45 別れ
翌朝、目が覚めた。
頭が割れるように痛い。
喉は乾ききっていて、口の中は最悪だった。
寝返りを打つと、土と灰が服にこびりついているのが分かる。焚き火の残り香もまだ漂っていた。
起き上がる。
朝の集落は、昨夜の喧騒が嘘のように静かだった。
いや、完全に静かというわけではない。遠くで何かを運ぶ音、武器を整える音、低い話し声。祝宴の後ではなく、出陣前の空気に近い。
近くを歩いていた若いオークが、俺の方を見て言った。
「起きたか、人間」
俺は額を押さえながら頷く。
「…何かあるのですか?」
「軍が出る。人間どもの残党を狩る」
その言葉に、眠気が少し飛んだ。
オークの軍勢が、人間陣営の残党狩りをするらしい。
騎士団は壊滅した。だが、生き残った者がいないわけではないだろう。勇者一行も、おそらくどこかへ逃げ延びている。森の中や砦周辺に残っている人間を掃討するつもりなのだ。
しかし、俺は集落にいた。昨日まで人間の側にいて、今はオークの側にいる。
おかしな話だ。だが、それが今の現実だった。
水をもらって喉を潤しながら、俺はこれからどうするかを考えた。
勇者を殺した。それはもう動かしようのない事実だ。
人間から見れば、俺は大罪人だろう。
勇者殺し。騎士団壊滅の引き金。しかも、オークに号令をかけて突撃させた人間。
どれ一つ取っても、首がいくつあっても足りない。
この国には、もういられない。
ゲンシさんの所にも戻れない。
ロンド商会にも。
ギルさんにも、もう会えないだろう。
戻ったところで、捕まるか殺されるかだ。
…東に逃げよう。
その考えは、わりとすんなりと浮かんだ。
この国のさらに東。聞いたこともない土地。言葉も文化も違う場所。
そこまで行けば、少なくとも簡単には見つからないかもしれない。
勇者一行が追ってくるかどうかは分からない。
勇者はもう死んだ。
だが、ミレアも、バルグも、シェリスも、ドグも生きている。もし彼らが俺を追うと決めたなら、どこまでも追ってくる可能性はある。
それでも、逃げるしかない。留まる場所はもうない。
昼の間、俺は集落の隅でぼんやりと時間を過ごした。
オークたちは慌ただしく動いている。槍を担ぎ、荷をまとめ、獲物を裂いて干し肉にし、武具を整える。人間との戦争は、彼らにとっても終わったわけではないのだ。
俺は、その様子を少し離れたところから見ていた。
俺はもう、人間の側にも戻れない。
だからといって、オークの側で生きていくこともできない。
どこにも居場所がない。それだけは、はっきりしていた。
夜になってから、長に呼ばれた。
広場の中央の火は昨日より小さく、周囲にいるオークの数も少ない。多くが出払っているのだろう。
長は一人、火の前に座っていた。老いてなお大きな体が、炎の向こうに影となって揺れている。
俺が近づくと、長はゆっくりと顔を上げた。
「決めたか」
何を、とは言わない。
それでも、長が俺の内心を見抜いていることは分かった。
「…東に逃げようと思います」
俺がそう言うと、長は低く頷いた。
「そうか」
短い返事だった。否定も、引き留めもない。
「お前はここに残るべき者ではない」
火のはぜる音が小さく響く。
「人間の世界で、大逆を犯した。ならば、いずれ追われる」
「ええ」
長は少しの間、黙って炎を見つめていた。
やがて、首に下げていたものを外す。
それは、古びたネックレスだった。
革紐の先に、中央には幾何学的な紋様の刻まれたペンダントが下がっている。骨でも石でも金属でもない、不思議な素材だった。月明かりと火の光を受けて、鈍く光っている。
長はそれを俺に差し出した。
「受け取れ」
俺は少しためらいながら、それを手に取る。
「これは?」
「英雄の印だ」
長の声は、いつもより少しだけ低かった。
「集落を守り、宿敵を討った者に渡す。我らの誇りだ」
胸の奥が、少しだけ揺れた。
英雄。
そんなものになるつもりはなかった。なったところで、嬉しくもない。
だが、この集落にとっては、俺はそういう存在らしい。
長は続ける。
「お前はもう、人間どもの世界では罪人だろう」
「…はい」
「ならば、せめて我らの世界では、名ある者として去れ」
その言葉に、返す言葉が見つからなかった。
俺はネックレスを握りしめた。これから俺は、罪人として生きる。
勇者を殺した人間。人間の軍を壊滅させた裏切り者。
どこの国へ行っても、もし正体が知れれば追われる。
それでも、生きるしかない。逃げるしかない。
東へ。もっと遠くへ。誰も知らない場所へ。
勇者一行が追ってくるかは分からない。
だが、もし来るのなら。
もっと遠くに、この星の裏側まででも逃げ切ってやる。
そうでもしなければ、俺にはもう前へ進めない。
ネックレスを首にかける。
幾何学的な紋様のペンダントが、胸の上で小さく揺れた。
長はそれを見て、満足したように頷いた。
「行け。我らの英雄よ」
ただ、それだけだった。
俺は火の前に立ったまま、しばらく何も言えなかった。
罪人として生きる。その言葉は、思ったよりも重かった。
だが、もう決まったことだ。
夜の森は静かだった。
遠くで獣が鳴き、風が枝を揺らす。
その音を聞きながら、俺は自分がもう二度と元の場所には戻れないのだと、ようやく本当の意味で理解した。
次の朝、俺は集落を発つことになった。
空はまだ白み始めたばかりで、森の奥には夜の冷たさが少し残っていた。焚き火の跡からは細い煙が立ち上り、湿った土と木の匂いが朝の空気に混ざっている。
昨夜はほとんど眠れなかった。
これから先のことを考えれば考えるほど、頭の中がまとまらなくなったからだ。東へ逃げる。そう決めたのに、その先に何があるのか、どうやって生きていくのか、何一つ分からない。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
集落の入口まで行くと、すでに馬が一頭用意されていた。毛並みは荒いが、足腰はしっかりしている。森の中を走るのに慣れているのか、目つきも落ち着いていた。
近くには革袋や布包みも積まれている。
干し肉、乾燥させた芋のようなもの、水袋、火打石、簡素な毛布。旅に必要なものを一通り揃えてくれたらしい。
思っていた以上の厚意だった。
若いオークの一人が、ぶっきらぼうに言う。
「道中、森を抜けてしばらくまではこれで足りるだろう」
「…ありがとうございます」
そう答えると、相手は少しだけ鼻を鳴らし、照れ隠しのように顔を逸らした。
長もそこにいた。昨夜と同じく、静かな目で俺を見ている。
「東へ行くのだな」
「はい」
短く答える。
「人間の土地は広い。森を抜けても、すぐに安全というわけではない。だが、この森の外に出れば、少なくとも、しばらくは奴らも追ってこれまい」
長はそう言ってから、ゆっくりと頷いた。
「生きろ」
その一言だけだった。だが、それがひどく重く胸に残った。
生きる。
勇者を殺した俺に、そんな言葉をかけてくれる者がまだいるとは思っていなかった。
俺は馬の背に荷物を固定し、自分も鞍に手をかける。慣れた動作ではない。昔、ガンスさんに教わった乗り方を思い出しながら、なんとかまたがった。
首元には、昨夜長からもらったネックレスが下がっている。中央の幾何学的な紋様のペンダントが、胸のあたりで小さく揺れた。
オークたちが集まり始める。
皆、俺を見ていた。
勇者を殺した人間。人間の軍を崩壊させた異邦人。
そんな視線だろう。だが、そこに侮りや敵意はなかった。むしろ、送り出すような熱があった。
やがて、一体のオークが槍を掲げた。
それを合図にしたように、周囲のオークたちが一斉に雄叫びを上げた。
低く、太く、森を揺らすような声。それは威嚇ではなく、見送りの咆哮だった。
木々が震え、鳥が飛び立つ。馬が少しだけ首を振ったが、逃げようとはしなかった。
俺はその光景を、しばらく黙って見ていた。
こんなふうに送り出される日が来るなんて、少し前の俺なら想像もできなかっただろう。
けれど、もう振り返ることはしない。
ラブールにも戻れない。レンバスにも戻れない。モカのいた家にも、もう戻れない。
俺の行き先は東だ。ただ、それだけが決まっている。
手綱を握る。
これからのことは考えない。
考えたところで、答えなんて出ない。
罪人として、追われるかもしれない身で、どこへ行って何をするのか。そんなもの、今の俺に分かるはずがない。
だから、まずは一日一日を大切に生きよう。
今日を越えて、明日を越えて、その先を考えるのはその時でいい。
そう自分に言い聞かせて、俺は馬の腹を軽く蹴った。
ゆっくりと歩き出す。
集落を抜け、木々の間の細い道を進む。背後でまだオークたちの声が響いている。だが、それも少しずつ遠くなっていった。
大森林を抜ける。
朝日が高くなり、木々の隙間から差し込む光が増えていく。地面の湿り気は少しずつ薄れ、風の匂いも変わっていく。
そして、ついに森の外縁が見えた。
木の壁が途切れ、その先に広い空がある。
俺は一度だけ振り返った。
深く、暗く、すべてを飲み込んできたような大森林が、そこに静かに広がっている。
その中で、俺は勇者を殺した。その中で、すべてが変わった
もう戻れない。前を見る。
東だ。
その先に何があるのかは分からない。どこで生きていくのかも。誰と出会うのかも。
答えは見つからない。
それでも、俺は進むしかなかった。
馬の足音を響かせながら、俺は東へと出発した。




