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第17話 懐かしい男

 ヤツに知られてしまっていたからバイトは替えざるを得なかった。急に辞めるなんて無責任なことはしたくなかったけど仕方ない。

 和菓子屋の店長にたくさんたくさん謝ったら、逆に笑って労いのお菓子を貰った。ほんと申し訳なかった。


 そんなこんなで今はケーキ屋さんでバイトを始めた。お正月にロールケーキを買ったお店だ。

 洋菓子店は初めてだったけど、菓子折りの包装をいかに手早く折り目正しくするかを追求するのと同じで、いかにぴったり隙間なくケーキを箱に詰めるかを追求するのにハマってしまった。なかなか楽しい。


 こんなかわいいお店でバイトするのは若い学生さんばかりだろうと覚悟してたけど、そんなことはなかった。

 平日に一緒にシフトに入るのは私よりはるかに年上の主婦さんだったりして、それも新鮮だ。

 何よりオーナーさんが初老のおば様で、自ら焼き菓子を焼いてる姿に驚いた。


「ケーキ屋さんをやるのが夢だったのよ」

 目尻に皺をため、そう笑う姿はとても生き生きしていて羨ましい限りだ。夢があるって大事だなあ。

「すごいですね。私は夢ってないですもん」

 思わずそう話すと、オーナーさんはますます可笑しそうに笑った。

「ないわけないわよ。忘れてるだけなのよ」

 忘れてるだけ。そうなのかなあ。

 つらつら考えてみたけどわからない。


「イチゴのホールのケーキってありますか? 子どもの誕生日に使いたいんですけど」

 来店したお客さんの質問を受け、厨房に訊きに一旦下がる。

「二十分ほどでご用意できます」

「あ、それなら後でまた来ます」

「お取り置きしておきますのでお名前だけよろしいですか? お誕生日プレートやろうそくは……」


 やけにじろじろ見られているのを感じて窺うと、その男の人は私の胸の名札に視線を注いでいる。

「えーと、田島だよね? おれ、井口だけど覚えてないかなあ?」

 なんですと?


 私もまじまじと顎髭を短く生やしたその顔を見つめてみたけど、ぴんとこない。

「……本屋さんでよく会ったよね」

「うん、そうそう」

 相槌を打った顔に戸惑いが広がる。

「あ、え……と……」


 なんとも言えない沈黙に包まれていると、オーナーさんがひょっこり顔を出して言ってくれた。

「お知り合い? 待ってる間おしゃべりしててもいいわよ。他のお客さんが来たら戻ってね」

「あ、はい」


 逆に追い出されるようにして店先に出る。

 こんな気まずい空気の中おしゃべりって言われても。


「あの、お子さんっていくつ? ろうそく入れておくから」

「あ、そうだよね。今日一歳になるんだ。ケーキなんかまだ食べれなくて、本人を目の前にして親が食べるんだけどね」

「ははは……」

 笑うしかない。


「名前は?」

「ひらがなであんり」

「あんりちゃん。じゃあ、プレートにはそう入れるね」

「あ、うん。よろしく」

 仕事の用件がすんでしまい、また気まずい沈黙が流れる。


「あのさ……」

 困ったようにそわそわしていた井口くんがやがて口を開いた。

「ついさっきまで忘れてたくせに、こんなふうに言うのもおかしいけど、ずっと気になってたんだ。その、高校のときのこと……」

 井口くんの馬鹿正直な物言いは、今の私の胸に柔らかく届いた。


「うん。そんなことあったね」

「ごめんな。おれ、何も言わずに行かなくなっちまって。おれから付き合おうって言ったくせに……」

 おずおずと井口くんは私を見る。

「怒ったよな、きっと」

「正直言って、よく覚えてない」

 本当のことだ。私だって思い出したのは最近のことだから。

「でも、どうして来なくなっちゃったのかは気になる」

 少し意地悪な気持ちで言ってみる。


 井口くんは目を瞬いてしっかりと私を見た。

「既婚者が何言ってんだって怒らない?」

「ええ? 怒るようなこと? 聞いてみないとわからないよ」

「うん。あのさ、まあ……子供だったんだよね」

「うん」

「田島のこと好きすぎて、怖かった」


 他の誰かに言われていたら、何言ってんだって鼻で笑ったと思う。それくらいには私は性格が悪いし、大人にもなってしまった。

 でも他ならない井口くんが言うから、素直に受け止めることができた。


「怖くて付き合おうって言うのがようやくで、思い出してみたら好きとも言ってなかったと思うんだ、おれ」

「そうかもね」

 それを言ったら私だって。

「こっそり眺めてるくらいでちょうど良かったんだよな。へたに欲を出したばっかりに自分でもぐちゃぐちゃになっちまって、それで逃げた」


「そういうことも話してくれれば良かったのに」

「バカ、思春期男子のぐちゃぐちゃだぞ。口に出すのもおぞましいぞ」

 そうなのか? それは、あの露出狂の方々の行動よりも恥ずかしいことなんだろうか。思春期男子の思考など思いもよらない私にはわからない。


「でもさ、あの時間はいい思い出っていうか、忘れてたくせに何言ってんだって感じだけど」

「わかるよ」

 思い出は、普段は胸の引き出しに仕舞われて、毎日取り出して眺めるようなものじゃない。こうやって不意に思い出して心がいっぱいになる。


 夢もそうなのかな。目の前にぶら下げて楽しく見つめていられるうちはいいけれど、現実を知って絶望して、目に付くのがつらくなったら奥深くに仕舞い込んでしまう。捜そうと思って探ったところでなかなか見つからなくて、あるとき不意にはっきりと形を思い出すものなのかもしれない。


「あのさあ、既婚者の人にこういうこと言うのもなんだけど。他意はないから許してほしいのだけど」

「うん?」

「私たちって、彼氏彼女だったよね? 私はそのつもりなんだけど」

 ちょっとびっくりした顔で黙った後、井口くんはにかっと笑ってくれた。

「もちろん。おれだってそのつもり」


 ケーキが仕上がったみたいだったので店内に戻って支度をする。

 私はチョコペンで丁寧に一歳の子どもの名前を書いた。


「ありがとうございました」

 店の外まで出て、井口くんがクルマに乗り込むのを見送る。

「田島さ、ずっとここで働いてるの?」

「ううん。そのうち辞めると思う」

「そっか。じゃあな」

「バイバイ」


 通りに走り出るクルマに手を振って、視界からそれが消えると、ようやくコトリと胸に落ち着くものがあった。

 ようやく。初めから終わりまで、きちんと恋を終わらせることができた。納得できた。


 本当は、しっくりできない点はまだたくさんあった。

 井口くんがあんなふうに言ってくれるほど、私は彼を好きだったろうか。好きだったとしても、その重さが同じだったとは思えない。


 好きって気持ちはいつでもそうだ。お互いを同じ分だけ愛し合えたら苦労はしない。そうじゃないから男女の揉め事は起きる。

 その差異を金品で埋めたり、家事労働で賄ったり、体で尽くしたり。

 そうやって埋め合わせてもらったことにして、不満を落ち着けてるのじゃないのかな。


 だとしたらやっぱり大人の恋愛は打算でしかない。

 ああ、気持ちの重さに差があることがわかってるから好きって口に出せなくなっちゃうのかな。算盤尽ならそんな勇気はいらないもんね。


 大人は臆病だ。年をとるとカラダの傷が治りにくくなるように、大人になって負ったココロの傷は塞がらないのかもしれない。だから大人は傷つくことを極端に恐れる。素直な心をなくして図太い振りをする。

 そうでなければ世の中を泳ぎ切れないから。傷つくとわかってる恋愛に心を砕く余裕なんてないのだ。


 それでも、好きって気持ちは心のどこかにあるのかな。大好きって思える気持ちは、また湧き出てきてくれるのかな。

 そのとき私は、その誰かに向かって大好きって言えるのかな。わからないな。今はまだ。

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