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「あらぁ、私、言わなかったかしら?」
こういうシチュエーションにおけるテンプレートのような台詞を吐きながら、正和の母、美幸はとぼける。
「聞いてねぇっつの……」
正和、美幸、累の三人で囲んだ夕餉の後、皿洗いをしながら母子は水掛け論を続けていた。
カレー皿を水で流し、あらかたの汚れを落としてからスポンジを手に取る正和。
慣れた手つきで次々と皿を洗ってシンクの左側に積む。
美幸はそれをすすいで、水切りトレイの上に整然と並べていく。
いつも遅い父の帰りを待つ間の日課だった。
「別にいいじゃない。アンタにリビングで寝ろとか言ってるわけじゃないんだし」
「……そりゃそうだけど」
杉田家の二階には、一つ空き部屋がある。
かつて正和の兄、勝幸が自室としていた子供部屋だ。
勝幸は大学入学を機に一人暮らしを始めたため、今はゲストルーム扱いされている。
累は今夜そこで寝ることになるのだろう。
「何?いっちょまえに緊張してるの?女の子が家に泊まりだからって」
「そういうからかいかた、やめろよ」
「別に期待してるようなことは何も起きないわよ。普通にしてなさい」
「やめろっつのに」
「それにしても累ちゃん、女らしくなったわねぇ。パイオツカイデーね」
「エロオヤジかアンタは!?」
「いやいや、本当よ。高校一年であれはちょっと珍しいと思うもの」
「……実の息子にそんなこと力説する母親のほうがレアだわ」
「だからって正和、変なことしちゃダメよ?花澤さんのお家からの大事なお預かりものなんだから」
「……『だからって』って何なんだよ……」
「正和はお父さん似だからね」
「やめろ。今度こそ、本当に!」
巨乳好きが遺伝するという説について、本人の男性遍歴を交えて独自の見解を披露する母親にスポンジを投げつけ、正和は手を洗って自室に引き上げた。
「……息子にその話聞かせてどんなリアクションさせたいんだ。ったく」
独り言ちて、鞄を机の前に放り投げ、ベッドに身を投げ出す。
思えば、正和のツッコミ体質は、どこかズレた言動の多い母親と接する時間の中で身についてしまったもののように思う。
関係は悪くないのだが、家族だからこそのタブーをズケズケと口にしてしまう気遣いのなさにうんざりするときもある。今日のように。
歯切れのよいノックの音が、室内に響く。
「正くん、お風呂空いたわ。お母さんが、早く入れって」
「お、おう……」
「飲みすぎないようにね」
「……わざと目的語を省いてないか?」
「伝わればいいのよ」
悔しいが、伝わってしまっていた。
遠ざかっていくスリッパの足音。
累の、こちらを見透かした上での奇天烈な言動に比べれば、美幸など、まだ可愛いものだ。
深いため息とともに、正和は横たえたばかりの体を大儀そうに持ち上げ、浴室に向かった。
—
累が変なことを言ってきたせいで、なんとなく湯船につかることが憚られた。
特に問題もないので、シャワーだけで済ませてしまおうと決めた後で、閉じられた風呂桶の蓋を眺めてふと考える。
変に意識して湯船を使わないというのは、不自然ではないだろうか。
「…………」
全裸で浴室に佇んで、黙考する正和。
基本的にこの場所は、プライベートな空間のはずだ。
何をしようと誰が見ているわけではないし、咎められるはずもない。
どうしようと自由なはずだった。
普段から湯船に浸かるのは習慣なのだから、いつもと同じように入浴するだけだと自分に言い聞かせて、正和は蓋に手をかける。
しかし、自分に言い聞かせるような理由を見つけようとしている時点で、「いつもと同じ」ではないと気づいて手を止める。
そもそも、女子が入ったあとのお湯だからどうだというのだ。
そんなことを気にする考えが出てくるほうが変態的ではないだろうか。
いや、思春期の男子が、幼馴染とは言え同級生の女子がその身を浸した液体となれば、無頓着ではいられないのは自然なこと?
累は客だ。
一番風呂に入る資格は十分にある。
しかし普段ならばそれは正和の権利のはずだった。
それを侵害された上に、何故自分が気を使って我慢をしなくてはならないのか。
よしと頷いてもう一度蓋に手をかける。
「…………」
待てよと正和は思う。
手が止まる。
累の気持ちはどうだろうか?
思春期の女子的に、自分が浸かったお湯に、同世代の男子が入るという現象はどうなのだろうか。
やはり、恥ずかしいものなのだろうか?
……馬鹿らしい。
あの累がそんなことを気にするものか。
正和を馬鹿にするためなら、一緒に風呂に入ることだって躊躇わないだろう。
思い直して、改めて蓋を外そうとして、また止まる。
仮に。
本当に仮の話として……何とは言わないが、何らかの残留物があったとして。
それを目の当たりにした後に自分は、その後累とまともに接することができるだろうか。
そしてその残留物を、どうするのが正解だろうか……。
1.無視する。2.浴槽の外に流す。3.持ち帰ってお守りにする。
「3はない!ないったらない!」
正和は頭を振って変な考えを振り払う。
かといって1も無理だ。
きっと意識せずにはいられない。
では2はどうだろう?
これが一番無難な行動のような気がするが……。
手桶で掬って、流す。
その動作をしている時、果たして正和自身どんな気分になるだろうか……。
ここまで考えてしまったら、まず風呂の蓋をどかしたあと、間違いなくお湯の表面を確認するハメになる。
その変態っぽい確認をしている時、果たして正和自身は自己嫌悪に陥らずにいられるだろうか。
普通の女子なら、その後に同級生が入るとなったら、上がる時に入念なチェックをするだろう。
しかし累なら、逆に意図的に残していく可能性もなくはない。
下手をすると『抜いて』浮かべておくくらいはやるかもしれない。
その様を想像しかけて、正和は声にならない声を上げた。
(なんつー想像をしてるんだ俺は!)
浴室に入ってからすでに五分。
蓋に手をかけたり手を戻したりを繰り返している。
累に翻弄された涼子の気持ちが、少しだけわかったような気がしてきた。
やはり、この蓋は開けるべきではないと、正和は結論づけた。
パンドラの箱と分かっていて手を付けるのは、愚か者のすることだ。
意識してしまっていることだけ認めてしまえば、癪ではあるがとりあえず楽にはなる。
とりあえず、頭と体を洗ってしまおうと決心して、シャワーの蛇口を捻った。
『飲みすぎないようにね』
シャンプーを泡立てていると、累の言葉がフラッシュバックする。
今思えば、そこはかとなく馬鹿にしたような響きのある声だった。
風呂桶のお湯を飲むなんて発想自体、よく考えてみれば異常だ。
何を、とは言われていないが文脈から考えれば目的語は明らかだった。
その時、新たな可能性に気づいて両手を止める。
もしかしたら、あの言葉は布石で、累は正和がこういう状態に陥ることを予想していたのではないだろうか。
飲むは行き過ぎにしても、入ろうか悩んだり、複雑な気持ちで浸かったりさせておいて、『実は浸かっていなかった』というオチを用意しているのではないだろうか。
だとしたら今までの葛藤は全て無意味だったことになるし、一番風呂を逃してしまうことになる。
……折角?今まで一番風呂などにありがたみを感じていただろうか?
これもまた、自分に言い聞かせるための言い訳なのではないだろうか。
体を洗い終えた正和は、もう一度風呂の蓋に手をかけていた。
彼は怒っていた。
もう累の思惑に振り回されるのはうんざりだった。
(もう何が浮いてようが気にするか!普通に入ってやる!)
決意とともに、勢い良く蓋を開く。
「…………」
黒いゴム栓が、外れている。
お湯は、一滴も湯船の中に無かった。
そして湯船の底に一枚、付箋が張ってあった。
『残念でした。
P.S. 私はまだ生えてないわ』
どんな想像をするかまで、具体的に見透かされていたらしい。
正和の頭の中がホワイトアウトしていく。
全裸で浴室に膝をつき、うなだれる正和。
「……俺は……俺はなんて無駄な時間を……」
熱い涙が、浴室の床を濡らした。




