【巫女編】・押し花に閉じ込めたもの
本日もお読みいただきありがとうございます。
季節が巡るなかで揺れ動く巫女の心を、静かに書き留めました。
彼女と稲人の想いが交わる一瞬を、そっと見守っていただければ嬉しいです。
正式な巫女として任じられ、
季節が幾度も巡る頃——。
巫女はすっかり村の人々から頼りにされる存在となっていた。
祈り、祈祷、薬草、相談事……
気づけば一日の多くを人々のために使っている。
その傍らには、ときおり稲人の姿があった。
護衛に立つ稲人と共に務めを果たす日は、
胸の奥がふわりと弾み、
知らず知らずその一日が特別に感じられた。
挨拶を交わすときの稲人の柔らかな笑み。
境内の掃除中、ふと見ればそこにある背中。
困っている村人へ静かに手を伸ばす優しさ——。
気がつけば巫女は、
稲人の姿を探してしまう自分に気づいていた。
あの野犬に襲われた豊穣祭の帰り道。
稲人の笑顔に胸が跳ねたあの瞬間から——
巫女の心は、彼からそっと離れなくなっていた。
(……稲人様が笑ってくださると、
どうしてこんなにも……嬉しいんでしょう)
(お役目を懸命に果たすあのお姿を見ると、
私も頑張らなくては……と思える)
会えない日には、
胸の奥に小さな穴が空いたような、
寂しさにも似た感情が生まれることもあった。
---
そんなある日のこと。
巫女は祠の裏の落ち葉を払っていた。
さら……さら……
竹箒の音に混じって、男たちの声がしのび込んでくる。
(……若者衆……?)
思わず箒の動きが止まった。
「稲人、お前の気持ちもわかるが……巫女様のこと、見過ぎだ。」
巫女は息を飲んだ。
竹箒を持つ手が、かすかに止まる。
(……え……? いま……何を……)
聞いてはいけない。
しかし耳は勝手に声を追ってしまう。
さらりと笑うような声。
「そんなにか?」
「そんなにだ。
お前を見ていれば誰だって気づく。
おそらく村の誰もが知ってる。
気づいていないのは……巫女様本人くらいだろう。」
(わ、私……? 稲人様が……?)
胸が小さく震えた。
戸惑いとともに、けれど……その奥に、静かなあたたかさがそっと差し込んだ。
稲人は少し間を置き、低い声で言った。
「……だがな。
気づけば、目で追ってしまうんだ。
どうにもならん。」
その返事は飾らず、ただの本音に聞こえた。
(……目で追って……?
私が……いつも……してしまうように……?)
巫女は思わず箒の柄をギュッと握りしめた。
胸の奥に、淡い熱がひたひたと広がる。
「野犬に襲われた時から、もう五年か。
お前は昔から一途だが……そろそろ諦めて、
他の村の娘と所帯でも持ったらどうだ?」
稲人は静かに息を吐き、言葉を選ぶように答えた。
「俺は……巫女様以外、興味を持てん。
幸か不幸か、俺は孤児で継ぐ家も身寄りもない。
だが今は、それでよかったと思っている。」
巫女の手が震える。
(私“以外”……?)
胸の中心がやわらかくあたたまり、
息がわずかに揺れる。
「どういうことだ?」
幼馴染の問いに、稲人は少しだけ笑ったように聞こえた。
「俺は……残りの人生を、あの方を見守ることに使える。
巫女様が毎日健やかで、笑っていてくだされば……それで幸せだ。」
巫女は、はっと息を吸った。
その小さな音さえ響いてしまいそうで、慌てて口元を押える。
足元の落ち葉が かさり と鳴り、巫女は息を止めた。
(稲人様……
私の……ために……
そんなふうに……)
胸の奥に、ゆっくりとした温もりが満ちていった。
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幼馴染のため息まじりの声が続く。
呆れたような、けれど少しだけ優しい声が返る。
「その巫女様は、神に人生を捧げねばならんのにか?」
稲人は迷いなく言った。
「……それでもいい。
あの方の笑顔と、一生懸命な姿を……そばで見ていられれば、それで。」
その言葉は迷いがなく、
長い年月をかけて育った想いそのものだった。
祠の裏で聞いていた巫女の胸に、
静かに波紋が広がる。
稲人の言葉の一つひとつが、
まるで胸の底へ落ちてくるようで——
巫女は堪えきれず、竹箒をそっと握り締めた。
胸の奥で、何かがほどけていく。
ようやく巫女は気づいた。
(私も……
稲人様をお慕いしていたのですね……
そして……稲人様も……)
胸の奥がふわりと解け、
静かな喜びがにじんでいく。
——けれど、その温かさは長く続かなかった。
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稲人と話していた幼馴染の言葉が、耳に残ったまま離れない。
(その巫女様は、神に人生を捧げねばならんのにか?)
胸の奥で言葉が静かに反芻される。
(……私は……神に人生を捧げる身……)
巫女はそっと胸に手を当てた。
触れた掌に、まだ残る温もりと痛みが混ざり合う。
稲人の想いが嬉しかった。
涙が出そうなほど、胸は満たされていた。
——それなのに、同じ場所にひりつくような痛みが広がる。
(叶わぬ想い……
私が巫女である限り……結ばれることは……)
喜びと切なさが絡まり、
どちらにもほどけないまま胸に残る。
呼吸がかすかに揺れた。
その時。
「稲人ー! そろそろ集会所に来てくれ!」
若者衆の声が森に響く。
稲人と幼馴染は「おう」と短く返事をし、足音を残して去っていった。
残されたのは、祠の裏にひとり佇む巫女だけ。
耳に残る会話の余韻。
胸の奥に残された温かさと、痛み。
巫女は竹箒を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
(……どうしたら、いいのでしょう……)
巫女になったことを後悔したことは、一度もない。
人々のために祈り、働けることは、巫女の誇りであり、喜びだった。
だからこそ——
この胸に芽生えた“ひとりの娘としての想い”を、
どこへ置けばいいのか分からなかった。
風がそっと祠の木々を揺らす。
さらさらと葉の触れ合う音が、沈黙をやさしく切り開いていく。
その音に背中を押されるように、巫女はゆっくり息を吐いた。
「姉様? どうかなさいましたか?」
はっとして振り返る。
そこには、かつて小さかった童女が立っていた。
長い髪を後ろで結び、白い襷をかけた凛とした姿。
幼い面影を残しながらも、今では立派な巫女見習いだった。
巫女は小さく微笑み、視線を落とす。
「……落ち葉が、すっかり冬の色になりましたね。
季節の移ろいが、早いものです」
胸の奥のざわめきを誤魔化すように、静かに言葉を落とした。
繋は境内に散った葉を見つめて頷く。
「はい。あっという間に冬ですね。
手が冷たくなる季節になりました」
さらりと風が吹き、落ち葉が数枚、二人の足元に転がる。
灰色の空へ舞い上がろうとして、すぐに落ちていった。
巫女はそっと目を伏せ、竹箒を握り直した。
「……さあ、続きをしましょう」
繋はぱっと顔を明るくし、箒を持った。
「手伝います! 二人なら、すぐに片付きますよ」
「ふふ……そうですね。お願いします」
境内に、さらさらと落ち葉を掃く音が優しく響く。
さっきまで胸を締めつけていた痛みはまだそこにある。
けれど、隣で箒を動かす小さな手が、
その痛みにそっと寄り添ってくれるようだった。
「姉様、こっち側をまとめますね」
「ありがとう。では私はこちらを」
風に乗って、繋の笑い声が少し弾む。
冷たい空気の中、二人で並んで葉を集めるそのひとときは、
静かで、あたたかく、そして少しだけ救われる時間だった。
金色の夕陽が、ゆっくりと境内を照らしていた。
---
夕餉の香りが巫女舎に満ちる頃。
巫女は膳の前に座っていたが、箸はほとんど進まなかった。
(……胸が、苦しい……)
稲人の声と、あの言葉が胸の中で何度も反芻される。
「姉様、もうお下げしてもよろしいでしょうか?」
控えめな繋の声に、巫女ははっと顔を上げる。
「あ……ええ、ごめんなさい。もう十分です……」
繋は巫女の食べ残した膳を見て小さく首を傾げ、
心からの心配を滲ませた。
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その夜。
巫女が灯の揺れる部屋でひとり胸を抱えていた時——
「姉様……失礼いたします」
襖が静かに開き、繋が立っていた。
確かな意志を宿した瞳で、そっと問いかける。
「先ほどから、どこか心が沈んでおられるように見えました……
なにか、お悩みがあるのではありませんか?」
繋の静かな声に、
巫女は堪えきれず、小さく息を震わせた。
「……私は……巫女として、あるまじき想いを抱いてしまいました」
言葉を区切るように、繋はそっと膝を折り、
その側に寄り添う。
巫女は苦しげに息を整え、
揺れる灯を見つめながら静かに言った。
「祠のそばで……稲人様のお気持ちを、偶然、耳にしてしまったのです。
本当は聞くべきではなかったのに……どうしても耳が離れなくて……」
巫女の喉が震え、かすかな声がこぼれる。
「稲人様は……私のことを……
“お慕いしている”と……そう仰っていました。
そして……“見守るだけで幸せだ”とも……」
胸の奥から溢れた感情は、もう隠せなかった。
「嬉しくて……苦しくて……
どうしたら良いのか、分からなくなってしまったのです……」
繋はそっと表情をやわらげ、
巫女の揺れる心を包み込むように静かに微笑んだ。
(……姉様らしいです。
あれだけお気持ちが滲んでいたのに……
気づくまでに、どれほど時がかかったことでしょう)
繋は巫女の手にそっと触れ、
優しく言葉を紡いだ。
「姉様は、いつも村の人々のために祈り、尽くしてこられました。
そのお姿を、神様が見ておられぬはずがありません」
「私たちは、神様に身を捧げる巫女でございます。
けれど同時に……一人の娘としての心も持っております。
誰かを想うことは、御心に背くことではございません。
それは……尊く、美しい心でございます」
「誰かを大切に思う心は、きっと神様だって許してくださいます。
姉様の想いは……決して間違いではありません」
巫女は息を呑み、そっと瞳を閉じた。
胸の奥にじんわりと温かい灯が生まれる。
(……稲人様も、ただ想いを抱えながら……
そばで見守る道を選ばれた……
ならば……私も——)
そっと息を吸い、まぶたを開く。
(私も……稲人様と同じように)
巫女はひとつ覚悟を結び、
凛とした表情で顔を上げた。
「それならば、私も——稲人様を見守り続けます。
たとえ結ばれなくとも、
稲人様が笑って、この村で穏やかに過ごせるよう……
祈り、そして守っていきたいのです」
その言葉には迷いがなく、
一人の巫女として、そして一人の娘としての決意が宿っていた。
繋はふっと表情を緩め、
やわらかな微笑みを浮かべた。
「ええ……それで良いのですよ姉様」
「……それにしても、ようやく、姉様はお気づきになられたのですね。
ご自身の、素直なお気持ちに」
驚きに目を見開く巫女を前に、
繋はどこか誇らしげに続ける。
「私はずっと見ていました。
姉様が稲人様と共に務める日は、どこか嬉しそうで……
お声をかけられるたび、表情が少し柔らかくなることも」
胸の奥にそっと灯りがともるような、
やわらかな声だった。
「それに……」
繋は、ふっと唇に笑みを浮かべた。
「稲人様も、姉様のことを目で追っておられましたよ?
掃除のときなど、ほうきを持ったまま動かなくなるほどに」
「えっ……!?」
巫女の肩がびくりと揺れる。
繋はくすくすと嬉しそうに笑い、
袖で口元をそっと隠した。
「姉様が気づいていないのを、いつも不思議に思っていたのです。
境内の皆も……きっと同じ気持ちだったと思いますよ」
巫女は耳まで赤く染めながら、視線を落とした。
「そ、そんなにも……? 私……そんな姿を……?」
「はい。とてもわかりやすく」
繋は愛しく思うように頷いた。
灯のゆらめくあたたかな光が、
二人の間に小さな笑いを灯した。
その笑いは、ほんのひととき心を軽くする、
静かな救いだった。
(……どうか、稲人様が笑って生きていけますように)
---
それからまた季節は幾度も巡り、
二人がお互いの想いに気づいてから、いくつもの月日が流れた。
巫女はすっかり成熟し、
落ち着いた気品と、深い優しさを宿す女性となっていた。
稲人もまた、若者衆として村の誰からも信頼される青年へと成長していた。
強さと誠実さを併せ持ち、誰もが頼りにする存在に。
そして二人は——
互いを想う心を胸の奥に静かに秘めながら、
ただ、相手が健やかに、笑顔でいられることだけを願い続けていた。
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ある年の豊穣祭の日。
祭りの準備へ向かう道すがら、風に揺れる花々が二人の足を止めた。
一面に咲き誇る、秋桜——コスモス。
淡い桃色と白の花びらが、秋の風に揺れている。
巫女は思わず息を呑み、そっと微笑んだ。
「……なんて、綺麗なのでしょう。 枯れてしまうなんて……勿体ないですね」
その横顔を見つめ、
稲人は静かに言葉を返した。
「ええ。本当に……美しい」
その声音は、花ではなく巫女に向けられたものだと、
風だけが知っていた。
二人は少し微笑み合い、
何事もなかったように歩き出した。
---
数日後。
務めを終えた巫女のもとへ、
稲人がそっと包みを差し出した。
「これを……巫女様に」
開かれた包みの中には、
丁寧に押し花にされた豊穣祭の日のコスモス。
秋陽の色をそのまま閉じ込めたような、優しい花の形。
「いつも……村の皆のために尽くしてくださって、ありがとうございます。 その感謝の気持ちです」
稲人はそう言って、短く頭を下げた。
本当はもっと伝えたい言葉があった。
けれど、その言葉は胸の奥で静かに留められたまま。
巫女は驚いたように目を見開き、
やがて——ゆっくりと笑みを溶かした。
「……まあ……なんて、綺麗…… 本当に……ありがとうございます。 大切に……いたします」
その声は、かすかに震えていた。
けれど、それは悲しみではなく、
胸いっぱいに満ちた喜びの震えだった。
ただ押し花を手にするだけなのに、
二人の胸は、静かに熱く満たされていく。
言葉にはしない。
伝えはしない。
ただそばにあるだけで、心が満たされる。
——それが、二人が選んだ愛の形だった。
巫女が押し花を胸に抱き、そっと微笑んだとき。
境内の上空を、ひゅう、と細い風が通り抜けた。
秋の香りを運ぶただの風——
そう思ったはずだった。
けれど、ほんの一瞬だけ、
巫女の指先に、かすかな寒気が触れた。
(……冷たい……?)
理由もなく胸騒ぎがして、巫女は押し花をそっと胸に抱き締めた。
「巫女様、どうかなさいましたか?」
横で控えていた巫女見習いが首を傾げる。
巫女はやわらかく微笑んでみせた。
「いいえ……ただ、少し風が冷たいだけです。
きっと今年の冬は早く来るのですね」
稲人もまた、ふと空を仰いだ。
灰色がかり始めた雲が、いつの間にか広がっている。
(……天候の変わり目か?
いや……胸の奥が妙にざわつく……)
理由のない不安を振り払うように、稲人は小さく息を吸うと、 巫女の方へ向き直った。
「巫女様。お身体を冷やされませんよう……どうかお気をつけて」
「はい。稲人様も——」
二人はそっと目を合わせ、やわらかく微笑み合った。
その光景は、
これから訪れる痛みや絶望など、何ひとつ知らない
静かで、完璧な幸せの瞬間だった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
巫女としての務めと、一人の娘としての想い。
その狭間で揺れる巫女の心を、丁寧に描けていれば幸いです。
静かな幸福と、わずかな不穏の風——
この先の物語も、少しずつ紡いでまいります。
どうぞ、これからも見守っていただければ嬉しく思います。




