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少女はただの一声も上げない。あごを引いて中年人狼をにらみつける視線だけが拒否の印だった。
縛られたままのレムルクは両の目を閉じる。どうせ何もしてやれないのなら、せめて少女の痴態を見ないようにしてやろうと……それは中年人狼にたいする精一杯の抵抗であった。
「へえ、男を知ってるんだからもっと汚ねぇ体してんのかと思ったら、意外にきれいなのな」
男がカミラにのしかかった気配がする。きっとあの少女は今も一文字に唇を引き結んで悲鳴をこらえているのだろう。
だからなおさらきつく瞼を閉じようと、レムルクは顔を背ける。
真っ暗な視界の向こうで、荒い鼻息の音が少女に吹きかかるのを聞いたような気がした。
「へえっへっへ……こっちも綺麗かな? 確かめてやろう」
男が何をしているのか、かの序のどこに触れようとしているのか、閉ざした視界の中にも思い描けるほどのおぞましいささやき。
レムルクが思わず悲鳴を上げそうになったそのとき、救いの声は高らかに響き渡った。
「俺のカミラに触れるなっ!」
驚きと期待に瞼を開いたレムルクが見たものは、次の瞬間、長身のマスターに蹴り上げられてカミラの体の上からふわりと跳ね上がる中年人狼の姿だった。
マスターはそのまま、小さな体を引き寄せて、肌を隠してやろうとするかのように大きく抱きしめる。おそらくここまでこらえてきたのであろう大粒の涙が、ぽろりと少女の眼から落ちた。
「マスター……」
「カミラ、怪我はないか? 痛いところはっ?」
「マスター、ごめんね……もう……お嫁さんになれない……」
マスターは、男がでっぷりとした腹を乗せるようにしてカミラにまたがっていたのを見ているはずだ。その上でそれを言われてどこまでを想像したのか……
彼は両手で顔を覆って天を仰いだ。そしてつぶやく。
「うそだ! ボクのカミラたんがっ!」
今まで聴いたこともないほど甲高い声で、なんだかいつものマスターとは別人のように情けなく、その男はわなないていた。
「うそだ、うそだ、うそだっ! マイエンジェル、プリティースイートなカミラたんが汚されるなんてっ! そんなことがあっていいはずがないっ!」
さらにぶつぶつとうわごとのように何かをつぶやきながら、彼はよろりと立ち上がる。
「ああ……そうか。ヒーローが間に合わなくてヤられちゃうっていうのはこういう話ではテンプレだっけ……そうか、テンプレか……」
そして突然の不快な高笑い。「けけけ」と獣じみた声が当たりに向けて吐き出される。
これに慄いたのはいままで周りを取り囲んでいたチンピラ人狼たちだ。それでも戦闘に長けた種族であるというプライドだろうか、何匹かはこぶしを固めて応戦の構えを見せる。
マスターは……いや、七勇者『タカシマ』はそんな一頭一頭の表情を見回して薄く笑っていた。
「いらない……カミラたんを汚すような世界はいらない……」
おびえて先走ったか、一頭の人狼が先陣きって飛び掛る。十分な跳躍と、大きく振り上げたこぶしと!
「うおおおおおおおお!」
「ふん、馬鹿が」
マスターが差し出したのはただ右手一本のみ、それのみだった。それだって大きく振りかざすような派手なアクションは何もなく、まるでテーブルの上からグラスを取り上げるように静かに差し上げられただけの話だ。
しかしその手は過たずに人狼の顔面をつかみ、骨の砕ける音をあたりに響かせた。
悲鳴すらない絶命……だらりと力を失った狼の体を投げ捨てて、マスターはさらに動く。
「いやだぁ! 助けてくれ!」
逃げ回る男たちの動きよりも、いや、悲鳴よりも早い動きは俊速を超えた神速。片手一本で次々と頭骨を握りつぶし、顔色のひとつも変えない姿は鬼神……そこには物腰優雅なマスターの人格などかけらもなく、一個の殺戮兵器があるだけだった。
そのままの勢いで、彼はようやくに起き上がった中年人狼の頭をつかむ。片手だけで太りきったからだが吊り上げられ、たれさがった醜い肉はもがいた。
「ゆるっ! 許してくれ!」
「許す? 貴様はこの世で最大の罪を犯した。そんな大悪人にかける情けなど俺は持ち合わせていないのでな」
「悪かった、カミラはあんたに譲る……好きなように犯せばいいだろ!」
「さらに罪を重ねようというのか、哀れな偽『紳士』めが」
「しん……し?」
「地獄に向かうお前への手向けに、俺の座右の銘を教えてやろう……」
タカシマはささやくような、つぶやくほどの小声でぽそりと言い放った。
「イエスロリータ、ノータッチ……」
次の瞬間、肉がすべての力を失って重力に引かれるがままにだらしなく垂れ下がった。ゴキリという音も聞こえたのかもしれないが、あまりにもあっさりとした死だから、レムルクにはそう思えたのだ。
中年人狼の死体を投げ出したタカシマは、大きなため息をひとつついた。
「ボクの……カミラたんを……」
その男の足が止まらず、いくつかの死体を踏み越えて……自分の目の前で立ち止まったことに、レムルクは恐怖した。
見上げれば彼の瞳は冷たく、何も映すものない新月の湖面のように空虚だ。
「レムルク将軍閣下?」
いやみをたっぷりと含んだ声はいつものマスターなのに、見知らぬ男の声を聞くような距離を感じて、レムルクは身をよじった。
「まて、大丈夫だ! キスだけだ! あの男があの子にしたのは、キスだけだ!」
「……そう、キスだけ……だからあの男を許せと?」
「……そういうわけじゃ……」
「カミラは泣いていた! それだけで十分万死に値するっ!」
その男はレムルクを見下ろしている。静かに。
「いいことを教えてあげましょうかレムルク将軍閣下、俺はね、カミラを悲しませる世界なんていらないんですよ」
レムルクは恐怖した。この男が本気を出せば世界を滅ぼすこともたやすいだろう。
しかし同時に安堵もした。これで死んだ彼女と同じところへいけるのだと――
「祈りなさい、そのぐらいの暇は与えてあげましょう」
タカシマの手がゆっくりと伸ばされる。覚悟を決めて目をつぶれば、思い浮かぶのは彼女が生きていたころの楽しい思い出ばかりだ。
「ユメルカ姫……今、そちらにまいります……」
これで終わりかと、安息のため息をつくレムルクをかばう小さな影。
カミラだ
「マスター、だめ!」
「どきなさい、カミラ……あなただけは傷つけたくない」
「マスター、この世界が滅んじゃったら私が悲しい、傷つくの!」
「それでもカミラ、私はあなたを傷つけようとする世界なんていらない」
「傷つかない……マスターが一緒にいてくれれば傷つかないの」
カミラの瞳からまた二つほど、涙が落ちた。
「もう……お嫁さんのチュウなくなっちゃったけど、でも……マスターのそばにいたい」
「ああ、カミラ!」
彼は剣呑な形に曲げていた指を優しく伸ばし、カミラに向けた。
「泣かないでカミラ、チュウだけだったんでしょう? ノーカウントです」
「でも、大人のチュウだった……」
「気持ちよかったですか?」
「ううん、気持ち悪くて、げーってしたかった……」
「でしょう? そんなのは大人のキスじゃありませんよ。犬にかまれただけだと思って忘れてしまいなさい」
その男が勇者『タカシマ』から『マスター』に戻る瞬間を、レムルクは見た。
まったくいつもどおりの優しい表情でカミラを抱き上げた彼は、すぐにカミラの頬に唇を近づけて小さなリップ音を立てる。
「本当の大人のキスは気持ちよくて、素敵なものなんですよ」
「そうなの?」
「あなたがちゃんと大きくなったら教えてあげますよ。だからカミラ、焦らず、でも早く大人になってくださいね」
「うん、マスター、大好き」
今はただ、軽く唇をすり合わせるだけのキスに満足して、恋人たちは抱き合いながら微笑む。
その姿を見ながらレムルクは、王が自分をここに寄越した意味を知った。
(あの少女を守れと……すなわち世界を守れと)
王の権威をもってしても勇者の行方が分からぬはずがないのだ。おそらく王はずっと前からここに彼がいることを知っていたに違いない。
しかし、あの少女と引き離そうとすれば、彼は容赦なく何者をも滅ぼす。だからこそ今日までこうして……
「はあ……リア充のお守りとか、独り身には堪えるんですけどね」
件の恋人たちはいまだ頬を寄せ合ったまま、なにごとかをささやきあってクツクツと笑う。
その様子を見ながらレムルクは、なんだかもう一度誰かを愛せそうな、甘い予感に打ち震えていた。
(ユメルカ、もう一度だけ、あのころあなたを愛したように……)
思い出の中の恋人に微笑みかけられた気がして、レムルクはほんのわずかに唇の端をあげた。




