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「聞いていたわね」
「……」
「彼は、自分の正しさを訴えることを諦めてしまったわ」
「……」
緞帳の内側、照明や音響を操作するためのブースの中で、累は抑揚なく言葉を漏らす。
部屋の隅に蟠る闇の中には、腕を縛られて座り込む真菜の姿があった。
累の言葉にも反応を示さず、無言で俯き続けている。
「誤解を避けるために言っておくけど、私が彼にかけた暗示は、『思考の単純化』よ。……つまりあの行動は、間違いなく彼の意識の選択肢の中にあった。それも、かなりの上位に」
「……誰が」
絞り出すように、真菜が言葉を発する。
「誰が、それを証明できるの?……私には、あなたがマツケンくんをおかしくしたようにしか見えなかった……」
「……私の力は、望まないことを強いることは出来ない。あれは、彼が望んでいたからこその行動。それは間違いないわ」
「……心の奥で望んでいることなんて、誰にも責められないじゃない。普通はそんなこと、表に出したりするものじゃないんだから」
「普通は、ね」
心底退屈な意見を聞いたと言いたげな表情で、累は真菜に向き直る。
「では、どうすると普通ではなくなるの?」
「……え?」
「腹の底に醜悪な欲望を溜め込んでいて、それは何かのはずみで爆発する。人の集まる場所はまるで地雷原ね。恐ろしいわ」
「……話を逸らさないで!無理やりそんな事態を引き起こしておいて、何故そんなことが言えるの……?やってることと言ってることが、あまりにも滅茶苦茶よ……」
「では、真菜。貴女はどうなの?」
累の視線と言葉に射抜かれて、真菜の身体が固まる。
「貴女が私を殴ったのも、誰かが無理やりやらせたことなのかしら?」
「…………それは……」
言葉に詰まる真菜を、緩やかに詰問する累。
「それに、滅茶苦茶なのはどっちかしら。貴女、彼のことが好きなんでしょう?」
「……私は……」
「なのにどうして、神谷なんかに靡いたフリをしたの?私に言わせれば、そちらの方がよっぽど理解不能だわ。貴女の行動も、間違いなく彼の怒りを助長させた。なのに、最後の引き金を引いた私だけを、どうして貴女は責められるの?」
「…………」
累は、自身の正しさを百パーセント信じて疑わない言葉を発する。
無感情に淡々と話す声を聞いていると、頭の中が痺れてくる。
自分の方が正しいと主張したい気持ちが萎えて、論理を紡ぐ回路が動きを止めていく。
「……分からない……」
「何?」
「…………分からないの……自分でも、どうして理屈で説明できないことをしちゃうのか……」
「……困ったわね。私には、貴女達がしていることの意味が、全く理解できないわ」
その言葉に、皮肉や当てこすりの気配はない。
本当に、ただ単純に、理解に苦しんでいる様子だった。
「ともあれ、やはりそんな人達に、彼を任せるわけにはいかないわね」
真菜の耳にも届かない程の声量でつぶやいたその声は、意思と決意の熱を帯びていた。
—
大仰な入り口から建物の奥へ進む。
高級ホテルのようなエレベーターホールから、七階へ。
各戸の玄関ポーチが並ぶ廊下は、まるで宮殿のような、非日常的な空間設計だった。
鏡のように磨かれた白い大理石の床と、うっかりすると激突してしまいそうなほど曇りなく磨かれたガラス窓。
ふんだんに光を取り入れられるよう、あちこちに天窓が設けられていた。
703号室の前にたどり着く。
それまで通過してきた部屋の前には、傘立てやネームプレートなど、人が入居していることの証明となるようなものが確認できたのだが、その部屋には住人の私物らしいものは何一つ置かれていなかった。
部屋番号をもう一度確認して間違いがないことを念押ししてから、正和は呼び鈴を押した。
ピンポン、と歯切れのよい呼び出しの音が鳴り響く。
少し不安になるくらいの間を置いて、インターフォンから声が返ってきた。
「……開いてますから、入ってきて下さい」
一つ前のインターフォンで聞いたときも感じたが、覇気も生気もない声だった。
もしかしたら、眠っているところに押しかけて叩き起こしてしまったのだろうか……。
不安になりながら、正和はドアノブを回した。
室内に入っても、そこに人が住んでいる気配は希薄だった。
玄関には履き古した黒のパンプスが一つだけ。
シューズボックスの上には積もった埃以外の物は何もない。
玄関からリビングへ続く廊下の左右にそれぞれ二つずつ扉が見えるが、どれもぴっちりと閉ざされている。
ためらいながら、取り敢えず二人は靴を脱いで上がった。
「……お邪魔します……」
廊下を進んで、導かれるようにリビングへ。
室内は薄暗く、微かに空気が淀んでいるような気がした。
南側一面がガラス張りになっているにも関わらず、ブラインドが閉ざされているせいで光は遮断されていた。
右手には備え付けらしいガラス天板の食卓と、アイランドキッチン。
そして左手には、黒い革張りのソファーがコの字型に並んで、食卓と揃いのコーヒーテーブルを囲んでいた。
正和も涼子も、部屋を一通り見回して、無人だと認識した。
別の部屋かと廊下に戻ろうとして、ソファの方から声をかけられた。
「こっちです」
黒いソファの上に、黒いワンピースを着て、擬態するように腰掛けている人影が言った。
涼子が、怯えるように正和の背中に寄り添った。
「……暗くてごめんなさい。この方が、落ち着くものだから……」
最小限の空気の振動で、その女性は言葉を発する。
「……堀江、玲さん?」
半信半疑のまま、正和は声をかける。
女性は脱力して背もたれに寄りかかったまま、首肯した。
「……はい。お久しぶりです、正和くん」
—
正和と涼子は、勧められるまま玲の向かいに腰掛け、狐につままれたような顔を並べていた。
目の前に座る玲の姿に、累の面影がないわけではない。
だが、具体的にどこが似ているかと問われると、答えられなかった。
ぱさついた髪はろくに手入れもしていないらしく、背中まで伸びて不格好に膨らんでいる。
眠たげな双眸は累の射抜くようなそれとは真逆だったし、何より全身を覆うだらけきった雰囲気が似ても似つかない。
共通点と言えば……。
ほとんど条件反射のように、二人の視線が同時にその胸元に吸い込まれる。
ワンピースの胸元を押し上げる小玉スイカのような膨らみ。
累よりも大きかった。
涼子はあからさまに顔を歪め、正和は目を逸らして咳払いをした。
薄暗い室内では落ち着かなかったが、何となく雰囲気に飲まれて提案もお願いもできなかった。
黙っていてもお茶が出て来る気配もないので、そのまま話し始めることにした。
「えー……あー、玲、さん?」
「はい」
呼びづらそうにその名前を口にする正和と、のんびりしたタイミングで、力のない返事を返す玲。
「俺のこと、覚えててくれたんですか?」
突然訪れて『杉田』と名乗っただけで招き入れてくれたことが気になっていた。
「……ええ、もちろん。忘れたりしないです」
気だるけに息を吐きながら、玲は答えた。
「それに、いつかは会いに来るような気がしていましたから」
「…………」
こうして面と向かっても、正和の中の記憶は戻ってくることはなかった。
正和が過去に接していた玲も、こんなテンションだったのだろうか?
自然と、正和の話し方も、探るように慎重になった。
「えーっと……その、ですね」
「突然押しかけてすみません、玲さん。私、杉田くんの友人で、桑島涼子と申します」
言葉を選ぶように話し始めた正和をまどろっこしげに押し退けて、涼子がまくし立てる。
「お、おい……」
「じれったいのよ。さっさと本題に入りなさいよ」
囁き声でやりとりして、結局涼子が正和を黙らせた。
「今日お邪魔したのは、累さんのことで……」
「…………」
累の名前を出すと、変化に乏しい玲の顔が目に見えて曇った。
「……涼子さん?とお呼びしていいかしら?」
「は、はい。どうぞ」
「……涼子さんは、累ちゃんともお友達なんですか?」
「え?ええ」
「…………」
目を伏せて黙り込む玲。
目が合わないのを良いことに、正和はその相貌をまじまじと見つめた。
長いまつげ、くっきりと浮かぶ隈、微かにやつれた頬。
不健康極まりない様子ではあったが、物憂げな仕草やアンニュイな雰囲気は視線を引きつけるものがあった。
「累は……上手くやっているんですか?」
まるで病状を医師に尋ねるように、玲は聞く。
正和と涼子は、揃って答えあぐね、微妙な表情を浮かべた。
玲はそれだけで、全てを察したように顔を曇らせた。
「……やはり、ダメなんですね」
「い、いえ、ダメってことは……」
正和は慌ててフォローを入れる。
隣で涼子は、拳を口に当てて、玲の発言の真意を探るように黙り込んでいた。
「ちょっと変わった奴ですけど、なんとかやっていってますよ。俺達の他にもう二人、仲のいい奴らがいて……」
「待って、杉田」
玲を安心させようと言葉を重ねる正和を制して、涼子が玲を見つめる。
「まず、累を含めた私達の状況を全部お話します。そしたらその後は、玲さんのことを聞かせてもらってもいいですか?」
正和は、涼子が一緒にいてくれることに感謝し始めていた。
彼女の話の持って行き方は無遠慮でだったが、正和一人ではいつまでも意味のない会話を繰り返していたかもしれない。
しばらく、二人の意図を探るように考え込んだ玲だったが、やがてまた一つ長い息を吐いた。
「……わかりました。お願いします」
どことなく観念したような響きで、玲が承諾する。
涼子は、まるで予め容易をしていたかのように淀みなく、累を中心に今巻き起こっている事件について説明をし始めた。
玲はただ黙って、罪状を読み上げられている被告人のような表情で、聞き入っていた。




