第12話
ヤンが超絶上機嫌なまま家に帰り、あんなことやこんなことをしたりしなかったり──俺はそんな天国に近いような、いや、しかし、相手がヤンという悪魔っ子であることを考えると地獄? に近いような素晴らしい桃色煩悩タイムを味わったりしていた。
すまない、諸君、羨ましかろう。だが、これはある意味当然の結果と言えるのではないだろうか。俺は高い代償を支払っているのだ。世の中リスクとリターンは一致するものだ。そう出来ている。リターンを得るためにはそれ相応のリスクを背負わなければならないのだ。俺はそのリスクとして、死後地獄へ落ちても構わないという宣言をした。いいんだ、天使と悪魔はいたかもしれないが、それによって死後の世界の証明がされた訳でもない──あるかどうか分からないに加えて、天国へ行ったからって欲にまみれた生活をできる訳でもない。
そう考えれば、俺は、今、目の前にある現実に対して最大限の恩恵を受けるために、そういった選択をしたというのは間違っていなかったのだと思う。いやいや、何も、よい行いをする方々を否定している訳ではない。将来を考えて、今を我慢し、未来に生きるというの一つの生き方だろう。とても立派だ。そう言う人が人類を発展させてきたのかもしれない。その一方で、将来のことを考えず、目の前にある刹那的な欲求を満たすために人生を捧げる、なんていう生き方が出来るのは人間だけだとは思わないか? どうだ、いいだろう、深く聞こえるだろう。
俺は、ちょっと香ばしいニーソックスを口に含みながらそんなことを考えていた。誰のニーソックスかなんて野暮なことを聞いたらいけない。これは俺が地獄へ行く代償として手に入れたヤンくんの脱ぎたてほやほやのニーソックスなのだ。ちなみに、この場合、俺は地獄へ落ちるというリスクと同時に、なんか変な養分とかをニーソックスから取り入れてしまい健康を害している可能性があるというリスクも犯している。
「ねぇ、それもうあげるから返さないでね……」
ヤンがものすごぉく呆れた顔で俺に告げる。
ちなみに、俺がこの偉大なる男の子の断片を手に入れるために要したやり取りは次のようになっている。
「ヤンくん、お願いがあるんだけど」
「なに? 今なら機嫌いいから少しくらいなら聞いてやらんこともないな~」
「その、脚に履いているものをくれ!」
「…………」
その後、ヤンくんは無言でニーソックスを脱ぐと、俺の顔めがけてビタンと投げつけてきたのである。ふふ、それが俺に対してのご褒美だということをまだ分かってないのか、この悪魔くんは……。学習能力がないなぁ~、いいことだけど。
とばかりに俺は受け取り、しばらく数分、今に至る訳である。あ、勿論、他のことは何もしてない。このなんとも説明しがたい謎の状況こそ今の俺にとっての至福の時なのだ。
「あ、ごめん、ちょっとあまりに長い時間悦に浸りすぎた……」
俺は、俺を無言で見続けるヤンに言う。
「…………」
ヤンはただただ俺を見下ろして、呟いた。
「……きっっっも。地獄に落ちろ」
「はい!」
そうして、今、この状況に至るという訳である。俺が、返さないでね、という言葉に対して無言でずっとヤンのことを見つめていると、
「聞いてんの……? それ、返さなくていいから……ゴミ箱に捨ててね……」
と催促されたため、俺はすかさず、
「ありがとう! でも、捨てずにジッパーに入れて保管しておくよ!」
などと調子に乗ったことを言ってみる。
「やっぱ返せ、今すぐに」
ヤンは何とも言えない気持ち悪いものを見る顔で俺から、俺が堪能し尽くしたニーソックスを奪い取ると、ぼそぼそと何かを呟き、ニーソックスを焼却、灰へ変えてしまう。おぉう、デビル、パワー……。
「あー! なんてことをしてくれるんだ! 返せ! 俺の夢のかけらを!」
「お前の夢は灰になったんだよ! 次はお前を灰にしてやろうか!」
「ひー!」
俺は足蹴にされる。ちょっとやりすぎたのだろうか。
そんな変態チックなやり取りをヤンときゃっきゃうふふして繰り広げていた時のことである。俺の携帯電話に何やら通知が来る。
「なんだ、なんだ」
俺は、普段全く息をしてくれない携帯電話に通知が来てくれたことに対して少し動揺気味になり、盛り上がっていた(ただし、俺が一方的に)ヤンとのやり取りを中止してすぐに携帯電話を確認する。そこに映し出されていたのたのは一言のメッセージ。
送り主は──姫野さんだった。
姫野さんだ! 余談だが、姫野結斗というフルネームで登録するだなんていう夢のないことを俺はしていない。男なら、男らしく、堂々と。姫野ちゃん、結斗くん? ノンノン、通知に映し出されている文字は勿論ゆいゆい、だ。俺は姫野さんのことをゆいゆいと本人を目の前にして呼んでやるんだ~! いや、でもあれでもいいな、結斗、とか。あ、もしくは、ゆい、とかでも……。
いかんいかん、そんなことを考えている場合ではない。俺は頭がお花畑になる寸前でお花畑物語を考えるのを一旦ストップし、現実世界へと思考を戻す。まずやることは何か? メッセージを読むこと? いやいや、違う。そうじゃない。人間とは学習する生き物だ。まずはメッセージの中身を確認するよりも前に、最優先にしなければいけないことがある。それは、そう、過去の失敗においてその最大の要因となっていたヤンにメッセージを見られないようにするということだ。
幸いにも、ヤンは、俺にさほど関心を払ってはいない。自分で言っては世話ないが、俺のニーソックス頬張り行為がようやく終わったことによって、俺からようやく目を背けることが出来るからだ。いや、だが、そんなことで油断していてはならない。ヤンの意識が俺の触る携帯電話に行くのを恐れなければならない。幸いにもまだ触り出して数秒、ヤンの意識は当然ながら携帯電話へは向いていない……。
そして、ヤンの目を盗んでメッセージを確認し、返信を終えるために必要な時間──俺の日々の鍛錬によってデジタル文字を読むために鍛え上げられた眼力、日々の鍛錬によってより素早く入力操作が出来るように鍛えあげられた入力技術をもってすれば、確認から返信まで、三十秒もあればいける……! 出来る、俺は出来る子だと言い聞かせる。しかし、決定打がない。決定打、何かヤンの注意を逸らすための決定打が欲しい……!
そうだ!
「あ~、そうだ、ヤン~あー、確か水ようかんが冷蔵庫の中に入ってたような気がするなぁ。今日は色々と良い思いをさせてもらったからさ、あげるよ~」
勿論、水ようかんをヤンに全て食べられてから買い足してはいない。怒られるだろう。とっても怒られるだろう。だが、それくらいはむしろご褒美です。なんて頭が働いちゃうんだ、俺っ! 天才かもぉ~!
「ん~! おぉー、まぁ、それくらいは貰ってやらんとな~」
ヤンが部屋から出て冷蔵庫へと向かっていく。今っ! 俺はすぐに携帯電話に来ていた姫野さんからのメッセージを確認するっ!
「なになに……」
そこには、俺が予想しているものよりも遥かに好意的なメッセージが書かれていた。そして、何より重要な一文として、会いたい、ということ。ついでに、ヤンくんはいないところがいい、ということが書かれていた。
俺は興奮する。せざるを得ない。いやいや、うん、勿論、これだって姫野さんが俺を利用しようとして、例の有名絵師と接触したいからしている行動なのかもしれないよ? でもでも、でもですよ、そうだとしても、俺と遊ぶことや、会うことに対してあっちからこうやって誘ってきてくれるというのはどうなんでしょうか! それに、もっと言えば、ヤンがいないところで、なんてことも言っている。これはこれは、ひょっとすると、ひょっとするんじゃないのか?
けど、危ないところだった。これがヤンに知られでもしていたら一体どうなっていたことか。せっかくの俺の素敵体験はまたまた邪魔されたに違いない……。
俺は、素早く了承の旨を伝えると共に携帯電話を急いでロックする。これで大丈夫、これで今度こそうまくやれるに違いない、そういう希望を込めた返信を送って。
「おい! おらぁ!」
ヤンが部屋に荒々しく入ってきて、俺の顔を踏みつけようとする。俺はその勢いで来られると確実に鼻血とかが出ると判断し、とっさに避ける。ズガァン、という音がする程の勢いでヤンの足は床を叩き、俺の手を踏みつけた。
「っっっ! たぁ!」
思わず叫ぶ俺に、けれども、ヤンは容赦なく、顔を近づけて不機嫌極まりない表情で怒りをぶつけてくる。
「どういうことだぁ! おい!」
あ、めっちゃキレてる。怖いぃよぉお……。原因は分かっている。だって、ないんだもん、水ようかん……。そりゃ怒る。誰だって怒るだろう。ごめんよぉ、ヤンきゅんんん……。
「ご、ごめん、ごめん! あれ、っかしいなぁ、買ったはずなのになぁ」
「はず、で済めば悪魔はいらないんだよ! お前は悪魔かぁ! ボクの期待を裏切って楽しいのかぁ!」
ヤンがストレートに感情をむき出しにしてくる。呆れただとか、蔑むだとか、そんなことではなしに、それはもうストレートに感情を表現してくるものだから、俺も罪悪感を覚える。
「あー……そうだ、うん、よし、じゃ、今から買い物に行くから……その時、買ってくるから」
「……五倍だ」
「ご?」
「…………」
ヤンがちょっぴり泣きそうな目で言ってくる。そ、そんなに水ようかん好きなのか、この子は……。多少の出費は止むを得まい。この悪魔、魂あげるより水ようかんあげた方が喜んでるんじゃないか……? 大丈夫か、ヤンよ。
そんなことを思いながらも俺は水ようかんを無事入手する。五本も食べて大丈夫なものなのか、水ようかん……。
俺は水ようかんをヤンに与えつつ、パソコンの前へと座る。いつもの日課だ。俺のパートナーなんだ、この画面は。
「そういえばさぁ」
そんな俺に、ヤンが水ようかんを食べながら話しかけてくる。通常、ヤンから俺に絡んでくることなんてそんなにないのだが──。俺は椅子に座ったまま、ベッドに座って水ようかんを頬張っているヤンへと身体を向ける。
「……ゆいゆいってさぁ」
「!?」
俺はびくんと身体を動かしそうになる。ばれたっ!? 何かがばれたっ!? いやいや、焦る必要はない。焦っては怪しまれるだけ、俺は冷静に返答することを心がける。
「ん? ど、どうしたぁ? 姫野さんが、何かあったのかぁ?」
ちょっと声が変だっただろうか? 俺は誤魔化すように咳ばらいをする。ヤンは俺へと真剣に目線は向けていないようで、水ようかんへ視線を注ぐのに必死だ。観察されていないようだ、助かった。
「あの子、可愛いよね」
「そ、そうだな? いきなりどうしたんだ」
何を言い出すかと思えば……。何を言い出しているんだ?
「ていうか、お前さー、あの子に利用されようとしてたんだろ? 何にも思わない訳?」
「だからー、それについては前も説明しただろ? それに、や、うん、そういうことなんだよ」
俺は、危うく、姫野さんが俺に好意的なことや、先ほどの件を口にしようとしてしまった。いかんいかん、さっきの出来事が嬉しすぎて気持ちが昂ってしまっているようだ……。
「……ふーん、そっか」
「どうしたんだよ、いきなり」
「いやー、別に~。いいんじゃなーい」
「あ、さてはヤキモチ、とか?」
「はぁ……」
ヤンは大きな大きなため息をつく。あ、違ったんだろうか。しかし、これといって反論はしてこない。うーん……判断に悩む。まぁ、しかし、例え、こんな俺だったとしても、もうしばらくの間、ヤンくんとは毎日顔を合わせている訳だし、これから一生顔を合わせ続ける予定な訳だし、そう考えると、ヤンも俺に少しくらいは好意を抱いてくれているということだったりするんだろうか?
しかしながら、俺のそんな小さな小さな希望は、次の瞬間、ヤンが立ち上がり俺の元へ来て、俺の顔をはっきりと見ながら……あ、可愛いお目目~、って違う違う。そう、ヤンくんがものすっごいジト目で、
「ち、が、う」
と言い放つと同時に、俺の顔へ向けて液体──あ、唾です。唾のことです──を放ってきたことによって、あ、違うんだ、ごめんなさい、とそれはもう真摯に謝罪をせざるを得ない状況となり、見事霧散することになる。
すっごいよかった、ジト目。いっつもジト目だけど、さっきのジト目はすっごいよいジト目でしたな……。
ちなみに、俺がその旨を伝えると、勿論帰ってきた返答はこうである。
「気持ち悪い」




