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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第33話 花の残り香と、透明な幼馴染 6

 春も終盤に差し掛かり、桜の枝はすっかり青々とした若葉に覆われ、街には初夏を思わせる少し強めの陽射しが降り注ぐようになっていた。


 気温が上がるにつれ、朝の通勤・通学ラッシュの地下鉄は、他人の体温や生活臭が入り混じる最悪の密室と化していく。だが、今日の俺の足取りは、昨日までに比べればほんの少しだけ軽かった。


 首元からかすかに漂う、朝露のような清潔な柔軟剤の香り。今朝、澄が俺の好みに合わせて完璧に洗ってくれたシャツの匂いのおかげで、俺は外界の不快なノイズから呼吸を守ることができていた。澄の徹底した綺麗好きと、俺が最も安らぐ空気を自然と用意してくれる生来の優しさに深く感謝しながら、俺は高校の校門をくぐった。


 二年三組の教室の引き戸を開けると、案の定、三十人以上の生徒が放つ「本音と建前の乖離」が、生ぬるい空気とともに情報の濁流となって押し寄せてきた。


「おっす神崎! 今日も相変わらず気怠そうだな!」


 教室に入るなり、背中をバンッと叩かれた。声の主は確認するまでもない。朝練終わりなのか、全身から強烈な汗の匂いと、それを力技で誤魔化そうとする安価なシトラス系の制汗剤の匂いを撒き散らしている悪友、遠山太陽だ。


「……朝から声がでかい。少しは自分の放つ熱気と匂いを自覚しろ」


「ははっ、なんだよそれ! てかさ、今日の昼休み、中庭でサッカーやろうぜ! お前もたまには動かないとカビ生えるぞ!」


「遠慮する。俺は昼休みは寝ているからな」


 俺は遠山の暑苦しい誘いを適当に聞き流し、窓際の後ろから二番目の自分の席へと向かった。遠山は「付き合い悪いなー!」と笑いながら、他の男子のところへ駆けていった。相変わらず彼の匂いは物理的にうるさいが、見栄や嘘が混じっていない分、適当にあしらっても俺の精神がすり減ることはない。


 鞄を机に置き、椅子に腰を下ろして小さく息を吐く。


「ねーマジでさー、昨日のテレビ見た!? あの俳優超イケメンでヤバかったんだけど!」


 教室の中央から、ひときわ大きく響く声が鼓膜を打った。星川莉愛だ。彼女が身振り手振りを交えて笑うたび、強烈なバニラ系の香水とココナッツのヘアオイルの匂いが、今日も我が物顔で教室の空気を支配していく。星川には悪気も裏表もないが、その圧倒的な香料は、俺にとっては頭痛の種でしかなかった。


 だが。俺の過敏な嗅覚は、その星川のバニラの匂いのすぐ隣に、昨日まで確実に存在していた『あるはずのノイズ』が綺麗に消え去っていることに気がついた。


(……ないな)


 俺は気怠げに頬杖をつきながら、視線だけを教室の中央へと向けた。


 星川の隣には、昨日までと変わらず柚木玲奈が立っている。髪を少し明るく染め、短く着崩したスカートという派手な出立ちは同じだ。


 だが、昨日まで彼女の全身を分厚く覆い隠していた「強烈なシトラスフローラルの香水」の匂いが、今日はただの一滴も放たれていなかったのだ。


 匂いがないだけではない。俺の鼻腔は、彼女の身体から発せられる微細な体温の変化を正確に捉えていた。


 昨日までの柚木は、星川の配慮のない発言やクラスの空気に過剰に気を遣い、全方位の同調圧力を気にするあまり、常に不自然なほど体温が高かった。そしてその首筋からは、極限のプレッシャーによる粘着質な『冷や汗』が絶え間なく滲み出続けていた。


 しかし、今、星川の隣で相槌を打っている柚木の体温は、極めて正常で落ち着いた数値を保っている。教室内のヒリヒリとした空気の淀みにビクビクするような、あの焦りの冷や汗の匂いも、完全に消え去っていた。


「てかさ、今日放課後、駅前に新しくできたクレープ屋行かない? うちらのグループで行こーよ!」


 星川が、いつものように自分のペースで周囲を巻き込む提案をした。昨日までの柚木なら、本当は行きたくなくても「グループから浮きたくない」という一心で、冷や汗を流しながら『行く行く! 超行きたい!』と無理な同調をしていたはずだ。


「あー……ごめん莉愛。あたし、今日ちょっと用事あるからパスで。また今度誘ってよ!」


 柚木は、あっさりと、そして軽い口調で星川の誘いを断った。彼女の言葉に、見栄や強がりの成分は全く混じっていない。無理をして「ノリの良い同級生」を演じている時の、あのきしむような嘘の匂いはどこにもなかった。


「えー、マジ? まあいっか、じゃあ明日ね!」


 星川は特に気に留める様子もなく、「じゃあ他の子誘うわー」とあっけなく別の話題へと移っていった。


 俺はそのやり取りを静かに観察し、小さく鼻を鳴らした。昨日、俺が旧校舎の渡り廊下で言った通りだ。柚木が香水の鎧を着ていようが脱いでいようが、星川たちは誰も気にしない。そして、すべての誘いに無理して付き合わなくても、彼女が元々持っている気遣いのスキルがあれば、グループの中で浮くことなく自然に立ち回ることは十分に可能なのだ。


 柚木自身も、今日香水をつけずに登校し、少しだけ肩の力を抜いて星川たちと接してみたことで、その事実を肌で実感しているのだろう。彼女から漂ってくるのは、一般的な女子高校生が使うかすかなシャンプーの匂いと、憑き物が落ちたような、ひどく等身大で穏やかな空気だけだった。


 彼女の過剰な気遣いから生じる冷や汗と、それを誤魔化すための強烈な香水の匂い。俺のパーソナルスペースを脅かしていたその不快なノイズの発生源は、こうして完全に武装解除されたのだ。


 教室は相変わらず三十人以上の生徒がひしめき合い、見栄や建前の匂いが充満している。星川のバニラの匂いや遠山の制汗剤の匂いも、決して消えたわけではない。だが、柚木という強烈な不協和音が静まったことで、教室の空気は俺にとって、少なくとも昨日よりは劇的に息がしやすいものに変わっていた。


 ふと。星川たちと談笑していた柚木が、こちらを振り向いた。窓際の席に座る俺と、ほんの一瞬だけ視線が交差する。


 昨日、俺に至近距離で強がりを見透かされ、茹でダコのように真っ赤になって泣きそうになっていた彼女の姿は、そこにはない。


 柚木は「ノリの良い同級生」の分厚い仮面ではなく、どこか照れくさそうな、それでいて無理のない自然な素の笑顔を少しだけ俺に向けてきた。そして、胸元で小さく手を振る。その体から放たれたのは、俺に対するかすかな感謝と、自分を取り繕わなくていい相手に対する無防備で純粋な匂いだった。


 俺は表情を変えることなく、ただ軽く顎を引いてそれに応えた。柚木はそれだけで満足したように、再び星川たちの会話の輪へと戻っていく。彼女がもう二度と、俺の前であの息苦しい香水を撒き散らすことはないだろう。そして、俺が彼女の人間関係のドロドロとしたトラブルに巻き込まれることも、二度とないはずだ。


 厄介なノイズは去り、俺の平穏な日常が戻ってきた。


 俺はミントタブレットのケースを取り出す必要すら感じず、ただ制服の襟元を引き寄せた。澄が俺のためだけに用意してくれた、かすかな朝露のような柔軟剤の香りをゆっくりと肺の奥深くまで吸い込む。


 俺が求めているのは、他人の嘘を暴くことでも、誰かを救うことでもない。ただ、幼馴染が保ってくれるこの究極に清潔な環境に包まれながら、外界のノイズから呼吸を守ることだけだ。


 俺は完全に沈静化した自分のパーソナルスペースの心地よさに深く安堵しながら、朝のホームルームを告げるチャイムが鳴るのを、静かに目を落として待つのだった。

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