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空には、暗雲が立ち込めていた。
時刻は夕方六時前。
自宅謹慎を命じられていることなど、完全に忘却の彼方だった。
自室の二階の窓から抜け出した松田は、学校への道をひた走る。
数分前、携帯に届いたメールの添付画像には、体育館のステージのような場所で後ろ手に縛られている真菜の姿が写っていた。
『助けたければ、今すぐ学校に来なさい。来ない場合、彼女の無事は保証できない』
差出人は、信じられないことに累だった。
何かの冗談だろうと思いたかったが、画像の端に写り込んだ男子生徒の姿がそれを許さなかった。
ピントはずれていたが、間違いなく神谷裕貴だった。
左腕を三角巾で首から吊っているのは、松田が負わせた傷のためと思われる。
昨日の昼休み途中から夜までの記憶は、酷く曖昧だった。
教師が言うには、突然神谷を投げ飛ばして重傷を負わせたらしい。
他の生徒から聞き出したらしい状況の説明を聞いていると、確かにそんなことをしたような覚えはあるのだが、夢の中の出来事だったのではというくらいの朧気な記憶しか残っていない。
確かなことは、累に話しかけられたところまでの記憶は鮮明であることと、我に返ったときには生徒指導室にいたということ。
まるで夢遊病患者になったような気分だったが、不思議と納得している部分もあった。
真菜の転校のこと、過去に神谷に振るわれた暴力のこと、そして、神谷と真菜の逢瀬を目撃した正和との出来事。
あまりにたくさんの出来事が一挙に押し寄せて、彼の許容量を振り切ってしまっていた。
ただでさえ普段から柔道が九割を占めている彼の脳内は、ここ数日間ずっとパンク寸前だった。
何かのきっかけで爆発してしまうかもしれないという危惧は、常にあった。
昨日がその日だったのだ。
自責と諦観の中で、彼を衝き動かしたのは、累の存在だった。
会って確かめなくてはいけない。
あの時、累は何をしたのか。
そしてこれから、真菜に何をするつもりなのか。
疑念と疑問で頭をいっぱいにして走るうちに、松田は学校の裏門に到着していた。
謹慎処分中な上に、私服のまま飛び出してきているため、あまり目立つ行動は出来ない。
特に教師に目撃されるわけにはいかなかった。
部活を終えて帰路につく生徒たちの間を縫って、新体育館の裏手を回り込んで敷地の隅を目指す。
写真に写っていたのは、恐らく旧体育館だ。
新体育館が造られてから使用されていないその建物は、老朽化を理由に近いうちに取り壊されるとの噂だった。
正面入口は厳重に施錠されていたため、側面に回り込む。
腐りかけた木の引き戸が数センチ開いて、まるで中へと誘っているかように見えた。
息を落ち着けながら、足音を殺して近づく。
近くに人の気配を感じないことを確認してから、引き戸を開け放つ。
体育館の中は暗幕が閉めきられているせいか、濃密な闇に満たされていた。
目を凝らしながら、少しずつ中に足を踏み入れる。
腐りかけた床はミシミシと軋んだ。
時折立ち止まって耳をすませてみるが、全くの無音だった。
目が慣れてくると、微かに館内の様子が視認できるようになってきて、ステージの緞帳が降りていることに気づいた。
写真にはステージ奥の壁が写っていたことを思い出して、歩を進める。
呼び出したのが累であることを考えると、何も起こらないということは考えづらい。
かと言って、進まないわけにはいかなかった。
一刻も早く、真菜の無事を確認しなくては。
その時、かっと音を立てて、スポットライトが焚かれた。
闇に慣れた目に大量の光をぶつけられ、視界が一瞬ホワイトアウトする。
ライトは、ステージ上、緞帳の手前、向かって右手側に立つ人影を照らし出していた。
「…………君は……」
体育館のほぼ中央で、松田は当惑の声を上げる。
同じクラスの、平野愛。
ほとんど接点がなく、会話したこともない女生徒だったが、その様子が普通でないことだけは見て取れた。
虚ろな瞳と、生気のない顔色を乗せた首が微かに回って、松田の方に向いた。
「……松田健太郎。お前は他人の痛みを想像することができるか」
まるで、人形劇のアテレコの声のようだった。
口の動きと一応リンクしているものの、目の前にある体が発せられているのが信じられない。
横隔膜や肺ではなく、喉と口先だけを動かして小手先で空気を震わせているような声。
左手側にもう一つスポットライトが灯る。
その下にいたのは、豊崎亜美。
平野と同じような関係の女生徒が、全く同じ表情で松田を見やる。
「……松田健太郎。お前は自分が傷つけた相手の他にも、痛みを負った人間がいることに気づいているか」
声の質だけではない。
喋り口調も芝居がかっていて、およそ彼女たちの雰囲気には似つかわしくない。
その感情に乏しい話し方は、背後に潜む累の存在をありありと感じさせた。
二人の言葉は、無感情に松田を糾弾していた。
胸に灯る自責の熾火が、一層激しさを増す。
「怒りに身を任せた」
「耐えることを放棄した」
「自分より弱い相手を」
「自分より小さい相手を」
「傷つけた」
「物のように放り投げた」
台本があるかのように、二人は淀みなく言葉を重ねる。
「お前の心の歪みが」
「お前の暴力的な本性が」
「仮面を壊して現れた」
「理性を押しのけて暴れた」
「お前は姑息だ」
「お前は傲慢だ」
「ま、待ってくれ……」
おずおずと、松田は反論の言葉を投げる。
「……僕もあの時、どうしてあんなことをしてしまったのかが分からないんだ……。堀江さんに話しかけられてから、頭がぼーっとして、記憶に靄がかかって……」
一瞬の間を開けて、平野が答える。
「あれこそが、お前の本心」
逆側から、豊崎も答える。
「無意識こそ、本当の欲求」
「そ、そんな……」
心神喪失状態にあったと自覚している松田には、その断言が受け入れられない。
累からの何らかの働きかけが、自分をあんな凶行に駆り立てたのだと、信じたい思いが拭えない。
「お前は、止められなかった」
「お前は、踏みとどまれなかった」
「自分にどれだけの力があって」
「相手がそれを受けてどういう状態になるか」
「理解していたはずなのに」
「予想できたはずなのに」
「違う……違うんだ!僕が、どんな奴か知ってるだろ?!力がいくら強くても、内気で、臆病で、喧嘩なんかまともにしたこともない!」
潔白を訴えるような悲痛な叫びは、黴臭い空気を震わせて響く。
「どうしてあの時だけ、神谷くんに暴力を振るえたのか、僕にも分からないんだ……。きっと、堀江さんが何か、僕に……」
『それこそがお前の正体だ』
見事な和音で声を揃えて、マリオネットのような動きで腕を持ち上げ、平野と豊崎は松田を指差す。
「臆病なふりをして」
「従順なふりをして」
「傍観し続けてきた」
「責任転嫁し続けてきた」
「強く主張しない代わりに」
「責任を負うこともしてこなかった」
「目につくすべてに良い顔をして」
「誰ともぶつからない言葉ばかりを選んで」
「何かが起これば誰かのせい」
「誰かが怒れば知らぬふり」
「自分の意思で人を傷つけておいて」
「自分の手にその感触を残しておいて」
「その事実に向き合うことすらしないのか」
「その咎を他人のものと嘯くのか」
「自分を温和だと認識していただろう」
「自分を柔軟だと盲信していただろう」
「言ってやる。それはただの卑屈だ」
「教えてやる。それはただの思い上がりだ」
耳を覆いたくなるような言葉が、左右交互に襲い来る。
松田は額に脂汗を浮かべて、歯噛みをする。
「力を求めたのは何故?」
「言葉で勝てない屈辱を、覆す術を得るため」
「殴る力でなく、制する力を選んだのは何故?」
「相手を意のままに操ることに、快感を覚えていたから」
「その事実を、認められないのは何故?」
「精神を鍛えることを放棄していたから」
「……好き勝手なこと、言うなよ……」
怒りに震える声を聞いて、平野と豊崎はそれぞれ右と左に、がくんと首を傾げる。
「怒っているの?」
「震えているの?」
「私達が憎い?」
「私達が怖い?」
「なら傷つける?」
「なら黙らせる?」
「乱暴者」
「臆病者」
『それが、お前の正体だ』
「…………ふざけるな!!」
松田の怒号が、緞帳を揺らす。
それが合図であったかのように、もう一つスポットライトが灯った。
ステージの中央、車椅子に腰掛ける人影があった。
三角巾で左腕を吊って、顔に大きなガーゼを貼り付け、左足首にも包帯を巻いている。
「………………か、神谷くん……」
痛々しいその姿に、一瞬にして松田の怒りが萎む。
心配そうに眉根を寄せて、目の端には涙すら浮かべて、松田は神谷に歩み寄る。
「…………るな」
「……え?」
「く……来るな……っ」
取り乱した神谷は、車椅子の上で上半身を仰け反らせる。
車輪をどうにか転がして松田から逃げようと足掻くのだが、左腕が動かない状態ではまともに車椅子を操作できない。
やがて、車椅子は横転し、神谷は芋虫のように這って、緞帳の裏側へと身を隠した。
中途半端に手を挙げかけたまま、松田は固まっていた。
全く予想していなかった反応だった。
神谷ならば、暴言を吐いてくるか、どんな手段を使ってても報復してくるものだとばかり思っていた。
だがなんだ、今のは。
まるで、怪物に怯える子供のようだったではないか。
「怯えているわ」
「恐れているわ」
「お前が、あまりにも無感情に」
「お前が、あまりにも無造作に」
「彼を物のように扱ったから」
「彼をゴミのように放り投げたから」
「彼はお前の本性を知った」
「彼はお前の正体を知った」
「これで分かっただろう」
「これで思い知っただろう」
「お前は恐ろしい」
「お前は不気味だ」
「優しさをうわべに纏って」
「憎しみを心に溜め込んで」
「臆病で卑屈な心を」
「粗野で獰猛な体に乗せ」
「いつ失うとも知れない理性を頼りに生きている」
「どれだけの犠牲を振りまくかも自覚せず過ごしている」
『それが、お前だ』
再度、声を揃えた宣告が下される。
もう松田は、それを否定できなくなっていた。
「どうして、彼を傷つけたの?」
「どうして、怒りを飲み込めなかったの?」
「彼を好きな人がいるとは、想像しなかった?」
「彼に好きな人がいるとは、思いつきもしなかった?」
平野の右目、豊崎の左目から同時に涙が一滴、零れる。
「分かっていたはずよ」
「気づいていたはずなのに」
「知らないふりをした」
「目をつぶってしまった」
「お前にはそれが出来てしまう」
「お前はそして悔みもしない」
「悪いのは」
「弱いのは」
『お前だ』
松田はその場に膝を落とし、呆然と、車輪が空転する車椅子を見つめる。
やがて、滂沱の涙が彼の頬を濡らした。
もうその口から、弁明の言葉が出てくることは無かった。




