1. 老司祭の祈り
吐く息が薄っすらと白く染まる、冬の始まりの日。
薄く曇る窓辺に座って、俺はただじっと夜の闇を見つめていた。月のない空は炭を塗り込めたように黒く、時折か弱く瞬く小さな星の群れ以外には何も見えない。
風に乗って音もなく窓を撫でる雪の粒が段々とその数を増して、暖かな陽の光が射す夜明けはまだ遠いのだと告げている。歪んだガラスの窓に浮いた僅かばかりの水滴が、俺の肩口を覆う黒い羽を柔らかく湿らせていく感覚を、どこか他人事のようにぼんやりと感じた。
「……思い返せば、なんと幸せな人生だったことか」
嗄れた、けれどそれでいて深い慈愛を湛えた厳かな声が、小さな部屋に響く。申し訳程度にくべられた暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音以外には、その声を遮るものは何も無い。
「あなたのおかげです」
こちらに向かって小さく感謝を述べる声の主を、ちらりと見やる。
最早目を開けることすら億劫なのだろう。瞼をゆるく閉じたまま僅かに咳き込む老爺から、俺は何も答えることなく視線を逸らした。
しばらく薪を足していない暖炉の炎はとうに勢いを失っていて、今にも消えそうなほどに弱く燻っていた。今俺の目の前に横たわるこの年老いた男の命と同じように、あと半刻もすれば薄くたなびく煙となって消え去るのだろう。
チッ
小さく舌打ちをして、俺はほんの少し指を弾いて暖炉にもう一度火を灯した。気配で気付いたのだろう、相変わらず瞳を閉じたまま、男は、ふふ、と笑って言った。
「ありがとう、優しい天使様」
死を待つ男の顔は穏やかだった。長い年月を神への信仰とともに生き、この死の淵に至るまで日々己を苛んで来た全ての苦しみから、ようやく解放されようとしている。そこには、そういった人間だけが持つ、ある種の気高さがあった。
死を悟り、それを受け入れた者だけが纏う、ただただ静謐で穏やかな空気。ピリピリと肌を裂かんばかりに乾燥しているはずの冬の大気までもが、どこかしっとりとした憂いをその懐に忍ばせて、間近に迫った彼の終焉を見守っているような気がした。
「……豊かで、穏やかで、村の皆の顔にはいつも笑顔があった。悲しみも苦しみも相応に。これ以上など、望めない人生でした」
どこか嬉しげにそう呟きながら、彼は身の回りのもの全てを、引いてはこの世の全てを愛おしむかのように、ゆっくりと深く息を吸った。
飾り気のない黒い真鍮と樫の木で出来た簡素なベッド。木綿のシーツ。柔らかな木屑を詰めた枕。羊の毛で編んだ毛布。
今、彼の身を包むものは、どれ一つとして決して高価なものではない。けれどその全てがよく手入れをされていて、言葉では言い表せない凛とした美しさを備えていた。長い年月をともに過ごしてきた主人の死を、その最後の一瞬まで看取るためだけに存在している。これらはそういう類の家具だった。
「ひとつだけ心残りなのは、あなたのことです。私の代わりに教会から派遣される新たな司祭が、ずっとこの村を守ってくれているあなたを誤解してしまわないかと……。私も、あなたを初めて見たときには、ずいぶんと驚きましたから」
ふふ、と笑うその顔に、初めて会った時の彼の青褪めた顔を思い出す。前任の司祭に背中を押され、俺の前に震える一歩を踏み出した、遠い在りし日の彼。
まだ若く、どこか幼くさえあった彼の微かな面影を、深く刻まれた皺の中にも見いだせるような気がした。
心配ない。
そう言葉にする代わりに小さく溜息を吐いた俺に、彼は安心したように少しだけ眦を下げた。もう上手く動かせない両手をゆっくりと胸の前で組んで、深く穏やかに呼吸を整える。
「あぁ、天にまします我らの神よ」
しっかりと目を閉じて、恐らくはこれが最後になるであろう神への祈りを捧げる。本来ならば然るべき別の司祭が彼のために臨終の祈りを唱えるのだろうけれど、生憎と今ここには彼と俺以外には誰もいない。今、正に死を迎える老いた聖職者と、一匹の悪魔以外には。
「今日まで私の旅路を導いてくださいましたこと、心より感謝いたします。御旨に従い、御旨にゆだね、その御手によって、あるべき姿に帰ることができますように。残されたものたちの悲しみが、一日でも早く癒されますように」
次第にか細くなる声は、もうほとんど聞き取れない程に小さい。それでも彼は末後の力を絞り出すようにして祈った。
「どうか、黒き羽を持つ我らの天使にも、あなたの加護がありますように……」
掠れるような吐息とともに最後の祈りを唱え終えて、彼は満足そうに細く長い吐息を吐き出した。そしてそのまま、静かな冬の帳に溶け込むようにして、ひっそりと息を引き取った。
穏やかな終わりだった。文字通り、眠るような最後だった。こと切れる最後の瞬間まで神に仕え、感謝だけを胸に、自分ではない誰かの為に祈りながらその生涯を閉じる。人間らしい弱さの果てに、それと表裏一体になった強さを手に入れた彼に相応しい最後だった。
「……神なんかいねぇよ」
独り残された部屋で呟いた俺の言葉は、誰の耳にも届くことなく、やがて凍える闇の中に紛れて消えた。
それから俺は何をするでもなくそのまま窓辺に蹲って、己の黒い羽越しに、はるか窓の向こうで瞬く星を見つめた。途中、何度か指を弾いて暖炉の火を付け直した気がする。それはもう寒さを感じることのない同居人には必要のない行為だったけれど、気紛れが信条の俺がすることにはいつだって大した意味など無いのだから、特におかしなことをしている気にはならなかった。
そうして柔らかな朝日が昇って、眩しい光が凍てついた山肌を仄白く浮かび上がらせるまで、俺はただじっと窓辺に蹲って、移ろいゆく空の色を飽きもせずに眺めていた。




