【エピローグ】
サツキはキャミソールの上に、前開きの白いカットソーを着て鏡の前に立つと、ビューラーで睫毛をカールした。
薄っすらとマスカラを塗る。
塗りすぎるとメガネのレンズに擦れてしまうので注意が必要だが、今ではカンで適量が判る。
買ったばかりのアナスイのフレグランスをさり気なく身体に振り掛けると、ストロベリーの甘い香りが彼女を包んだ。
「よし」
玄関を出ると、蒼い陽射しがUVカットレンズを通してサツキの瞳を照らす。
「おそいよ」
門を開けると、植木の陰で見えない場所に、ツカサが自転車に乗って待っていた。
彼の視線はサツキのメガネのレンズを真っ直ぐに通り抜けてくる。
「女は仕度に時間がかかるの」
サツキはそう言って後ろの荷台に横乗りで腰掛けて
「しゅっぱぁつ」
笑顔でそう言った。
ツカサがペダルに足を乗せると、自転車が動き出す。
彼女はツカサのシャツの脇の部分を摘むように掴んだ。
普段あまり使わない彼の自転車は、ペダルをこぐ度にキーキー音を立てる。
「なんか、ビンボー臭い音がする」
「仕方ねぇだろ。普段使ってないんだから」
ツカサは振り向かずに言った。
「なんで? 何時も駅まで自転車使えばいいじゃん」
「駐輪場めんどくせぇ」
「ものぐさねぇ」
サツキは風ではためく彼の背中を笑顔で見つめた。
「お前だって駅まで歩きじゃん」
ツカサは僅かに横を向いて、後に視線を向けた。
「あ、あたしは……」
サツキは言葉を詰らせて少し俯くと、小さな声で
「あんたが、歩くからじゃん……」
「はぁ? なに?」
彼女の声は風で後へ飛んで、ツカサには届かなかった。
サツキはツカサの背中を叩いて「何でもない。ナイショ」
プラタナスの木から落ちる黄緑色の木洩れ日の中を通ると、暖かい風が頬を滑り抜けて肩に着く髪を靡かせた。
もう直ぐ梅雨入りと天気予報では言っていたが、毎年感じる湿った憂鬱さは無い。
それは背中に感じるぽかぽかとした陽射しのせいだけではないだろう。
サツキは目を細めて、風が運んでくる緑と土の匂いを嗅いだ。
「なあ?」
ツカサが頭を起こしてほんの少し振り返る。
「なに?」
「おまえ、今朝果物でも食べてきた?」
「なんで?」
「なんか、イチゴの匂いしない?」
「ばぁか」サツキは再び彼の背中を叩いた。
駅では心地よい陽射しを受けたお昼寝タクシーの横を、今日も僅かな人波が通り過ぎてゆく。
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……………………
…………
……
「お母さん、あたしコンタクトにしようかな」
「どうしたの? ツバキ、目にモノを入れるなんてイヤだって言ってたじゃない」
「うん……でもさ……」
「なに?」
サツキは、この春中三になったばかりの娘を見て微笑んだ。
近視は彼女に似てしまったようだが、通った鼻筋は明らかに父親似だろう。
「うん……いろいろね……」
「ツバキはメガネが似合うと思うけどなぁ」
「そんな事無いよ。それは、親だからそう思うんだよ」
ツバキは前かがみになると、ダイニングテーブルにくっついてアゴを乗せた。
「そう?」
サツキはテーブルに肘を着いて
「意外と武春君も、ツバキのメガネ姿を気に入ってると思うけどなぁ」
「そ、そんな事無いよ」
ツバキは軽くテーブルを叩いて顔を上げた。
少し紅潮した頬で息をつく。
「そんな事ない……最近あんまり話ししないし……なんか避けられてるカンジ……」
サツキは微笑んで、お茶の入った湯飲みを手にすると
「人の心って屈折して折れ曲がるからさぁ……わかんないものよ」
いかにもやゆした言い方をする。
「そうかなぁ……」
「そうよ」
サツキは何かを思い出すようにふっと笑い
「特に男の子の心の中にはね、プリズムが入ってるから」
「プリズム?」
ツバキは大きな目を丸くしてパチパチと瞬きさせた。
サツキは湯のみをテーブルに置くと
「まあ、ツバキの好きにしなさい。お金は自分で出してね」
そう言って優しく微笑む。
「お母さんは、ずっとメガネなの?」
「うん……そうね」
「面倒とか、邪魔だとか思った事ない? メガネじゃなかったら、もっとモテるとか思った事ない?」
「……ない……かな」心の中で苦笑した。
「ふぅ〜ん」
ツバキは立ち上がってポットから急須にお湯を入れた。自分の湯飲みにお茶を注ぐと、母親の分も注ぐ。
椅子に腰掛けながら熱いお茶をそっと啜って
「あたしも、もう少しこのままでいいや」
玄関のドアが開く音がした。
既に夕飯の準備は出来ていて、あとはテーブルに並べるだけだ。
「あ、お父さん今日は早いね」
その足音がダイニングへ入ってくると、サツキは腰を上げて
「お帰りなさい。今日は早いのね」
メガネに手をそえながら、ツカサに何時もの笑顔を向けた。
…END…
放課後のプリズムを最後までお読み頂き、有難うございます。
『はじめてのコンタクト』と謳いながらこの話し、実はコンタクトが中心と言うより、メガネをかける女性の心情の変化を綴ったものでした。
企画の趣旨の一部に沿って、奇抜な内容や過激なキャラは避け、ごく日常のありふれた情景を心がけました。
連載中、沢山のアクセスをいただき、有難うございました。
企画小説という事で、ラストはほのぼのとまとめたのですが、いかがだったでしょうか。
何かを思い出した時、是非また読んでいただけたら嬉しいです。
本当に有難う御座いました。
追記
この度、企画の中で二つの賞をいただき、そのコメントの中にあった誤字を修正させていただきました。
誤字はまだ在るかもしれませんが、それも承知で最後まで読んでいただいた方々には大変感謝いたします。
tokujirou




