出会い
風がすべてを奪っていく。
耳鳴りのような轟音の中でエルナは静かに目を閉じた。
国も、家族も、居場所さえもすべて失った。追われ、逃げて、最後に残ったのはこの身ひとつだけ。
ならばせめて、終わりくらいは自分で選びたかった。
はるか下方、黒く口を開ける大地。
人が決して生存することの叶わぬ地獄
『アビスガーデン』
周囲を数千メートルの断崖絶壁に囲われ、生きて帰るどころか足を踏み入れることさえ極めて困難な前人未到の地。
落ちれば確実に死ぬ。
そのはずだった。
(これで終わる……何もかも。逃げること以外、何もできなかった。皆、ごめんなさい……)
エルナは底すら見えない闇へと身を投じる。
終わることのない浮遊感。不思議と恐怖心はなかった。そっと目を閉じ、その時を待つ。
しかし、いつまで経っても衝撃は来なかった。
代わりに感じたのは、硬く、そして妙に温かい生身の感触。
ゆっくりと目を開けると、視界に映ったのは空ではなく一人の男の顔だった。
ぼさぼさの黒髪。傷だらけの皮膚。
生きているのかすら分からないほど感情の薄い目。
エルナは一瞬、自分が夢の中にいるのだと感じた。
「だれ?」
掠れた声が喉から漏れる。
男は少しだけ視線を落とし、エルナを見た。
「……人間か」
それだけ言って、興味を失ったように視線を外す。エルナの体はいまだその腕の中にあった。
「離して」
「無理だな」
「どうして?」
「落ちてきた物を拾っただけだ」
あまりにも淡々とした答えだった。
理解が追いつかない。なぜ私は生きているのか。自分は助けられたのか。
目の前のこの男は何者なのか。
何一つ分からない。
「……私は、死ぬはずだったのに」
ぽつりと呟くと、男はわずかに首を傾げた。
「勝手にしろ」
その一言はあまりにも軽かった。
しかし、意味が分からない。
じゃあなぜ助けたの?
私をどうするつもり?
身を投じた時ですら感じなかった恐怖心がエルナを襲う。
(この人だって、きっとあいつらと同じ…)
戦慄するエルナを無視して男は軽く溜息をつく。
疑問を口にする前に、男はエルナを肩に担ぎ上げた。
「ちょっ、何を!」
「連れていく」
「どこに?!」
「住処だ」
拒否する間もなかった。
男が地面を蹴った瞬間、景色が一変する。
大地が高速で流れてゆく。
いや、違う。
男が速すぎるのだ。
岩を飛び越え、裂けた地面を軽々と踏み越え、常人ではありえない速度で進んでいく。
途中、巨大な影が上空を横切った。
見上げれば、そこには翼を広げた異形、飛竜。
だが男はそれを一瞥しただけで、何事もなかったかのように進み続ける。
追われない。狙われない。
まるで、この地そのものが彼を拒絶していないかのように。
(この人、ホントに人間?)
アビスガーデンに人間がいるなど誰も想像すらしなかった。恐怖と困惑が入り混じりエルナの思考は停止する。
やがて、男は足を止めた。
そこは岩に囲まれた洞穴だった。簡素だが外界では考えられないほど異様な生活の痕跡がある。
干からびた獣の肉。
骨を削って作られた道具。
そして、おびただしい血の跡。
男はエルナを無造作に地面へ下ろす。
「水だ」
差し出されたそれは濁った液体。
本能的に危険だと分かる。
「……飲めない」
「そうか」
男は気にした様子もなく、それを自分で飲み干した。
しばらくの沈黙。
エルナは震える手を押さえながら、男を見上げる。
「……あなたは、いったい何者なの?」
男は少しだけ考えるように視線を上げ口を開く。
「アルベルト……だったか」
それを聞いてエルナは不思議そうに首を傾げた。
「自分の名前を覚えてないんですか?」
「名乗ることなどないからな」
アルベルトは興味なさそうに腕を組み、入口の奥を見つめながら答えた。
「私は…」
言いかけて止まる。
名乗ることすら、今のエルナには勇気のいる行動であった。すべてを失った今、その名前を名乗る資格があるのか。
アルベルトは興味なさそうに視線を外したままフンッと軽く息を吐く。
そして、何事もなかったかのように言った。
「あとは好きにしろ。人間は食わん主義だ」
その言葉にエルナは耳を疑った。
そして、全て理解した。
この男には助けた理由も目的もない。
歩いていたら上から木の実が落ちてきたから持って帰った。おそらくその程度の些細なことなのだろうと。
常識とかけ離れた異質さに言葉を失う。
ここが外界と隔絶された魔境であることを再認識する。
その時、遠くで空気を切り裂くような魔獣の咆哮が響いた。
地面がわずかに揺れ、何かがこちらへ向かってくるのが分かる。エルナの体が強張る。
だがアルベルトは至って冷静だった。
「ちょうどいい」
ゆっくりと立ち上がり、岩をくり抜いただけの簡素な入口へとゆっくり歩を進める。
その表情には微かな笑みが混じっていた。
次の瞬間、巨大な魔物が姿を現す。
しかし、エルナが悲鳴を上げるより早く、一歩前に出たアルベルトはあまりに呆気なく、それを叩き潰したのだ。
軽く振った一撃により、血が飛び散り、肉が裂け、骨が砕ける。
それを見て、エルナは理解してしまった。
彼はやはり人ではない。
人を、いや生物という概念すらも超越した何かなのだと。
エルナは崩れ落ちるように座り込む。
胸の奥にはかすかな違和感が生まれていた。
それは恐怖でも絶望でもない。
もっと微かな消えかけていた灯火のような感情。
(なぜだろう…)
死にたかったはずなのに。
ほんの少しだけ、ほんのわずかにだけ
生きていることに意味を探していた。




