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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第32話 花の残り香と、透明な幼馴染 5

 カーテンの隙間から差し込む柔らかい朝の光で、俺は静かに目を覚ました。


 ベッドの中でゆっくりと深呼吸をする。肺の奥まで吸い込んだ空気には、ホコリっぽさも、寝起きのこもったような生活臭も一切含まれていない。徹底的な換気と清掃によって保たれた、清潔なリネンを思わせる無刺激の空気が、部屋の隅々まで満ちていた。


 昨日の放課後、旧校舎の渡り廊下で柚木玲奈の分厚い鎧を引き剥がしたことによる精神的な疲労は、完全に抜け落ちていた。泥のように深い睡眠が、過酷な外界ですり減っていた俺の神経を芯から修復してくれたのだ。


 リビングの方から、かすかな物音とともに温かい匂いが漂ってくる。寝起きの嗅覚を優しく撫でるような、丁寧に取られた昆布と鰹の和風出汁の、角のない丸い香りだ。


「おはよう、慧くん。よく眠れた?」


 身支度を整えてリビングへ向かうと、エプロン姿の澄がキッチンからふんわりと微笑んだ。ダイニングテーブルには、俺の胃に優しい完璧な和食の朝ごはんが並べられている。


「ああ。おかげで昨日の疲れはすっかり取れたよ。朝早くから、いつも悪いな」


「ううん。慧くんが元気になってくれるのが、私にとって一番嬉しいことだから」


 澄はいつものように淀みない笑顔でそう言い、俺の席に温かいお茶を置いた。一口すすると、熱すぎずぬるすぎない、俺が最もホッとできる完璧な温度の液体が、胃の粘膜にじんわりと染み渡っていく。


 言葉にしなくても俺の体調に合わせた温度や味付けを用意してくれる彼女の気遣いは、俺にとってすでに呼吸をするのと同じくらい、当たり前で不可欠なものになっていた。


 穏やかな朝食を終え、俺は自室に戻って制服に着替えることにした。


 ハンガーには、昨日の夜、澄が念入りに洗って干しておいてくれたブレザーとシャツがかけられている。俺はそれを見た瞬間、昨日の放課後の出来事を思い出し、わずかに眉をひそめた。


 柚木玲奈の強固な強がりを暴くため、俺は自ら彼女のパーソナルスペースの境界線を踏み越えた。その結果、俺の制服には、彼女が自分を守るために過剰に浴びていたシトラスフローラルの香水と、極度のプレッシャーから滲み出た粘着質な冷や汗の匂いが、べったりと染み付いてしまっていたのだ。


 いくら綺麗好きの澄が洗ってくれたとはいえ、あれほど強烈な香料と他人の感情の痕跡だ。繊維の奥に、わずかでもあの不快なノイズが残っていれば、今日一日、俺は自分の襟元から漂う匂いに酔い、頭痛に悩まされることになる。


 俺は少しの覚悟を決めて、シャツに袖を通した。そして、襟元に顔を近づけ、そっと息を吸い込む。


「……っ」


 俺は目を見張った。


 そこには、柚木が放っていたシトラスフローラルの強烈な匂いも、彼女の不器用な冷や汗の気配も、ただの一滴も残っていなかった。いや、それどころか、一般的な洗剤が持つ人工的でツンとした香料の匂いすらしない。


 ただひたすらに清潔で、かすかな朝露を思わせる、俺が世界で一番安心できる柔軟剤の穏やかな香りだけが、生地の奥底からふわりと立ち上ってきたのだ。


 俺はブレザーにも袖を通してみたが、結果は同じだった。あの強烈な他人の痕跡は、澄の手によって文字通り完全に洗い流されていた。


 他人の嘘や見栄が渦巻く教室にいても、この匂いさえあれば、俺は不快なノイズから呼吸を守ることができる。澄の異常なまでの綺麗好きと、洗濯における徹底した手際が、俺にとっての最強の防具を作り上げてくれたのだ。


「着替え、終わった?」


 リビングに戻ると、澄が俺の鞄と水筒を用意して待っていた。彼女の指先は、昨日の夜に温かいお湯で俺の服を何度ももみ洗いしてくれたせいで、まだほんの少しだけ赤みを帯びているように見えた。


「ああ。……澄、この制服、完璧だ」


 俺が心からの本音をこぼすと、澄は不思議そうに小首を傾げた。


「完璧?」


「昨日の香水の匂いが、全く残っていない。俺が一番ホッとする匂いだけがする。……お前が丁寧に洗ってくれたおかげだ。ありがとう」


 俺が感謝を伝えると、澄の顔がぱぁっと明るくなった。


「よかったぁ! あの香水、すごく強い匂いだったから、慧くんが今日苦しくならないようにって、念入りに洗っておいたの。いつもの慧くんの匂いに戻って、本当に安心したよ」


 そう言って心底嬉しそうに笑う彼女の放つ空気は、ただ「俺を休ませたい」という透明な思いやりだけで満たされている。彼女がこうして外の汚れを徹底的に排除してくれるからこそ、俺は今日もあの悪臭に満ちた教室という戦場へ向かうことができるのだ。


「慧くん、お弁当と水筒、鞄に入れてあるからね」


「いつも悪いな。……お前は自分の準備、いいのか?」


「うん、私はもう完璧だよ。でも、出かける前にもう少しだけ、やっておきたいことがあって」


 澄はそう言うと、リビングの隅にある小さなサイドテーブルへと向かった。そこには、香道部で使うような乳鉢や、幾つかの小さな小瓶、そして乳棒が広げられていた。


 俺は不思議に思い、彼女のそばへと歩み寄った。


「なんだそれは。香木の粉末か?」


「うん。お香の調合を少しだけね。……秋の文化祭に向けて、今から『秋の練香』の仕込みを始めようと思って」


「秋の文化祭? まだ四月だぞ。いくらなんでも気が早すぎないか?」


 俺が呆れたように言うと、澄は乳鉢の中で香木の粉末をゆっくりとすり潰しながら、ふんわりと微笑んだ。


「練香はね、粉末を蜜で練り合わせてから壺に入れて、長い時間冷暗所で寝かせることで、香りが熟成して角が取れていくの。……それに、慧くんは外の匂いにすごく敏感でしょ?」


 澄は手を止め、澄み切った瞳で俺を見上げた。


「秋は文化祭で、学校中にいろんな匂いや人が溢れかえるから。その時、慧くんが作法室で一番安心できるように、今から少しずつ、私の手で香りを馴染ませていかないとダメなんだよ」


 彼女の言葉に、俺は思わず息を呑んだ。たかが部活の出し物のために、俺の過敏な嗅覚が少しでも安らぐようにと、彼女は半年も先のことを見据えて、今から手間暇をかけて香りを調合してくれようとしているのだ。


「……お前は、本当に気が利くというか、世話焼きだな。俺のためにそこまでしなくても」


「ふふ、私がやりたくてやってることだから、気にしないで。それに、秋の澄んだ空気の中で、慧くんがこの匂いでホッとしてくれる姿を想像すると、私まで嬉しくなっちゃうの」


 澄は楽しそうに目を細め、再び乳棒を動かし始めた。ゴリ、ゴリと、香木が細かくすり潰されていく静かな音が、朝のリビングに響く。


 俺が不快な思いをしないよう、彼女は常に先回りして環境を整えてくれている。彼女がこれほどまでに俺の平穏を願い、完璧な空間を用意してくれているのだから、俺も今日一日くらいは、なんとか耐え抜くことができるだろう。


「じゃあ、俺は先に行くよ。お前も遅刻するなよ」


「うん、いってらっしゃい、慧くん。今日も一日、無理しないでね」


 玄関で見送ってくれる澄の、穏やかで清潔な匂いを肺の奥にしまい込み、俺は自室のドアを開けた。


 外の空気は、すでに春の生ぬるい陽気と、アスファルトのホコリっぽさを孕み始めている。だが、俺の襟元からは、澄が用意してくれた完璧な柔軟剤の香りが漂い、俺の呼吸を静かに守ってくれていた。


 俺は、幼馴染が提供してくれるこの心地よい環境のありがたさを噛み締めながら、外界へと足を踏み出した。

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