第三話 会敵
大きな魔物の鳴き声が、森全体に響き渡る。
地面を揺らすような咆哮は、ネネコの背筋を一瞬で凍らせるには充分すぎる凶悪さを含んでいた。
ジャイアントベア。一見ただの大きな熊のように見えるが、その生態は凶暴な魔族だ。凶暴な魔族ランキングの弱い種族からG、F、E、D、C、B、A、S級とされるなかで、D級というそれなりに強い中級魔物として認知されている。
目が合ったら全力で逃げろ。魔術を習わない者でも、そう教わる程である。
「この森には低級魔物しかいないと聞いていたのですが」
何故こんなところにジャイアントベアが。そうへたり込んだままでいると、黒い何かが視界いっぱいに広がった。
「いたっ」
——さ、先程飛び出してきた黒猫さん。
ネネコの視界全体をジャックした物の正体は、黒猫だった。そしてコンマ数秒後に容赦のない猫パンチが、ネネコの丸い頬に炸裂した。
「ぶっ、わ!なにをするんですか」
まんまるなほっぺに可愛らしい肉球スタンプが押されたて、頬を押さえながらネネコは抗議した。現実しか存在しえない痛みが肌に走ると、じりじりと頬が熱くなっていく。
だがその反動で、頬の火照りを覚ますような夜風を感じ取り、ゆっくりと思考が現実へと引き戻されていくようだった。
そうここは、夜の森の中。
そして巨大な足音が、確実にこちらへと向かってきている。
目の前の猫を見ると、真っ黒な丸い目で少女を見上げていた。
その顔には、ぼーっとしている場合じゃないだろうと書いてあるように見える。目の前の黒猫は、冷静だった。
「そうですね猫さん、こんなところで私は死にたくありません。そして、それは猫さんも同じですよね」
ネネコの言葉を理解しているのだろうか、黒猫が頷いた。
そう。今一番に考えるべきこと、それはジャイアントベアの脅威から身を守ること。それをこの黒猫はネネコに思い出させたかったのだろう。
ネネコは杖を支えにしながら立ち上がると、スカートの裾を払った。
「急ぎましょう。ではまず相手の位置を調べます」
ネネコは無詠唱で魔力探知を行う。相手の位置が分かれば、戦いは少なからず有利になる。
そう先生の教えを思い出して、細く研ぎ澄ました神経を、指先から杖、杖から木々へと広がるように張り巡らしていく。すると、あと少しの先に大きな魔力反応が返ってきた。
「きっとこのスピードですと、追いかけっこなら負けてしまいますね」
魔力の位置からして、ジャイアントベアとの邂逅はあと数分。いや、もう数十秒だ。
考える暇はなく、策もない。こうなったらできる限りの防御と最大限の攻撃魔法で、ガムシャラに戦うしかないとネネコは決心した。
心の中でカウントダウンをしながら、ネネコは会敵に備えてもう一度杖に魔力を注ぎ込んでいく。
先程バリアを作った魔法で沢山の魔力を使ってしまったが、幸いこの森は魔力の回復が早い。
そしてネネコ自身の魔力器官は、無限に空気中の魔力を吸っていて、手のひらから空気に漂う魔力の粒子、すなわち魔素が集まってきている。
なんとかジャイアントベアを気絶させて逃げる位の魔術は展開できそうだった。
ネネコは杖を持つ手に力を入れると、魔力を一点に集めていく。そしてピンクの粒子が杖の先端を覆うと、杖を構えながら震える膝裏に力を入れた。
「来るぞ!」
突然男性のような声が聞こえると、ネネコはその声合わせて照準を定めた。
そうして茂みが大きく揺れると、巨大な物体が現れる。
——グオオオ。
狂った魔物の咆哮が、ネネコの鼓膜を揺らした。
ジャイアントベア。
ネネコは初めて実物で見たが、それはただの熊とは大きくかけ離れていて、禍々しい恐ろしさに震えた。
大きな手についた手甲鉤のように尖った大きな爪は、生を刈り取る死神の刃物のよう。長く太いその爪が森の中の木や葉など触れると、深い傷を負わせていった。
「はっ、わ」
ネネコはこの時、自分が大きな思い違いをしていたのだと思った。
気を逸らして逃げる位ならできる、だなんて酷い誤算であったと。
覆いかぶさるように両手を上げた巨体はまるで壁のようた。恐らく少女の3倍、5倍。それ以上あるのかもしれない。
魔物と少女、それは捕食者と獲物を端的に表していた。
「おい何ぼーっとしてんだよ」
「ほえっ」
また人間の男性の声が聞こえたかと思うと、ネネコの前に黒猫が飛び出してきた。
「とにかく魔力を打ち込め」
「ええっもしかして猫さんが喋っていますか!?」
「チッ、今はそれどころじゃねえだろうが!」
「そそそそうですよね」
ネネコは急に人間語を話した猫に動揺しながらも、早くしろと言われるままに応じて、ありったけの魔力を杖に集中させる。
森の中に浮遊している魔力の粒子を吸い込んでいくように、少女の杖に集まっていく。ネネコの考える、ありったけの魔力を集めて。
杖の先に集まる魔法陣の円。魔力の精度を上げるために二重、三重、それ以上と交差させていく。
最高位の魔術。魔力量の多いネネコでしか扱えなかった、強力な攻撃魔術。強いピンク色の光と多重の魔法陣が、その証だった。
ネネコの目の前では黒猫がジャイアントベアの攻撃を逃がすように木々を飛び撃っている。
きっと魔術を当てやすいように、誘導してくれているのだろう。
そうしてタイミングを測りながらも魔力を増大させていくと、黒猫がネネコの目の前の木に止まった。
「今だ!」
そして黒猫が合図とともに別の木に飛び移り、それをジャイアントベアそれを追いかけるその瞬間。
ネネコは生成した攻撃魔法を放出する。
魔法陣から射出されるピンクの粒子は、ジャイアントベアの大きな巨体めがけて飛んでいった。
そしてピンクの強い光が一瞬森を包んだかと思うと、同時に大きな爆発音が辺りに響き渡っていった。
そしてジャイアントベアは放出したネネコの魔術に押されて、暗闇に向かって遠ざかって見えなくなっていく。
「はっ、はあ」
膝の力が入らなくなったネネコは、床にへたり込んだ。
視線の先には、折れた木々。そして熊のような巨体が、その向こうに力なく倒れていて。
「ねこさん、私は、やりました」
それはジャイアントベアを倒したということを、意味していた。
「よ、よかった、です……」
「お前よく頑張ったな」
「えへへ。そうですか、私偉いですか」
「偉い偉い。けどまぁ、しっかし結構派手にぶっ放したな。木こりが見たら泣くかもな」
「褒めてください」
ネネコは安堵感からか、もう猫が自然に話している事など気にもならなず、それどころか瞼が徐々に落ち始めていた。
初めての旅の疲れも出ていたのだろうか。こんなところで寝てはいけないのだろうけど。
そう思っていると、少女の頭に黒猫の肉球が乗せられた。
「黒猫さん。あなたの手っえ、フニフニなんですね」
「何言ってんだお前。っておい、しっかりしろ。おい!」
焦るような黒猫の声はどんどん遠ざかっていく。そしてネネコ記憶は、ここで途切れたのだった。




