第34話 花の残り香と、透明な幼馴染 7
その日の放課後。
本棟の無機質なコンクリートの校舎を抜け、旧校舎へと続く渡り廊下に足を踏み入れると、生ぬるい風が頬を撫でた。日中は少し動くだけで汗ばむような薄暑の気配が漂い始めており、生徒たちの間で交わされる会話の熱気と相まって、教室の空気は俺の嗅覚にとってひどく過酷なものになっていた。
だが、その情報の濁流も旧校舎の奥へと進むにつれて静かに遠ざかっていく。年季の入った木造校舎のきしむ音を聞きながら、『香道部・作法室』と墨で書かれた古びた木札の掛かる引き戸をゆっくりと開けた。
「――いらっしゃい、神崎くん。今日もお疲れ様」
部屋の中央で、香道部の部長である三年生の桜小路雅先輩が、背筋を真っ直ぐに伸ばして優雅な微笑みを向けてきた。作法室の中は空調によって温度と湿度が完璧に管理されており、外の少し汗ばむような陽気が嘘のように、ひんやりと澄んだ空気に満ちている。
「失礼します、桜小路先輩。……今日は、沈香ですか。奥の方にすっきりとした清涼感がありますね」
「ええ、正解よ。少し気温が上がってきたから、甘さを抑えて涼しげな香りを選んでみたの。相変わらず、神崎くんの嗅覚は正確ね」
先輩は嬉しそうに目を細め、手元の香炉の灰を整えた。俺は鞄を置き、定位置である畳の上に腰を下ろして深く息を吐き出す。今日一日、教室で蓄積された見栄や同調圧力のノイズが、上品な和の香りによって優しく中和されていくのを感じた。
「慧くん、お疲れ様。今日のお茶は少しぬるめにしておいたよ」
水屋のふすまが開き、お盆を持った澄が現れた。彼女の顔には、一切の影がない完璧な笑顔が浮かんでいる。差し出された湯呑みを受け取ると、俺の過敏な嗅覚を少しも刺激しない、まろやかで優しい香りが漂ってきた。一口すすると、外の熱気で火照っていた身体に、計算し尽くされた完璧な温度の液体がじんわりと染み渡っていく。
「ありがとう。……やっぱり、お前のお茶が一番落ち着く」
「ふふ、よかった。慧くん、今日は教室で、少しは息がしやすかった?」
「ああ。昨日までうるさかった匂いが消えて、劇的に快適になったからな」
俺が気怠げに返すと、澄は自分のことのように嬉しそうに目を細めた。柚木玲奈というノイズの発生源が武装解除されたことで、俺の日常は驚くほど平穏なものに戻っていた。他人のドロドロとした感情に巻き込まれることなく、こうして澄が用意してくれる完璧な調律と、雅先輩の提供する和の香りに包まれる時間。それさえあれば、俺の精神は完全に守られる。
「さあ、お菓子にしましょうか。今日は少し珍しい、よもぎの練り切りを用意したのよ」
雅先輩が傍らの重箱に手を伸ばした、まさにその時だった。
――ガラッ。
作法室の古い引き戸が、遠慮がちに開け放たれた。
「あ、神崎、いたいた。……お邪魔しまーす」
顔を覗かせたのは、少し明るく染めた髪に短く着崩したスカートという派手な出立ちの女子生徒、柚木玲奈だった。そして彼女の背後から、「お、お邪魔します……」と、一年生の星野くるみがひょっこりと顔を出した。学年もクラスも違うはずの二人が、なぜか連れ立って作法室の入り口に立っている。
「あら、いらっしゃい。二人揃って、今日はどうしたの?」
二人の訪問に、雅先輩が優雅な微笑みを浮かべて尋ねると、二人は少し緊張した面持ちで畳の上へと足を踏み入れた。
俺は湯呑みを手に持ったまま、二人の体から放たれる匂いを鼻先で静かに受け止めた。柚木からは、昨日まで彼女の全身を分厚く覆い隠していた強烈なシトラスフローラルの香水の匂いは、ただの一滴も放たれていなかった。漂ってくるのは、一般的な女子高校生が使うわずかなシャンプーの匂いと、少し急いで歩いてきたことによる素肌の熱気だけだ。教室の空気を過剰に気にして流していた、あの粘着質な冷や汗の匂いも完全に消え去っている。
一方の星野は、相変わらずベリー系の甘いボディミストを纏っていた。少し背伸びをして小悪魔キャラを演じようとする彼女特有の匂いだが、そこには他人を蹴落とそうとするような陰湿な嘘の成分はない。
「お前たち、何の用だ」
俺が気怠げに問うと、二人は顔を見合わせ、それぞれブレザーのポケットから一枚の紙切れを取り出した。
「えっと……これ、持ってきたんだけど」
柚木が少し照れくさそうに差し出したその紙には、『入部届』という文字が印字されていた。星野の手に握られているのも、同じ紙だ。
「入部届……? お前たち、本気か」
「本気だよ! あたし、テニス部に入ってるけど、香道部と兼部させてほしくて」
柚木は真っ直ぐに雅先輩を見て、はっきりとした声で言った。
「その……テニス部とかクラスのグループとか、たまに息が詰まる時があって。この作法室、すごく落ち着くし……ここでなら、無理しないで息抜きできるかなって思って。……ダメ、かな?」
彼女の言葉には、一切の強がりも嘘の匂いも混じっていない。俺に至近距離で本音を見透かされ、香水の鎧を脱ぎ捨てた彼女は、自分の弱さを隠すことなく、この作法室を公式な『逃げ場』として求めることにしたのだろう。
「ふふ、兼部なら全く問題ないわ。香道部は活動日も自由だし、あなたの好きな時にいらっしゃいな」
雅先輩が快諾すると、柚木は「やった! ありがとうございます!」とパァッと顔を輝かせた。その体から放たれたのは、純粋な安堵と喜びの匂いだった。
「星野。お前はどうなんだ」
俺が視線を移すと、星野はコホンと小さく咳払いをして、あざとく小首を傾げてみせた。
「私はですね、やっぱり日本の伝統文化である香道の、雅な作法をしっかりと学びたいと思いまして。先輩方のご指導のもと、立派な大和撫子を目指して入部を決意しましたっ」
星野は甘ったるい声で堂々と建前を並べ立てた。だが、彼女の視線は俺の顔でも雅先輩でもなく、先輩の横に置かれた『よもぎの練り切り』が入った重箱に、磁石のように吸い寄せられていた。
「……嘘つけ」
俺は小さく鼻を鳴らし、畳に手をついて彼女の方へとわずかに身を乗り出した。数十センチの至近距離。ベリー系のボディミストの奥底にある匂いの揺らぎを、俺の過敏な嗅覚が正確に捉える。
「さっきからお前の体温は不自然に上昇し、ボディミストの揮発速度が異常に早まっている。しかも、その視線は重箱に釘付けだ。雅な作法を学ぶためじゃない。お前はただ、先輩が用意してくれる高級和菓子が目当てで入部届を持ってきただけだろう」
「ふぇっ!?」
俺が淡々と事実を突きつけると、星野はカエルのような情けない声を出してバタバタと後ずさった。顔は耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染まり、小悪魔の仮面は一瞬にして崩れ去る。
「ち、違っ、お菓子だけが目当てじゃなくて……そのっ、お茶も美味しいし……!」
「結局、飲み食いするためじゃないか」
図星を突かれてしどろもどろになる星野を見て、柚木が「くるみちゃん、わかりやすすぎっしょ!」と腹を抱えて笑い出した。
「もう、神崎先輩の意地悪……っ!」
星野は涙目で抗議してくるが、その匂いに含まれているのは不器用な動揺と羞恥心だけで、やはり陰湿なノイズは一滴もない。俺にとっては少しうるさいが、精神をすり減らすような悪臭ではなかった。
「ふふっ、二人とも本当に賑やかで可愛らしいわね。香道部にお菓子を食べる仲間が増えて、わたくしもとても嬉しいわ」
雅先輩が上品に笑い声をこぼし、二人の入部届を優雅な手つきで受け取った。
「いらっしゃい、玲奈ちゃん、くるみちゃん」
水屋の前に立っていた澄が、二人に向けてふんわりと花が咲くような笑顔を向けた。その表情には、一切の影や淀みがない。
「二人とも、香道部へようこそ。これからよろしくね。今、新しいお茶とおしぼりを用意するから、そこに座って待ってて」
澄は完璧な微笑みを崩すことなく、流れるような動作で水屋の奥へと消えていった。
「あ、ありがとう、澄ちゃん! よろしくね!」
「よろしくお願いしますっ!」
柚木と星野は、澄の純粋な歓迎に恐縮しながら、俺の向かい側の畳にちょこんと正座した。
作法室に新入部員が二名も加わり、普段の静寂に比べれば少しばかり騒がしくなるのは間違いない。だが、彼女たちが放つ匂いには、俺のパーソナルスペースを脅かすような見栄や陰湿な建前は存在しなかった。それに、星野の甘いボディミストや、彼女たちが持ち込む微かな外の匂い程度なら、綺麗好きである澄が、いつものように完璧な手際で瞬時に洗い流してくれるだろう。
俺は新しく淹れられたお茶の香りを深く吸い込み、この聖域に新しく加わった、嘘のない日常の始まりを静かに受け入れるのだった。




