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「待って」
後ろから抱きすくめられて、正和は我に返る。
二次発酵を済ませた後のパン生地のような柔らかい感触が二つ、それぞれ左右の背筋に押し付けられた。
「……っ!」
正和を羽交い締めにしたのは、累だった。
正和の顔が、怒りとは違う理由で赤く染まる。
「正くんが手を下す必要はないわ。望むことがあるなら、私に言って」
「……累」
「もしお望みなら、その中途半端な磯辺焼きみたいな頭の男を精神的に回復不可能な勃起不全に陥らせて、子孫を残せなくしてもいい」
「いや、何もそこまでは……」
「でも今その人を個人攻撃することは、正くんが一つ前に私に伝えた願いの成就とぶつかるわ。やりようによっては私たちは失格よ。正くん、どちらを強く望むの?」
「……」
一つ前の願い。
ついさっき、試合開始前のことだ。
正和はこの大会で優勝したいと望んだ。
だというのに、頭に血が上って後先考えなくなっている自分を自覚して、正和は右手を下ろした。
辺りを見回す。
真菜と松田は心配そうな顔で正和を見つめている。
足を抱えて痛みに顔を歪める涼子も、暴走しかけている正和を咎めるように睨んでいた。
「……悪い。ちょっと、どうかしてた」
正和のチームメイトたちはその言葉に安堵したように表情を緩めたが、殴りかかられそうになったモヒカンはここぞとばかりに悪態をつく。
「ダッセ。女に言われてビビんなら最初っから黙ってろよ」
細谷以外の2Aメンバーが嘲笑の声を上げる。
正和が彼らを睨みつける前に、松田が一歩前に歩み出た。
「い、いい加減にしろよっ!審判から見えてなかったとしても、杉田くん以外にも目撃者はいるかもしれないだろ!桑島さんを転ばせたのがわざとだったとしたら、立派な傷害だぞ!」
「はい?競技中に起きたことっしょ?夢中になって周りが見えなくなることくらいよくあるんじゃねーの?ってか狙ってやったって証拠なんかどこにもねーんだけど?」
「なにをっ……!」
「おいおいおい、マツケン!」
せっかく正和が我に返ったというのに、続いて松田が熱くしまっては元の木阿弥だ。
「俺が言えたこっちゃねーけど、落ち着け」
「……」
「それよりほら、桑島」
揉めている間に、涼子は真菜の肩を借りて立ち上がれるようにはなっていた。
「……どうだ?」
「……骨は折れてないみたい。引きずって歩くくらいなら、なんとかなりそう」
左足を庇いながら、ひょこひょこと数歩歩いて見せる涼子。
「無理しないほうが……」
「そりゃそうだけどね……。交代要員なんていないんだから、少しでも動けるなら、コートに立ってないと」
「桑島……」
「……お願い。出てたいの。絶対に、何かの役には立つから」
Tシャツの肩で頰の汗を拭って、涼子は決意の光をその目に灯す。
誰も、彼女にそれ以上の声はかけられなかった。
「再開できますか?」
審判が声をかけてきて、試合がリスタートされる。
2Aチーム側のエンドラインからスローイン。
ディフェンスに走る四人。
残りの一人、桑島は、相手ゴールの真下で待機した。
まともに走れないなら守備には参加せず、カウンター要員としてそこに張り付いていた方が有益だと判断したらしい。
2Aの攻撃。
実質五対三となっては、さすがに分が悪かった。
特に工夫のない攻撃で、あっさりと点を奪われた。
松田からのスローインを受け取って、相手ゴールに向き直ろうとした正和は、すぐそばに敵の気配を感じて驚く。
2Aの作戦変更は露骨なものだった。
数的有利な状況になった途端、守備の前線を押し上げてきた。
金髪とドレッドヘア二人に挟まれ、正和は焦りに呻く。
「くっ……」
苦し紛れに、真菜にパスを出す。
読まれていたのか、同時に細谷が真菜に向けてダッシュする。
巨体の突進に慄いた真菜はあっさりとボールを奪われ、連続得点を許してしまった。
「ご、ごめんなさい……」
「ドンマイ、花澤さん。大丈夫、まだ16-10だ」
もう一度、松田からのスローイン。
累が受け取り、ディフェンスに捕まる前に正和に渡す。
少しドリブルして、正和から松田へ。
正和と累にマークが二人ずつついている。
腰を落として、細谷が松田に迫る。
「……」
「……」
意味ありげな視線を交わして、二人の間の空気が緊張する。
松田はほとんど背を向けた体制から、後ずさりするようにしてゴールににじり寄る。
腰同士をぶつけて、松田の侵入を力づくで食い止める細谷。
「……どした、そんなもんか?」
「……!」
渾身の力で前進しようとする松田を押し留めてなお、細谷の声には余裕があった。
馬力勝負に負けた動揺を、細谷は見逃さない。
巨体に似つかわしくない俊敏さで松田の懐に手を差し入れ、ボールをはじき出す。
「あっ……!」
カウンター。
ディフェンスの追随を許さない俊足でゴールまでたどり着いた細谷は、豪快なワンハンドダンクシュートを決めて見せた。
2A陣営に歓声が湧く。
残り時間は約二分。
点差はわずか四。
正和たちの顔に焦りが浮かぶ。
「まずいな……」
「桑島さんが一人欠けただけで、こんなに苦しくなるなんて……」
「もう一本決めちまえば、時間的に勝負ありなんだけどな……。累。スリー、狙えるか?」
「あれだけ長身のディフェンス二人に張り付かれていると、ほぼ間違いなくブロックされるわ」
「そうだよな……」
「わ、私、スクリーンする」
三人の視線が、真菜に集中した。
「でも……花澤さん」
「私も、役に立ちたい。お願い、やらせて」
怯えを抑え込んで、真菜は拳を固める。
この試合活躍の場を作れていない彼女としては、思うところがあるのだろう。
正和はゆっくりと頷いた。
再開。
先程と同じようにボールを運ぶと、狙い通り再び松田対細谷の一対一の構図が出来上がった。
「またやるかい。……多分結果は一緒だぜ?」
「……」
ニヤリと笑う細谷。
その背後から、息を殺して真菜が迫る。
一瞬のアイコンタクト。
正和と累が、マークを引き連れて左右に散る。
真菜が細谷の左半身に密着する瞬間、松田は全速のドリブルで右側から抜きにかかる。
「ぬっ?」
左肩が真菜にぶつかった瞬間、細谷は松田を追う足を止める。
真菜は思い切り仰け反ったが、はじき飛ばされはしなかった。
「よし!行け、マツケン!!」
目論見は見事に決まった。
松田は無人のゴールへ、距離を詰めた。
完全フリーの状態で、ゴールの真下からジャンプシュートを放つ。
「……くそっ!」
遅れて、細谷がゴールへ駆ける。
真菜が身を挺して稼いだその一瞬は、普通に考えれば致命的な遅延のはずだった。
しかし、細谷の身体能力は全くもって『普通』ではなかった。
グローブのような右手を伸ばして、松田のシュートコースに指先をねじ込むように跳ぶ。
その指先が、リングに向けて放たれたボールの表面を微かに引っ掻いた。
軌道の膨らんだボールは、リングの上で二度バウンドして、無情にもその輪の外側にこぼれた。
「……リバウンド!」
累の声が飛ぶ。
ゴール下でぶつかり合う二つの巨体。
運悪く、ボールは細谷の真上に落ちてきた。
同時に跳んだ細谷と松田。
位置的有利の上にパワーで勝る細谷が、捕球をしくじる筈もなかった。
「速攻!」
パワフルなショルダーパスで、ボールをコート縦断させる細谷。
駆け出していた茶髪が辛くもパスを拾い、レイアップで決めた。
16−14。
気がつけば、あと一本で同点という状況まで来ていた。




