海の奇跡
……あれは今から七十年以上も前の話。
高梅山分校の夏の授業、プール。一人の男の子は見栄を張っていた。
「オレ、バリバリ泳げるんだぜ!みてろよ!」
彼は高梅山分校でガキ大将のようなものでまわりの男の子から尊敬をされていた。
男の子はプールサイドから勢いよく飛び込み、そして盛大に溺れた。
彼は本当は泳げなかった。だが、いままで学校の男の子達をひきつれてリーダーぶっていた彼には弱々しく『泳げません』なんて言えなかった。
見栄を張った結果、無様に溺れ、まわりの男の子達に大爆笑をされ、先生にまで笑われた。
少年は人一番の負けず嫌いで誰かから馬鹿にされるのを極度に嫌っていた。
水泳の授業があった帰り、少年は誰とも一緒に帰る事はなく、独りで荒々しい気配をみせたまま学校の裏の稲荷神社へとやってきた。
ただ、一人になりたいだけだった。
その時、イナは神社の日陰で涼んでいた。そこに荒々しく男の子が入って来たのでイナは目を見開きながら男の子を眺めていた。
「……あの子、なんであんなに怒っているんだろ?」
イナは心配そうな顔で男の子の周りをまわってみたが男の子が怒っている理由はよくわからなかった。
「畜生!腹立つ!皆で笑いやがって!」
男の子はだんだんと物に当たるようになってきた。はじめは近くにあった木を足で蹴っていたが神社の賽銭箱まで蹴り始めた。少し悪くなりたいそういう年頃だった。
「あー!やめてー!お賽銭箱を蹴らないでー!」
イナは慌てて男の子を止めようとするがイナは人に見えないので何もできなかった。
イナの叫びをよそに男の子は今度は稲荷神社にそっと添えてあった手のひらサイズの小さい陶器のキツネの置物を持ち上げた。
「ちょっと!ちょっと!何するの?それはさっき神社に来たおばあちゃんからもらったものなの!大切なの!おばあちゃんがね、いつもありがとうって置いて行ってくれたものなの!」
「なんだよ。このキツネ。誰だよ、こんなの供えに来るやつ。」
男の子は一瞬、投げ捨てるか迷った表情だったがそのまま置くと格好悪いので地面に叩きつけた。
「やめてってばー!」
イナは泣き叫んでいた。小さい陶器のキツネは細くなっている首元から折れて粉々になってしまった。
「うぇええん……。キツネさんが……。酷い……。うわあああん。」
イナは縁結びの神と言われているが実際はこの土地で恐れられて祭られた厄神である。イナの身体からじわりと禍々しいものが溢れ出しかけていた。
男の子は割れてしまった陶器のキツネとざわざわと舞う風の音に怯え、そのまま逃げるように神社から去って行った。
その直後、イナの神社に龍さんが現れた。
「よう!稲荷神。暇だったから遊びに来てやったぜ。……ん?」
龍さんは割れてしまったキツネの置物の前で大泣きしているイナを見つけた。
「キツネさんが……。うえええん。」
「おい。どうしたんだよ?キツネ?ああ、このオモチャみたいな置物……割れちまったのか。遊んでて割っちゃったのか?」
龍さんはうずくまるイナの背中を優しく撫でて、声をかけた。しかし、イナは嗚咽を漏らしたまましくしくと泣いているだけだった。
龍さんはイナの身体から禍々しいものが出かかっている事に気づき慌てた。
「おい。稲荷神、落ち着けよ!キツネなら俺様が持って来てやるよ。」
「えーん……。おばあちゃんからもらった大切なキツネさんなのに……。」
「おばあちゃん?ああ、神社参りに来たお年寄りの事か。そりゃあ、災難だったな。でもお前が遊んでて壊しちゃったんだろ?そりゃあ、お前が悪いぜ。」
龍さんはイナが遊んでいて割ってしまったと思っていた。イナは首を横に振った。
「違う……。男の子に壊された……。やめてって言ったのに……。ひどいよ……。うぇええん。」
イナは再び泣きはじめた。
「ああ?壊されただと?壊した奴はどこにいやがんだ?俺様がとっちめてやるよ。」
「さっき……神社から出てった男の子……。」
「そっか。待ってろ!」
龍さんはしくしく泣いているイナの頭をそっと撫でると勢いよく神社から飛び出して行った。
龍さんはすぐに男の子に追いついた。男の子は学校の校庭を抜けて竹林の道を一人下っている最中だった。
「あいつだな……。」
龍さんは男の子を鋭い瞳で睨みつけた。その視線を感じたのか男の子がハッとこちらを振り向いた。
「……?あんた誰?」
男の子は龍さんの視線に怯え、言葉をかろうじて発した。龍さんは自分がその男の子に見えていると知らず、後ろを振り返った。しかし、誰も歩いていなかったので自分の事を指しているのかと気がついた。
「なんだよ。あんただよ。緑の髪の……。」
「お前、俺様が見えんのか。ま、まあ……いい。それより、お前。さっき、神社で何やった?」
龍さんの鋭い声に男の子の目が泳いだ。
「べ、別に……。それよりお前誰だよ!」
「俺様の事はどうでもいい。お前、キツネの小物壊したろ?あれな、稲荷神が大切にしてたやつらしいんだぜ?知ってたか?稲荷神は女の子なんだが……泣いてたぜ。女の子泣かしちゃあ男としてダメだろ?」
「……。」
男の子は先程はやりすぎたと思っていたらしい。目を伏せ、下を向いてしまった。
「お前、なんかイライラしてるみてぇだが……なんかあったか?」
「……泳げなかったから馬鹿にされた。笑われた……。オレ、悔しくてこれから海で特訓しようと思ってたんだ。」
男の子の目から涙が溢れた。それを龍さんに見せたくなかったのか男の子は必死でこらえていた。
「そうか。だがよー、モノに当たっちゃダメだぜ?そんなのカッコよくねェ。どうせならカッコよくいこうぜ。よし、俺様がこれからお前の練習に付き合ってやる。次の水泳の授業の時は胸張って自慢できるレベルにしてやるから覚悟しろ。」
龍さんの言葉に男の子は目を輝かせた。実際、独りで泳ぎの練習をするといってもどうすればいいかもよくわかっていなかった。
「ほんと!オレ、泳げるようになる?」
男の子は無邪気な笑みを向けると素直に龍さんを見上げた。
「おう。俺様がいるからなァ。じゃ、行こうぜ!」
龍さんは大らかに笑うと男の子の手を引き、走り出した。
「あ、あのさ……!」
龍さんが走り出した刹那、男の子がひかえめに声を上げた。
「ん?」
「その……女の子にごめんねって言っておいてくれないか?オレが責任もって買ってくるからって!」
「そっか。言っておく。あいつはそれで喜ぶと思うぜ。単純だからな。」
龍さんは再び走り出した。その背を見た男の子はこれがカッコイイ男なのだと思った。
「んで、まあ、俺様が泳ぎを教えたってワケ。」
龍さんは自慢げにニヒヒと笑った。
「へえ……君もけっこういいとこあるんだね。」
「俺様はいいワルを目指してんからな!」
感心しているヤモリに龍さんはケラケラと笑った。
「ふーん……。そうだったんだ。じぃちゃんの嘘つきめ!」
男の子は裏切られたような呆れたようなそんな顔で龍さん達を見つめていた。
「で?君も泳げないんでしょ。だったらこの龍神さんに教えてもらいなよ。ね?」
「ちょ……お前、勝手だな……。」
「そういう事ならお願い!じぃちゃんが泳げるようになったならオレもお願い!オレも学校で泳げなくて馬鹿にされているんだ!」
「えー……ああ、まあいいか……。わかったよ……。教えてやるよ。」
ヤモリの言葉に龍さんは戸惑っていたが男の子の目線に耐えられず了承した。
そんな会話をしていると渋い男性の声がすぐ後ろから聞こえてきた。
「タカノリ~!後でスイカあるから冷やしておくか~?」
「ん?」
ヤモリ達は声が聞こえた方を向いた。声の主は杖をついたお爺さんだった。
「あ!じぃちゃん!」
「何ィ!」
男の子の発言で龍さんはとても驚いた。だが、それ以上にお爺さんが驚いていた。
「あ、あれ……。あんたは……。」
「お、おう……。」
龍さんは返答に困り、目をそっと逸らした。
「うちの孫に泳ぎを教えてくれんのかい?ありがてぇな。そいつ、まったく泳げねぇんでお願いしますよ。」
お爺さんは懐かしさを含んだ瞳で龍さんに笑いかけた。
「お、おう。」
龍さんは再び困惑した顔で返事をした。
「じぃちゃん!じぃちゃんだって泳げなかったんだろ!」
「何言ってやがんだ!オレは泳げたよ!バリバリ泳げたよ!」
お爺さんは男の子を軽くあしらうと龍さんの所まで来てキツネの置物を掌にそっと置いた。
「……ん?」
「ああ、これな、例の女の子とやらに渡してくれ。ずいぶん遅くなっちまったが同じ物がなくてな……。探し回った挙句に特注で作ってもらう事にしたんだが金が膨大にかかってな……今になっちまったよ。悪かった。ごめんな。」
お爺さんは男の子に聞こえないようにそっとささやくと龍さんに微笑んだ。
「お、おう。稲荷神、ほら。」
龍さんは軽く返事をすると隣にいたイナにキツネの置物を渡した。イナは満面の笑みで微笑むと「ありがと!」と言ってキツネの置物を抱きしめた。
人に見えない神が持った物は電子機器以外、人の目に映らなくなる。
お爺さんは突然消えてしまったキツネに驚いていたが安堵の表情をしていた。
「そこに稲荷神のお嬢ちゃんがいるのかい?」
「ああ。いるぜ。チビッ子が。」
「あの時は大切な物を壊してしまってすまないね。これからはちゃんと参らせてもらうよ。」
「うん!ありがと!」
お爺さんの言葉にイナは元気よく頷いた。
「ありがとうだってよ。……んじゃあ、泳ぎに行くか。」
龍さんは男の子を促し歩き出した。
「おう!あ、じぃちゃん!スイカよろしく!」
男の子は泣くのを止め、お爺さんに笑顔を向けると龍さんと共に歩き出した。
「あー!私も泳ぐ!」
イナはお爺さんに手を振ると誰よりも早く走り去って行った。
「ちょっとイナ!もう……。」
ヤモリはイナを追いかけようとしたがやめて近くの木陰に身体を持って行った。
「あんたも何かの神様なのかい?」
お爺さんがヤモリの隣に来て微笑みながら尋ねた。
「ええ。はい。民家を守る神です。」
「神様っていっぱいいるんだなあ。外見も変わらず、羨ましいぜ。オレ、スイカ冷やしてくるんで後で皆さんで来てくだせぇな。待ってるぜ。」
お爺さんはそう言うとヤモリに背を向け歩き出した。
ヤモリは眼前に広がる海で泳ぎの練習を必死でしている二神と男の子を見ていたら何故だか嬉しい気持ちになった。
……こうやって私達と人間は当たり前に生活しているんだなあ……。
「ふう。」
ヤモリはため息をつくと木陰に入るのを止め、イナ達と共に海へ飛び込んで行った。