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渡り廊下を駆け抜けて、サビの浮いた鉄扉を勢い良く開く。
鈍い金属音が室内に響き渡って、乱取りをしていた部員たちが全員、突然の闖入者の方を見つめた。
「マツケン!」
ただ一言、名前を呼ぶ。
他の部員たちが振り返る素振りで、奥の方にいた松田を見つけた。
「……杉田くん?」
道着の乱れを直しながら、正和の前に出てくる松田。
「ちっと、来てくれ」
「え……でも……」
「いいから。緊急」
出来るかぎり苛立ちと憤りを抑えて言葉を口にしたつもりだったが、上手く出来た自信は無かった。
訝りつつも部長に許可をもらい、正和に続いて柔道場の外に出る松田。
雨の中、渡り廊下を校舎方面とは逆に少し進んで、他の生徒の気配が無い場所まで離れる。
振り向くと、松田は少し怯えたような表情で尋ねてきた。
「どうしたの?急に……」
正和は奥歯をきしらせ、自分でも何故そこまで苛ついているのかを理解できないまま、責めるように答えた。
「……さっき、校舎の外で花澤さんを見たんだよ。神谷のやつと一緒だった」
「……」
松田の表情に少しの驚きが浮かぶ。
その変化の緩慢さに、また正和は苛立った。
「……そうなんだ……」
呟くような声で、独り言のように漏らす松田。
「そうなんだ、じゃねぇよ!どうなってんだよ?!」
「……どうって、どういうこと?」
正和が言いたいことを充分に理解しているはずなのに、わざとはぐらかすように視線をそらす松田。
「いいのかよ?!あんないけ好かない野郎に、花澤さんを」
「は、花澤さんの自由だよ。僕がどうこう言う話じゃないよ……」
正和の言葉尻を食って、投げやりに松田は答える。
湧き上がってくる怒りに、二の句を継げない正和。
「……部活に戻らなきゃいけないから」
「待てよ!っざけんなこの野郎!」
正和の怒号が、雨音を少し遠ざけた。
「……」
「……」
睨み合ううちに少しだけ落ち着きを取り戻して、正和は諭すように続ける。
「……ほっといていいのかよ……?花澤さんのこと、好きなんだろ?」
「…………」
肯定を意味する沈黙とともに、松田は俯く。
「今からでも遅くねぇって。追いかけて、取り返して来いよ!」
「……僕には、無理だよ……」
正和の両手が、柔道着の襟を掴む。
そのまま松田の巨体を押しやって、渡り廊下の鉄柱にぶつける。
ごぉんと、銅鑼を打ち鳴らしたような音が辺りに響いた。
「……マジでいい加減にしろ……。言いがかりつけられて絡まれてぶん殴られて、惚れた女をかっさらわれそうになって、まさかこのまま黙ってるつもりじゃねぇだろうな」
「……殴られたって……どうしてそのこと……」
「……やっぱそうだったんだな」
誘導尋問的に確信を得て、更に怒りが加熱するのを感じた。
松田が理不尽に殴打されたこと、その相手が真菜にちょっかいを出していること。
どれも気に入らないが、何より一番腹立たしいのは目の前の松田の態度だった。
松田の真菜に対する想いは、真摯なもののはずだ。
真菜もほぼ間違いなく、松田に好意を持っている。
二人は、今時珍しいほど純粋な恋愛感情で惹かれ合っている。
共通の友人としてそばにいた正和には分かる。
だというのに、何故。
松田の優柔不断さや臆病さだけが理由なら、流石に許せない。
二人の大切な友人同士が結ばれる機会をみすみす見過ごすなんて、正和には耐えられない。
「……花澤さん、俺が見てるのに気づいて、取り乱してたよ」
「……」
「何も言ってこなかったけど、何考えてるかはっきり分かった。花澤さんは、お前に引き止めて欲しがってる」
「……どうしてそんなこと、分かるんだよ……」
「なんで分からねぇと思うんだよ?!」
もう一度、怒号が響く。
「……俺ら、ダチだろ……。お前も……花澤さんも……俺は親友だと思ってたのに……お前は、違うのかよ。……そう思ってくれてなかったのかよ……!」
寂しさ、情けなさ、失望、懇願、不安。
色々な言葉が正和の頭の中で渦巻いていた。
それでも、生まれて初めてとも思える激しさで、正和は感情をぶちまけていた。
形振り構わない正和の激昂に、松田の目が潤んだ。
感傷的で感受性豊かな彼が友人関係について、正和以上に強い思い入れを持っていないはずはなかった。
「……ごめん、杉田くん……」
罪を認めるように、松田は告白する。
「…………実は、僕、花澤さんに聞いちゃったんだ」
無言で、続きを促す正和。
松田はしばらく逡巡するように黙り込んだ後、ぽつりと漏らす。
「……花澤さん、また転校するらしいんだ……」
—
「は……?」
耳を疑う、というのはこのことだろう。
正和は場違いなほど気の抜けた声を上げて、我知らず松田の襟を手放していた。
本当は、全く想像もしていなかった可能性ではなかった。
転校初日に真菜自身が口にしていたことでもあり、彼女の家庭の事情から考えれば、むしろ考慮しておくべきことだったのかもしれない。
「……ご両親の仕事が好調らしくて、都内の事務所から声がかかったんだって……六月中には引っ越すらしい」
しかし、真菜の両親の仕事にまで関与した正和の立場としては、その事実があまりに強烈過ぎた。
もしかしたら、正和が二人を漫才にけしかけたことがこの結果を招いたのかもしれないと思うと、松田にぶつけた憤りが全て自分自身に返ってきたかのように感じられた。
いやいや、と正和は頭を振って考えを切り替える。
「だ、だったら尚更、なんで部活なんかやってんだよ!!時間ねぇんだろ?!」
口に出してみて、松田を責めた今までの言葉は間違いではなく、むしろ的を射ていたことに気づいた。
「今からでも行けよ!神谷なんかにやる時間なんか、もう一秒も……」
「……いいんだ。どうせ僕は、花澤さんには釣り合わないよ……。まだ神谷くんのほうが、彼女のこと退屈はさせないだろうから……僕なんかよりお似合いさ」
「…………」
違う、と声に出して言いたかった。
正和の知る限り、真菜は神谷と過ごしている時に、クスリとも笑ってみせたことはない。
いわゆるプレイボーイな彼の振る舞いや話術に、真菜の心が傾くはずはない。
そんなこと百も承知のはずの松田が諦め顔で居ることに、正和は困惑するしか無い。
「……僕は、柔道しか取り柄がないからさ。恋愛に夢中になって部活をおろそかにはできないんだよ」
「いや……でも……」
「それにさ、もし全部うまくいって、僕が花澤さんと付き合えるとしたってさ。いきなり遠距離恋愛なんて、器用に続けていける自信ないよ……」
必要以上に潔い諦めは、きっと失うことを過剰に恐れるあまりの予防線だろう。
臆病な松田らしい、といえばそれまでだった。
「……それで、いいのかよ……」
我が事のように、いや、それ以上に辛く、受け入れがたい。
「……もう、決めたんだ。……そばにいられないならさ、好きだったことも忘れちゃったほうが楽だと思うんだ」
本気で異性を好きになったことのない正和には、理解できない理論だった。
(…………あれ……?)
好きになったことがない?
本当だろうか。
過去、いつだったか、正和も身を焦がすような想いを噛み締めた経験があったような……。
もう一度頭を振って、正和は余計な思考を脳から振るい落とした。
今はそんな場合ではない。
「……杉田くんと堀江さんには、感謝してもし足りないよ」
「……何でだよ?」
「ほら、球技大会のこと」
正和が顔を上げる。
漠然と、嫌な予感がしていた。
「花澤さんに転校のこと言われた時にさ……思いついたんだ。花澤さんと、杉田くんたちとみんなで、何か大きな、いい思い出を残すなら、これしかないって」
「……それで、急に球技大会に?」
「うん。まさか優勝できるなんて思ってなかったけど……。一緒に頑張って練習して、笑って、忘れられない経験が出来た」
松田の口を塞いでしまいたかった。
自分が大切に思っている記憶の意味合いを、捻じ曲げられてしまいそうな気がした。
「花澤さんも、短い時間だったけど、この学校にいたことを忘れないでいてくれると思うんだ」
違う。
正和はそんな後ろ向きな想いで参加していなかった。
あの大会で、涼子は怪我までして、累は寝込むほど根を詰めた。
彼女らの奮闘は決して、松田の恋心を思い出の中に閉じ込めて諦めさせるためにあったわけではない。
何より、松田にだけ転校の事実を伝えた真菜の淡い期待を、彼は見て見ぬふりしようとしている。
「ありがとう、杉田くん」
その一言で、正和の胸で燃えるような怒りと、それ以上のやるせなさが爆発した。
友人たち全員の想いを無礙にしておいて、何がありがとうだ。
「……けんな……」
「え……?」
「…………ふっざけんなぁあ!!」
正和が拳を振り上げる。
彼を止められる幼馴染は、残念ながらその場には居なかった。




