第九話 感謝
「ハァハァ……クソッ!」
一階の薄暗いバックヤードの隅に座り込んでいたその男は、声を荒げると壁を強く叩きつけた。男はうなだれながら頭を掻きむしったかと思うと、顔をあげて深呼吸をしはじめた。そして男がゆっくりと袖をまくると、腕には歯形の傷がついていた。
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何も言わずに行ってしまった遼、それを追いかけて行った充希、ワケも分からず休憩室に取り残されてしまった麻衣と彩乃は顔を見合わせた。きょとんとした様子の二人だったが、先に口を開いたのは彩乃だった。
「行っちゃったね……」
「うん……」
「……座ろっか」
テレビでは依然この騒動について報道していたが、緊張の連続で疲れてしまった二人は座って少し落ち着くことにした。休憩室の中央には長机とパイプ椅子が並べられており、二人はそこに向かい合って座った。
「大変なことになっちゃったね」
「うん……」
暗い雰囲気をどうにかしようと彩乃は優しく話しかけるも、麻衣はテーブルの上で手を合わせ、俯き加減でただ一言返事をするだけだった。やはりこれまでに起こった出来事の数々、そしてこれからのことがとにかく不安で仕方ないのだろう。そんな麻衣を見て彩乃もそれ以上、無理に話しかけようとはしなかった。
しかししばらくの沈黙が続いた後、彩乃はまたやさしく声を掛けた。
「ねぇ、麻衣……」
彩乃はまっすぐ麻衣を見つめると、テーブルの上に出ていた麻衣の手にゆっくりと手を伸ばし、そして重ねた。
「本当はもっと落ち着いてからの方が良いのかもしれないけどずっと言いたくて……麻衣、本当にありがとう」
「……えっ」
なぜ感謝されているのか分からないといった様子の麻衣。
「ほら、大学で私を助けてくれたでしょ」
「ああ、そんな別に……」
謙遜をする麻衣に、彩乃は大学で何があったのかを語り始めた。
「……授業中に突然、ある生徒が人を襲い始めたの。それで近くにいた人たちがそれを止めようとしたんだけど、今度はその人たちが襲われて……それからはもうあっという間。私は一緒に授業を受けていた友達と逃げようとしたんだけど、友達は腰を抜かして立てなくなっちゃって……」
「……」
視線を少し下にやりながら語る彩乃の話を、麻衣は静かに聞いていた。
「目の前で友達が……でも私は……」
そう語る彩乃の口元は感情が溢れるのを抑えるようにプルプルと震えており、瞬きをすれば涙が流れてしまいそうなほど目は潤んでいた。
「……それからなんとか教室を出たんだけどね、そこにもアイツらがいて……それで怖くなってトイレに隠れたの。息を殺して耳を塞いで、かっこ悪いよね」
「ううん、そんなことない」
「かっこ悪いよ……それからしばらくして静かにはなったんだけど、近くにまだアイツらがいたらと思うと怖くて動けなかった……そしたら、声がしたの。それで扉を開けてみたらそこには麻衣がいて、私を救い出してくれた」
「私は何も……」
「階段で動けなくなった時も私の手を引いてくれた。麻衣がいなかったら私……」
その時、彩乃の目からは一粒の涙があふれ出した。彩乃はそれを左の手で拭うと、また麻衣を見つめた。
「本当にありがとうッ」
「……当たり前だよ」
麻衣はなにやら恥ずかしそうに俯きながらもじもじしている。
「はじめてできた女の子の友達だもん……」
それを聞いて彩乃は一瞬きょとんとし、そしてやさしく微笑んだ。彩乃は気付いていなかったかもしれないが、彩乃が笑ったのはこの騒動が起きて以来はじめてのことだった。
*****
普段は二階にある在庫を一階へ運ぶために使う人荷用エレベーターは二階の倉庫と一階のバックヤードを繋いでおり、店長に一階の手伝いを命じられた久保と鈴木の二人はこれに乗って一階へと向かっていた。
「……なぁ、お前どう思うよ」
「何が?」
「決まってんだろ、こんなんなっちまってってことよ」
「あぁ……最低だね」
鈴木の問いかけに面倒くさそうに返事をする久保。エレベーターはそういう設計なのかあるいは古いのかとにかく遅く、それを退屈に感じていた鈴木は話を続けた。
「……まぁ、悪くないかもな」
「あ?」
「仕事して家賃払ってっていう生活とはもうおさらば。これからは外にいるアイツらに殺されないように毎日を生きるんだよ。そっちの方が生きてるって感じしないか」
「俺は前の生活のままでいいね……」
久保はそう言うと携帯を取り出し、眉をしかめながら少しいじり、そしてすぐにまたポケットへとしまった。
「どうした?」
「彼女と連絡が取れねぇんだよ、クソッ」
「まぁ、大丈夫だろ」
他人事だと思って心無いことを言う鈴木を久保は睨みつけた。鈴木はそれにすぐ気が付いたが、次に口にした言葉は謝罪や弁解ではなかった。
「なんだかんだいって警察や軍が沈静化するって、大丈夫。彼女と再会したら言ってやれよ」
「なんて?」
「突然で悪いんだけど、しゃぶってくれないかってな、ハハッ」
「…………」
空気が読めないのか和ませようとしているのか、いずれにしろ久保は怒りを通り越して呆れていた。
「着いたぞ」
一階に着くや否や急に冷静になる鈴木。ドアが開くと二人はエレベーターを出て、一言も発さずにバックヤードを歩き進んだ。
しかし二人が売り場へ出ようとしたその時、突然鈴木は久保の肩を叩き、バックヤードの隅の方を指差した。鈴木の指差す先には店員ではない男が下を向きながら立っており、こんな状況とはいえバックヤードは従業員以外立ち入り禁止、久保は注意しようと声を掛けた。
「すみません、一応まだ――」
久保の声に反応した男が顔を上げるとその瞳は灰色がかっていた。
ヴォォオオオッ
唸り声をあげると次の瞬間、勢いよく走り出し久保に飛びついた。ヤツはそのまま久保を押し倒し、そして首元へとかじりついた。
「うあぁぁあああッ!」
首元をごっそりと喰いちぎられ、痛みのあまり悲痛な叫びをあげる久保。
「離れろクソ野郎ッ」
咄嗟に鈴木は久保に覆いかかるヤツの服を掴み、投げ飛ばした。幸か不幸かヤツはバックヤードのスイングドアを突き破り、売り場へと投げ出された。そのあと売り場からは悲鳴が聞こえたが、ヤツがバックヤードへと戻ってくることはなかった。
「馬鹿、なんかおかしかったろッ! だから音を立てないようにしてたのにッ」
「……ゴフッ」
久保は口から血を吹き出し、顔色も悪く額からは大量の汗が流れている。
「頑張れッ! 彼女にまた会いたいんだろッ」
鈴木はそう言うと背中側から脇の下に手を差し入れ久保を引きずりながら運び始めた、エレベーターの方へと。