9.似た者同士
町と浜辺の境目に来て足を止めた途端、開口一番に謝られた。
「すみません、不快な思いをさせて。いつも売っている人がいると思ってたんですけど……」
「一馬くんが謝ることじゃないでしょ!なにあの態度!?一馬くんいつも町であんな風に扱われてるの?だったら先に言ってくれたらよかったのに!」
そうしたら、わざわざ町を案内なんてさせなかった。一馬くんに嫌な思いをさせるくらいなら、私ひとりでも買いに行ったのに。
憤慨する私に対して、一馬くんは目を伏せるだけだ。
「ごく一部の人だけですよ。今日はたまたま会う相手が悪かっただけです。なぜか、ぼくの火傷に対して、ぼく以上に過剰に反応する人がいて」
前髪で火傷を隠しているのは、そんな奴らの視線から逃れる意味合いもあったのかもしれない。
「今みたいに露骨な人もいますけど、基本は良い人たちが多いですよ。あやめさんに、町の良いところをもっと紹介したかったんですけど、残念です」
自分が晒されてきた視線から逃れるために、気が付けば町から随分と遠ざかってしまった。
「一馬くんが悪いんじゃない」
「いえ、ぼくの個人的な都合に、あやめさんを巻き込みました」
「そんなの、私だって同じことをしたよ」
潮を助けたくて、彼の手を借りた。
「悪いのは、自分と違うことを面白がったり、受け入れられないあいつらの方だよ」
高ぶった感情が、潮風の匂いを感じるうちに少しずつ収まっていく。たった数日しかいないはずなのに、潮の故郷で、一馬くんの家がある浜辺は、いつの間にか私にとっても安息の地になっているみたいだ。
「私は、一馬くんがあんな態度取られて悔しいし、悲しい。だって、一馬くんが悪いわけじゃないのに」
「多少、驚かせてしまうのは当然だと思いますが」
「だからってあの態度はないでしょ!」
彼がないがしろにされたことに対して、私は強い怒りを感じていた。一馬くんは、私たちに歩み寄って、何度も助けてくれた。たくさんの優しさをくれた。そして潮に、永遠をくれようとしている。
そんな彼が、顔に火傷があるというだけで町の人たちから嘲笑されているのが、許せなかった。
一馬くんは、唇に手をあてて考え込んでいる。
どうすれば私を納得させる答えを出せるかという顔だ。短い付き合いだけど、なんとなくわかる。気が付けば私は、潮や一馬くんの分まで怒ってしまっている。
だって、怒るべき時に大切な人たちが怒ってくれないんだから仕方ないでしょ。奪われて、傷付けられて当然だって顔をして、現実を受け入れている様を見るのが、私は一番辛い。
「納得できないって顔してますね」
「一馬くんは納得してるの?」
「傷つきはしますが慣れました。あ、これ潮さんと同じこと言ってますね」
「私が一番嫌いな言葉だ」
「それは失礼しました」
一馬くんは大きく息をつくと、自分から前髪を横に除けた。露わになった左側の火傷。変色した厚い皮膚が、額から頬にかけて張り付いている。
「変わっていると言われるかもしれませんが、ぼくは、周りにとやかく言われることよりも、この傷がなくなってしまうことの方が怖いんです」
「どうして?」
「これはけじめですから。母を守れなかったことへの」
話は長くなると言わんばかりに、彼は横たわっている大木に腰掛けた。隣に座ると、それが合図になって彼は語り出した。
「ぼくが11歳の頃の話です。まだその頃は、町にある長屋に住んでいました。秋になると、山の麓にある神社でお祭りをするんですが、ちょうどその日、一緒に行くはずだった母が風邪を引いてしまって」
きっとこれは、彼にとってとても大切な話だ。それを、出会って間もない私なんかが聞いてもいいのだろうか。
そう思いながら、耳を傾ける。
「父は鈴を連れて、隣町に薬をもらいに行っていました。幼い鈴に、風邪が移るといけないから一緒に連れて行ってほしいと、母がお願いしたんです。ぼくは、母の看病のために家に残っていました。外の遠くで祭り囃子を聞きながら」
喉を締め付けられたように、一馬くんの顔が苦しそうに歪む。
「ぼくは、祭りに行きたいけど、それを我慢していました。風邪を引いている母を置いていくわけにはいきませんから。でも、母はきっとそんなぼくの考えを読んでいたんですね。おもむろに、甘い物が食べたいから飴を買ってきてほしいと頼んできたんです」
声の中に、後悔が浸みていく。
「一度は断りました。でも、どうしてもというから、ぼくは祭りへ行きました。ほんの数十分。飴細工だけを買って、帰ろうとしていた時に、長屋の方で火事が起きたと聞きました」
節だった手で膝を抱え直した一馬くんは、海の向こうにその時の記憶を見ていた。
「ぼくが帰った時、火はもう家の隣まで来ていました。家は隣から落ちてきた柱に押しつぶされて、母は下敷きになっていたんです。ぼくは火が移る前に助け出そうとしました。でも、どうしても、柱を退けられなかったんです」
青い海の向こうに赤い炎を見ながら、一馬くんは声を詰まらせることもなく続けた。
「動ける大人はみんな避難した後で、子どもひとりの力じゃどうしようもありませんでした。結局、ぼくは目の前で母が火に包まれていく姿を見ていることしかできなかった。この傷は、その時にできた傷です。家が潰れる時に、道の方まで柱が崩れてきたので」
「よく無事だったね」
「間一髪で父に助けられました。それでも、母は助けられなかった」
海を見つめていた彼は、自分の手のひらを見つめた。
「今でも思うんです。あの時母をひとりにしなければ、柱を退かせていたら、母は助かったんじゃないかと」
きゅっと目尻を下げた彼は、そのまま私の方を見た。
「だから、あやめさんが羨ましかった。自分の力で潮さんを助け出したあやめさんを見て、ぼくは救われていたんだと思います」
「そんなの」
後悔に焼かれて、苦しそうに息を継ぐ彼を前に、言わずにはいられなかった。
「私ひとりじゃ、潮を見つけることすらできなかった。一馬くんがいたから、私は潮を助けられたんだよ」
必死で柱を持ち上げようとしていた手に触れる。何度も私たちを助けてくれた、優しい手。
目をまん丸にして、頬を震わせた一馬くんは、閉じていた口をゆっくりと開いた。
「……ぼくは力になれましたか?」
私は、深く頷いた。
「もちろんだよ。私と潮を助けてくれて、ありがとう」
そう言うと、彼は目尻と口角を震わせながら、ゆっくりと、ゆっくりと笑顔を浮かべた。まるで、湧き上がった感情が表に染み渡るように、何もなかった顔に表情が産まれていく。
「よかった。ぼくにとって、誰かの役に立てることは、一番嬉しいことなんです」
あどけない顔に笑顔が宿ると、彼はより一層幼く見えた。やっと笑うことを許された子どもみたいだと思った。
話が終わる頃には、太陽が海へ帰ろうとしていた。夕日が一望できる家に帰ると、いつもとは違う喧噪が、飛び込んできた。
「だからさぁ、子どもの成長って早ぇなって思うんだよ!」
呂律の回っていない声。一瞬、誰だかわからなかったが、よくよく聞くと、それは潮のものだった。
「ちょっと前まで、町に行きたくないってごねてたのに、今日なんかカズマと買い物にまで行ってるんだぜ?立派になって欲しいとは思ってるけど、早すぎてついていけねえよぉ」
とことこと鈴ちゃんが玄関まで走ってきた。困った顔で私と一馬くんを見上げてくる。そっと居間の方を覗くと、水槽の前で酒瓶を転がしている大人二人がいた。その間も、潮の独白は続く。
「あいつのこと考えたらさ、やっぱ村で暮らすより町で暮らした方がいいんじゃねえかって思うんだよ。ここは村ほど閉鎖的でもねえし、おっさんたちもいるし。馬が合わなきゃ、他の土地だってあるだろ?」
「でもあやめちゃんはお前といたがってるんだろ?」
「でも俺はさぁ」
泣きそうな声で潮が言った。
「あいつが転びかけても、支えてやれるような足がないんだよ」
息が止まった。
「だから、あいつを支えてやれるような奴に、あいつのことを任せたい。なぁ、おっさん。カズマって好きな子いんのかなぁ。あいつとアヤメなら、結構お似合いだと思うんだけど」
「そりゃあ本人に訊いてみなきゃわからないけど」
「なんだよ!うちの可愛いアヤメが気に入らねえのかよ!」
「そんなこと言ってないだろ!勧めたいのか勧めたくないのかどっちだよ!というより、お前はそれでいいのかい?」
「俺?」
「相手が一馬とは限らねえけど、あやめちゃんが結婚して、離れることになったら寂しいんじゃないか?」
「そんなの」
居間に入ろうとする一馬くんを制止して、私はその答えを待った。次の瞬間、顔を伏せて、真剣な眼差しをしていた潮はくしゃりと顔を歪ませた。
「そんなの寂しいに決まってるだろー!アヤメが嫁に行くとか考えたくねえよぉ!」
「なら、一緒にいてやればいいじゃないか」
「だからぁ、俺じゃあ駄目なんだよ」
水槽に額を擦りつけて、潮は拗ねたように呟く。
「俺じゃあいつの隣を歩けねえもん。ああ、足が欲しいなぁ。あいつの隣を歩けて、あいつを支えてやれる立派な足」
私が、水の中を泳ぐ尾ひれを欲しがったように、潮も地面を歩く足を欲しがった。
それってつまり、潮も私の隣にいたいと願ってくれているってことだよね。
「年取ったら弱って、同じ場所で立ち止まれる、普通の足」
時間の中を泳ぎ続けてきた彼は、いつも誰かに見送られていく。不老と尾ひれでどこへでも行けるように見せかけて、その実彼はどこにも居場所がなかったんじゃないのだろうか。
神様、同じ海から来たって言うなら、どうしてこんな風に私と彼を断絶しようとするの。
尾ひれがあれば、足があれば、力があれば。そのままの相手を肯定したいのに、一方で私たちは自分にないものを羨んで、求めている。欠けている何かを得られれば、無条件に幸せになれると信じて止まない。
実際は、そんなに簡単なものじゃないのかもしれないけど。
尾ひれのない私が、足のない潮が一緒にいられる方法。
「そんなものなくたって……」
脳裏に、きらきらと輝く川辺が映る。冷たくて透明な水の中で、畑仕事をする私を見つめる潮。
「足なんかなくても、一緒にいたらいいでしょ!」
飛び出して、そう叫んだ。
潮は、持っていたお猪口をぽろりと落とした。
「川でも海でもどっちでもいいよ!潮が行きたいところなら、私はどこでも着いていく!私は海を泳げないし、潮は地面を歩けないかもしれないけど!でも、」
水槽に駆け寄って、数時間ぶりの温もりに触れた。
「もう勝手に、どっかに行ったりなんかしないから。潮も、どっかになんか行かせないから。砂利道と砂浜なら、一緒にいられるでしょ?」
それは、出会ってからずっとしてきたことだ。一緒にいたいなら、単に離れなければいい。たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに遠回りしてしまったんだろう。
「長生きだってする!だから……っ」
「アヤメ……」
水滴が落ちたように、見上げた瞳が潤んだ。ぐっと掴んだ肩が強ばったかと思うと、がくりと彼の頭が落ちた。
そして、潮は口の中のものを全てぶちまけた。
「わーーーーー!ちょっ、大丈夫、潮!?」
「……きもちわりぃ」
頭が痛いと言いたげな表情で、一馬くんが手ぬぐいをかき集めてきた。批難がましい目を信親さんに向けている。
「父さん、何病人に酒を飲ませてるんですか」
「適度な酒は健康の秘訣だろ」
「時と場合と容量によります。潮さん、もういっそ胃の中のもの全部出してください」
手際よく桶やら水やら私の着替えやらを用意していく。一馬くんの手伝いをしたかったけど、いつの間にか両肩を強く掴まれて動けなかった。
「アヤメ」
「大丈夫?とりあえず、横になろう?話はまた今度でいいから」
息も絶え絶えな潮を早く横にしてあげたかったが、彼はよろよろと頭を上げて私を見た。
泣くのを我慢しているような顔をしていた。ぱくぱくと息を取り込もうと唇を動かす。何かを伝えたいのに、言葉が見つからないと言い足そうな反応だ。
「ずっと、なんてねぇんだ」
「うん。でも、私が生きてる間だけでも一緒にいたいっていうのは、わがままかな?」
「そうじゃねぇ」
ぶんぶんと頭を横に振る。誰よりも長い時間を生きてきた彼が、何を伝えたいのか。それがわからないのが、ひどくもどかしかった。
「だって、俺ぁ、お前を置いていくかもしれねえのに……」
「え?」
真冬の雪に埋もれてしまいそうな、か細い声でそう言われた。それっきり、潮は意識を失うように眠ってしまった。
彼の残した言葉だけが、私の胸に冷たい風穴を空けていった気がした。