村夕月
Ⅰ 夜空の姫君は見つけた
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15話   別れていくことと新たに出逢ったこと その6

   15話   別れていくことと新たに出逢ったこと その6


 『大丈夫だって、有紀。俺はここにいる』

 ふと頭に響いた男の人の声。

 目をゆっくり開ければ、私の前によく知っている男の子がいた。名前は、名前は、確か、シノハラだった。確かそんな名前の少年だ。無口で誰とも接しようとしない私に、しつこく話しかけてきたから、私のほうが折れたんだ。

 どうして彼が私の前に。

 私は寝ぼけ眼のまま、彼を眺めていた。

 夕暮れ時で、教室には誰もいない。空いた窓からは、心地よい風が吹き抜けていく。

 私は瞳を閉じて、涼しい風を感じた。

 先ほどまで、私は悪夢を見ていたのだろうか。額から珠のような汗をかいていた。どんな夢なのか、思い出そうとしても欠片も思い出せない。しかし二度と見たくない夢だったことだけは確かだ。頭ではなく体がそういっていた。

 今は彼の顔を見て安心感に浸っている。

「あなた、まだ帰っていなかったんだ」

「……ああ、どうしてだろうな。帰る気になれないんだ」

 傾く太陽に顔を向ける彼。

 夕暮れの赤が彼の顔を帯びる。整った顔立ちに儚さが加わって、私はドキッとした。

 恥ずかしくて見ていられないので、目を背けた。

 外を見ている彼に、私は言葉を紡ぐ。誰かに話しているというのではなく、あくまで一人愚痴ているように。

「母さんも、父さんも嫌いだ。父さんは昔と違って優しくない。時々暴力を振るう。母さんは昔なら私に対しても優しかったのに、今は私にまで優しさを向けてくれない。二人に何か苦悩があることは知っている。だから私だって、苦しんでいる二人の力になろうと思ったんだ。だけど、無駄だったよ」

 私は息を吐いた。

 シノハラは相変わらず、外を向いたままだ。私は続けた。

「相変わらず、父は荒れていて、母も父にばかり構っている。料理も一生懸命に覚えて、二人に振るったけど、ほとんど食べてもくれない。皆で笑える日ってくるんだろうか?」

 彼は窓を閉めて、私に歩み寄る。そして私の右手を掴んで立ち上がらせた。急なふるまいに私は混乱した。

「二条、今からお前のお父さんに話に行こう」

「はっ、何言ってんのよ。この時間にお父さんは」

 いない、と言いかけたときに彼が私の言葉を遮った。

「君のお父さんは今学校にいるよ。いるんだよ」

 その言葉に廊下をでようとした私の足が止まる。膝はがくがく震えていた。無意識のうちにそうなっていた。私は本能的に恐れていた。

 血眼になって怒りちらし、歯は猛獣のようにむき出しとなっている。顔には皺が深く刻み込まれている。

 どうしてだろうか、そんな父の鬼のような形相が私の中で浮かんできた。

 家にすらめったに帰ってこないのにどうしてよりにもよって学校にいるの? それも今。訳が分からない。理屈が通っていない。ただ彼は父が来ていることを私に告げた。そんなことは嘘だって笑ってやりたい。呟いてやりたい、怒鳴ってやりたい。

 でも、そんなことはできなかった。

 どうしてか、彼の言っていることは本当な気がした。

「私、怖い。行きたく、ない」

 小さく途切れ途切れに話す私に、彼は頭を乱暴に撫でて私を優しく諭す。

「怖い……か。そうなのか。でもな、言いたいことがあったら、逃げずに伝えないといけない。二条は二人に対して、行動することで伝えようとしたんだね。料理したり、洗濯したり、掃除したりっていう風にさ。とても頑張り屋さんだ。それはいいことだ。だけどね、それじゃあ伝わらないんだよ。今いろんなことで悩んで苦しんでいる人にね、態度と行動で何かを伝えることは難しい。こういう時にこそ、言葉で心を込めて話すことが大事だ」

 ……そういえば、私は父母の苦悩を知っているから二人のためにも何かしたいって思った。それが毎日の家事労働。仕事に疲れて帰ってくるんだから余計なことは言わないほうがいい。そう思って、私の本心は押し殺してきた。それが正解だと思ってじっとそうしてきたんだ。

 だけど、そうか。それは間違っていたのか。

 はっきり言葉にした方が伝わるし、心のもやもやも晴れるかもしれない。

 でも、怖い。

 なんでかな? 父の姿を見たくらいでどうしてそんなに怖がっているのだろうか。不思議だ。

 彼が言っていることは分かる。

 私もそうだって思う。

 だけど体がその意思を猛烈に否定する。震える体。肌に寒気が走る。唇は震えて、足を踏み出すことも困難だ。

 私は彼の目を見据えた。

 苦しい、苦しい、苦しい……。

 嫌だな。本当に嫌だ。絶対に嫌だ。

 でも、それでもだ。どうしても私にはやらないといけない。

「分かった。行くよ。そのかわり、私に勇気を下さい」

 私は彼に抱き着いて、キスをした。

 飛びついた勢いで、彼が数歩後ろに下がった。ほんの少しの間抱き着いていた。校舎には誰もいない。運動部の掛け声も聞こえない。日は落ちて校内の電灯がともり始めた。

 私はゆっくりと彼から離れた。

「私を連れて行って」

 短くそういった。

 彼は私の手を引いて、目当ての人物がいる場所へ連れていく。

 場所は相談室。中には父の姿があった。

 普段より幾分か穏やかそうだった。

 私は、シノハラに笑いかけた。

「ここで待ってて。私は父と二人きりで話すけど、君は外で、待っていて」

「わかったよ」

 扉をガラガラと開ける。そして、私は部屋の中に入った。相談室には椅子が四脚。父とは向かい形で座った。私は努めて笑顔で接する。

「父さん、どうして学校に?」

「どうしてだろうな。いうなれば気まぐれだ」

 今の父はお酒が入っていないみたいだ。顔色も白くて普通だ。これは父が数少ないまともな日だ。こういう数少ない機会に、私は私自身の本心を伝えなければいけないと思った。

 これは天啓だ。

「父さん、私は伝えたいことがあるんだ。ずっと思っていてでも伝えられなかったこと」

 父はまっすぐな瞳でこちらを見る。日々目にする父は焦点が定まらない目をしている。この大きな違いに私は驚いた。

「うん、続けなさい」

「はい、私ね、父さんと母さんが必死になって頑張っているから、二人のためになるように一生懸命料理覚えて、毎日家事労働をこなした。でもそれって独りよがりかな。私は二人のためにって思っていたけど、実際は私の行動が鬱陶しくて仕方なかったんじゃないかって思った。……どうなんだろう」

 父は固く目を閉じて腕を組んだ。しばし間をおいてから、彼は口を開いた。

「そんなことは、ない。お前は私たちにとって過ぎた娘だった。これほどいろんなこと

をこなし、人の心の機微を察しようと努力する姿は素晴らしい。だがな、その気遣いは時に私の無力さを自覚させられる。満足に子供に愛情を注ぐこともできず、あまつさえ心配させる始末」

 普段絶対聞くことがない父の発言に、私は目を真ん丸にする。

 私のことなんてどうでもいいんだって思っていた。普段の素振りからそうとしか思えなかった。だから今の彼の言動は私の心を乱すには十分だった。

「もう、私はお前と一緒には暮らせない。お前は私のようなところにいるんじゃなくて、もっと優しく強い人の傍にいればいい」

 いう事だけ言って、父は相談室を出ていった。私に一切の反論の余地を残さずに。

 どこまでも勝手な父だ。誰の相談もなしに自分で勝手に決めて勝手に行動して。娘をこういう風に、……するんだ。

 私は俯いたまま、席を立った。体に力が入らない。フラフラする。

 部屋を出ると、シノハラがいた。

 私はシノハラに努めて笑顔を向けた。まあそれが引きつったものであったことは、彼の悲壮を織り交ぜた表情から察することができた。

「私ね、捨てられちゃったよ」

 ああ、ちょびっと目が潤んできた。どうしようかな。我慢が効かない。目をぎゅっと閉じて、涙を抑え込もうとしている時に、ふと抱き寄せられた。広くてかたい胸の中に私は収まった。

 彼の不意打ちに私の涙は吹っ飛んだ。

 もやもやした悲しみも負の感情は総じて私の中から消えていった。

「大丈夫だ。大丈夫だからない」

「……うん」

 彼の胸の中にいると、強烈な眠気が襲ってきた。私はそれに逆らわず、眠りについた。


 ・・・


 消毒液の臭いが鼻に着く。

 薄く開いた目には、白い天井が広がっていた。そして部屋を区分するようにカーテンが仕切られていた。右手にはごつごつして暖かい感触がする。首が思ったように動かないので、視線だけ向けた。

 そこにはスースーと静かに寝息を立てて眠っている少年がいた。

「篠原君」

 起こすつもりはなかった。声量は子猫のように弱弱しいものだった。だけれども、それが彼の意識を覚醒させるには十分だった。

 篠原君はかっと目を開いて、私のほうを見た。

 なにお化けでも見た、ていうような顔をしているのよ。女の子の顔見てそれは失礼でしょ。本当にデリカシーがないんだな。

 私は微笑んだ。

「有紀、有紀。ちょ、ちょと起きているぞ。有紀が目を覚ましたぞ」

 彼は慌てて私の頭上にあるナースコールを押した。

 すると瞬く間に医者と看護師がこちらへ駆けこんだ。医者は私の顔を覗き込む。

「二条有紀さん、私がわかりますか」

 私はこくりと頷いた。言葉も話せない。先生が何か書いて示したものも理解できない。体も左半身は感覚がない。


 なにより、私がこうなった記憶がなかった。


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