第2話 連れ去られる側の余裕
扉が閉まる音は、思っていたより軽かった。
あれほどの視線を浴びていたはずなのに、外に出た瞬間、すべてが嘘のように遠くなる。
廊下は静かで、足音だけがやけに響いた。
「こちらへ」
淡々とした声で、騎士が先導する。
左右を挟まれ、逃げ道はない。
けれど、逃げるつもりもなかった。
――少なくとも、今は。
歩きながら、私は軽く息を吐く。
肺の奥に残っていたざわめきが、ゆっくりと抜けていく。
断罪。
婚約破棄。
失脚。
全部、予定通り。
……のはずだった。
「……少し、予定より早いですね」
小さく呟くと、右側の騎士が怪訝そうにこちらを見た。
「何か?」
「いいえ」
視線を戻す。
余計な言葉は不要だ。
ただ、ひとつだけ気になっている。
あの男。
最後に見た、あの視線。
あの言葉。
『やっと見つけた』
あれは、誰に向けられたものだったのか。
考えるまでもない。
――私だ。
問題は、なぜ、だ。
私を“見つける”ということは、私を“探していた”ということになる。
そんな人間が、この時間、この場所にいるはずがない。
少なくとも、私の知っている未来には。
「……おかしい」
無意識に零れた言葉に、今度は左の騎士が反応した。
「何がです」
「いいえ。本当に、独り言です」
これ以上は聞かれたくない。
聞かれても理解されないだろうし、理解されるのはもっと困る。
廊下を曲がる。
窓の外に、夜の庭園が見えた。
灯りの下、白い花が揺れている。
あの夜も、こんな風に静かだった。
違うのは――。
ここがまだ、燃えていないということだけ。
足が、ほんの一瞬だけ止まりそうになる。
その未来を知っているのに、何もしていない自分。
その事実が、わずかに胸を刺した。
……まだ、早い。
ここで動けば、すべてが崩れる。
あの結末を避けるためには、順序がある。
順番を間違えれば、もっと悪い結果になる。
だから。
「セレスティア様」
前を歩いていた騎士が振り返る。
「到着です」
重厚な扉の前だった。
見覚えがある。
地下の一室。
形式上の“拘束”のための部屋。
――一度、入ったことがある。
胸の奥が、冷たく沈む。
「……そうですか」
扉が開かれる。
中は質素だった。
椅子と机。
小さな窓。
それだけ。
「こちらでしばらく待機していただきます」
「逃げるつもりはありませんよ」
軽く返すと、騎士は無表情のまま頷いた。
その態度に、少しだけ救われる。
感情を向けられない方が、楽なこともある。
扉が閉まる。
鍵の音が、はっきりと響いた。
ひとりになる。
ようやく、思考を止めずに済む。
椅子に腰を下ろし、指先を軽く組む。
「……さて」
何から整理するべきか。
まずは、今日の出来事。
断罪は成立した。
婚約は破棄された。
私は排除された。
ここまでは、予定通り。
問題は、その後だ。
未来の記憶と照らし合わせる。
この後、私は数日拘束され、その後、領地へ送られる。
その過程で、いくつかの分岐があり――。
「……」
思考が止まる。
いや。
止められた、のか。
違う。
思い出せない。
「……そんなはずは」
記憶は曖昧でも、流れは覚えている。
それなのに、今、重要な部分が抜け落ちている。
まるで、そこだけ誰かに切り取られたように。
ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。
「……これは」
未来が曖昧なのではない。
未来が“変わっている”。
その可能性が、現実味を帯びてくる。
あの男。
あの視線。
あの言葉。
全部が繋がる。
「……本当に、いるのですね」
私以外に、“知っている者”が。
扉の外で、足音が止まった。
思考を止める。
顔を上げる。
ノックはなかった。
鍵が外れる音だけがして、扉が開く。
そこに立っていたのは――。
「やあ」
軽い声だった。
夜会の場で見た、あの男。
黒髪に、灰色の目。
場違いなほど気の抜けた表情のまま、こちらを覗き込んでいる。
「思ったより落ち着いてるね」
彼はそう言って、勝手に部屋の中へ入ってきた。
騎士の姿はない。
廊下にも気配はない。
ありえない状況だった。
「……あなたは」
「名前はまだいいでしょ」
軽く手を振る。
無礼というより、常識がない。
「それよりさ」
彼は机に寄りかかり、私を見た。
まっすぐに。
迷いなく。
「君、どこまで知ってる?」
空気が変わる。
さっきまでの断罪とは違う、もっと静かな緊張。
私は視線を逸らさない。
「その質問に答える理由がありません」
「あるよ」
即答だった。
彼は笑う。
さっき夜会で見たのと同じ、楽しそうな笑み。
「だって、君だけじゃないから」
言葉の意味を、理解するのに一瞬かかった。
「……何がですか」
「未来を知ってるの」
軽く言われる。
あまりにも軽く。
それがどれだけ重い意味を持つか、理解していないように。
いや、違う。
理解した上で、軽く扱っている。
その余裕が、何より危険だった。
「驚かないんだ」
「……驚いていますよ」
「そうは見えない」
「あなたが軽すぎるだけです」
返すと、彼は肩をすくめた。
「まあ、それもそうか」
沈黙が落ちる。
探り合い。
どちらも、一歩踏み込めば何かが壊れるとわかっている。
先に動いたのは、彼だった。
「確認だけど」
彼は少しだけ声を落とす。
「三年後、この国がどうなるか、知ってるよね?」
問いではない。
確認だ。
私は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「ええ」
「どんな風に?」
「……それを聞いて、どうするつもりですか」
「答え合わせ」
あっさりと言う。
「君と、同じ未来を見てるのかどうか」
その言葉で、確信した。
この男は、嘘をついていない。
少なくとも、この部分に関しては。
問題は――。
“同じ未来”なのかどうか。
私はゆっくりと口を開く。
「王都は炎に包まれます」
彼の目が、わずかに細くなる。
「王城は崩れ、多くの人間が死ぬ。原因は――」
そこまで言って、私は止まった。
彼を見つめる。
彼は、続きを待っている。
期待するように。
楽しむように。
だから私は、言わなかった。
「……続きを言う必要はありませんね」
「えー、そこは言ってよ」
軽く不満そうな声。
けれど目は笑っていない。
「情報は等価交換です」
「いいね、それ」
彼はくすりと笑った。
「じゃあ、こっちから一つ」
そして、あっさりと言う。
「その未来、もう変わってるよ」
――。
一瞬、音が消えた。
呼吸が浅くなる。
「……何を」
「さっきの夜会」
彼は顎で扉の方を指す。
「君、余計なこと言ったでしょ」
心臓が、大きく脈打つ。
あの一言。
三年後の話。
「それで、何人か気づいた」
「……まさか」
「まさかだよ」
彼は楽しそうに笑う。
「未来ってさ、観測されると変わるんだ」
背筋が凍る。
その言葉は、直感的に理解できた。
そして同時に、最悪だとわかる。
「……あなたは」
「うん?」
「それを、わかっていて」
「止めなかった」
被せるように答える。
あまりにもあっさりと。
「だって面白いじゃん」
笑う。
本当に楽しそうに。
「君がどうするのか」
その言葉で、すべてがひっくり返った。
これは、破滅回避の話ではない。
誰かが未来を見ている。
誰かがそれを動かしている。
そして、その中に――私もいる。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「……困りましたね」
「さっきも言ってたね、それ」
「ええ」
今度は、少しだけ本音が混じる。
「本当に、困っています」
彼は笑うのをやめた。
ほんの少しだけ、真面目な顔になる。
「じゃあさ」
軽く、手を差し出す。
「協力する?」
その言葉に、私は一瞬だけ迷った。
――ありえない選択だ。
得体の知れない男。
危険な思想。
信用できる要素は何一つない。
それでも。
このままでは、未来は崩れる。
いや、もう崩れ始めている。
「……条件があります」
気づけば、そう言っていた。
彼の口元が、ゆっくりと歪む。
「いいね」
楽しそうに。
「そういうの、好きだよ」
私は彼の手を見た。
差し出されたままの手。
握れば、もう引き返せない。
でも。
最初から、引き返すつもりなどなかった。
「あなたは、どこまで知っているのですか」
「さあね」
彼は肩をすくめる。
「君よりは、ちょっと多いかも」
その答えで、確信する。
この男は。
私より危険だ。
でも――。
使える。
「……わかりました」
私は手を伸ばす。
指先が触れる。
その瞬間、彼が小さく呟いた。
「これで、三人目だ」
意味を考えるより先に、手が握られる。
逃げ道が、消える。
そして同時に。
選択肢が増えた。
私は静かに息を吐いた。
未来は、もう一つじゃない。
ならば。
選び直すしかない。
今度こそ。
間違えないために。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
静かなはずの第2話ですが、
「未来を知っているのが一人ではない」と分かった瞬間から、
物語の前提が少しずつ崩れ始めています。
セレスティアはまだ“知っている側”ですが、
次話からは“巻き込まれる側”に変わっていきます。
もし「この先どうなるのか気になる」と感じていただけたら、
ブックマークや評価をいただけるととても励みになります。
次は、少しだけ状況が動きます。
お楽しみに。




