Ⅵ.牽制の理由
重苦しい沈黙の中、馬車は王城へたどり着いた。荷物のようにスカーレットを小脇に抱えたまま、ゼルガは荒々しく自室の扉を開いた。他者を寄せ付けない剣幕に城内の侍従や騎士たちはやや引き気味だ。空気を読むことに長けているのは重要だが、こんな時にまで発揮しなくていいとスカーレットは内心喚く。
ようやく彼女が下ろされた先は、ピシッと整えられた寝台の上。ぽん、と放り投げられ、背中がぼすんとマットに沈む。ベッドカバーにぐしゃりと皺がついた。
「いきなり何す……」
体勢を整え抗議の声を上げる前に、寝台に片膝をついたゼルガに鋭く見下ろされ、スカーレットは口を閉じる。
ぴりぴりと肌を突き刺す威圧感。射殺されるのではと、本能で感じるほどの気迫。これは相当機嫌が悪いだけでは済まされない。本気で怒ってる――と、スカーレットの反発心は一瞬で鎮火された。
石化する彼女をよそに、ゼルガは獰猛な肉食獣を彷彿させる動作でのそりと寝台に両膝をついた。そのまま上半身を傾け、スカーレットの両手首を寝台に縫い付ける。完全に動きを封じる男の金色の双眸は、隠しもしない苛立ちで染まっていた。
低く呻るように、ゼルガは声が出せずに黙り込むスカーレットの名を呼ぶ。
「スカーレット。一体お前は何度俺から逃げたら気が済むんだ? お前の専属侍女に日没までには戻ると言伝を受けたが、あれは嘘か。成り行きかどうかはどうでもいいが、いけすかないあのガキに町案内までしてやったらしいな。ここから逃げ出したいほど、そんなにこの王城が嫌か」
氷のように温度が感じられない、無表情。常なら傍に寄れば暑苦しく、また本人も暑がりなのに。今はその真逆だ。室内の温度が数度は一瞬で下がった気がする。
ただならぬ空気に、完全にスカーレットは飲み込まれてしまった。怒りと苛立ちをまとわせるくせに、恐ろしく静かな声が彼女の思考を遮断させた。本能的に察してしまう。この男が支配する側であり、竜なのだと。
ぞくりとした。背筋にひんやりとした汗が伝う。
いつものだらしなく、無精ひげも生やしっぱなしで上半身は裸の適当な国王様とは、まるで違う。十分不敬罪と訴えられてもおかしくはない行為は散々してきた。だがそれはこちらにも言い分がある正当な反撃だったわけで、何を言われても怖くはなかった。
だけど今は……怖い。呼吸をするのもままならないほどの威圧感に、胸が押しつぶされそう。冗談なんかでは済まされない。気安い空気は微塵もなかった。
隙を見せたら一瞬で急所の喉元を食いちぎられてしまう――。そんな物騒な予感さえ覚えてしまう。
視線を逸らせないスカーレットを組み敷いたまま見下ろすゼルガは、すっと目線を彼女の顎の下にずらした。彼女の身体から香る匂いに惹かれるように、そのまま顔を近づかせ――
「ッ……!?」
スカーレットは喉元まで出かかった悲鳴を咄嗟に飲み込んだ。がぶりと首筋を噛まれたのだ。くっきりと歯型がつくであろう強さで。
じんじんと噛まれた場所が痛む。もしかしたら実際に血が流れたかもしれない。石化を解くきっかけになったのか、冷え切った身体が急速に熱を持った。特に噛まれた箇所が熱くて、神経が集中している。
それでも身動ぎできないスカーレットは、顔を離し舌先でぺろりと己の唇を舐めた男に視線をぶつけた。恐怖から驚愕、そして怒りへ。黙っていてもすぐにわかる彼女の心。変化していく感情に、ゼルガは冷笑する。不利な状況でも彼女の気の強さは変わらない。
「どうした。今まで言いたい放題はっきり言ってたお前が、急にだんまりか」
「なに、すんのよ……はなして」
ようやく出せたスカーレットの声は、情けなくも掠れていた。額にじんわりと汗をかいている。一瞬でも感じてしまった怯えを隠すために、目にギュッと力をこめた。睨みつける眼差しは、先ほどよりも強い。
自分を見下ろすゼルガが薄らと嗤う。冷笑か嘲笑の類の笑みは、スカーレットの神経を逆なでた。
突然部屋を飛び出し、他国の王子を連れて城下町で遊んだ挙句、当初の帰り時刻を過ぎてしまったのは悪いと思う。サーシャが護衛を数名つけさせていたのを知っていたこともあり、つい油断はしていた。彼女の庭とも呼べる下町で何が起こるとは思っていなかったのも。実家の手伝いに急遽駆り出されたて遅くなったのは自分が望んだ所為じゃないが、結果として心配させてしまったのだろう。
が、少し理不尽ではないか。荒々しく攫われた挙句国王陛下の自室の寝台に沈められ、首まで噛まれるなんて。急所を狙われ、恐怖から身体が竦む思いをしなければいけないほど、この男の何に逆鱗が触れたのだ。説明を求めるなら、ちゃんと座って話し合えばいい。独裁者のように自分を支配するなんて、黙ったままではいられない。
小さく息を吸い込み、吐き出した。身体の震えは完全に止まっている。心の奥まで見透かす金色の瞳をじっと見上げ、スカーレットはもう一度声を出す。
「手を放して。私の上から退いて、国王様」
はっきりした声を聞いたゼルガは、愉しげに小さく眉をあげた。口許が歪んでいる。己の立場を顧みない小動物が精一杯虚栄を張ろうとあがいている姿に見えるのだろう。手も足も自由が奪われている彼女は、確かにゼルガの下から簡単に抜け出せそうにない。
「俺に命令する気か。先ほどまで怯えていたくせに急に威勢がよくなったな。何故こんな状況になったか、自分でもわかっていないと見える」
「自分から言った門限破ってしまったのは悪いと思うけど、わざわざご自分から迎えに来るとか何なの。自分の立場がわかっていないのは国王様の方なんじゃないの? アル達を連れまわすことになったのも向こうから頼んできたからで、私が誘ったわけじゃないし。気分転換にちょっと外に出ただけでこんなに怒るとか、私より大人のくせに余裕なさすぎ。ケツの穴の小さい男ね」
「そうか。なら見て確認しろ」
上体を起こし、膝立ちのままベルトに手をかけたゼルガを見て、スカーレットは思わず叫んだ。
「やめてよ変態! 誰もケツの穴が大きい方がいいなんて言ってないわよ! 言葉の比喩だってば!」
(何意地になって本気に捉えてるの!? エロオヤジ!)
顔を真っ赤に染めゼルガから距離をとろうと後退るが、そうはさせるかと再びゼルガが距離を詰める。広々とした寝台を降りようとしても、距離がありすぎてあっさり捕まってしまった。手首をぱしりと握られ、放してと喚いた直後。ぐいっと顎を掴まれ、唇が塞がれた。
「……ッ!?」
目の前には黄金色の双眸が妖しい光を放っている。至近距離から見つめられる視線の強さに、思わず彼女は目を瞑った。温かく柔らかな感触が唇に押し付けられている。それがゼルガの唇だと気づいたのは、ざらりと彼の舌先で唇を舐められた瞬間だった。
「ちょ、や……っ、んん!?」
口を開いた直後に押し込められた肉厚な舌が、スカーレットの口腔内を攻める。未知なる体験に全身の肌が粟立った。ぞわぞわとした何かが身体を駆け巡り、蠢く舌の存在が生々しくて堪らない。抗議の声も絶叫も全てゼルガの口内に飲み込まれて、彼女の頭は混乱に陥った。
(ギャー! いきなり何すんのこいつー!?)
「ふ、ふんん、んむ……ッ!」
どんどんと強く空いてる手でゼルガの逞しい胸板を叩くが、びくともしない。それどころか更に繋がりを深められて、羞恥と酸欠から彼女の顔は真っ赤に染まった。息継ぎが上手くできない、苦しい。これは恋人同士がお互いの愛を確かめ合う行為ではない、明らかにどちらが捕食者で被食者なのかを確認させる為の行為だ。彼女は力づくの嫌がらせだと判断した。
「はぁ、く、るし……」
「息を止めるな、バカ」
ぜえぜえと呼吸を整えるスカーレットに呆れた視線を投げるゼルガ。初心者相手に濃厚な嫌がらせをするバカはお前だ! と罵ってやりたい。
頭からバリバリと食べられてしまうんじゃないかと、半ば本気で思えた命の危機が一応終わったことに、彼女は乱れた心臓を宥めつつも安堵した。だが生理的な涙が浮かんだ目でゼルガを睨みつけるのは忘れていない。
「んな顔で睨んだって逆効果だ。誘ってるようにしか見えねぇ」
「……嫌がらせにしたって、限度があるでしょ!?」
「あ? お前がうるさく喚くから塞いだんだろ。嫌がらせ目的で口づけなんてするか」
うるさいから塞いだのは違うのか。ゼルガの意味がさっぱりわからない。
この男は一体自分をどうしたいんだろう。他国に行きそうになった所をわざわざ竜の姿をばらしてまで迎えに来たり、番候補からいつの間にか番として公表したり。そんな事をしても、未だにゼルガの本心は謎のままだ。
国王としての義務から、スカーレットは臣下に言われるがまま傍に置かれているのではないか。うるさい小生意気なじゃじゃ馬娘としか思われていない。
きっと今までは傍にいなかった毛色の違う珍獣とでも思っているのだろう。彼の好みはグラマーな大人の女性。以前と比べて多少肉付きは良くなったとは言え、彼女が彼好みの身体になるにはまだまだ道のりは遠い。
(何で、わけがわからない……。)
自分の物扱いするのは何故。何度も迎えに来るのは保護者の義務から? その行動理由はスカーレットが本物の番になり得るからというだけなら、国王様は残酷な男だ。
「わけがわからない。何でこんなことするの。国王様にとって私って何なの? 気づけばいつも振り回されてるし、自由はないし、いつの間にか番だと思われてるけど、私の気持ちは置いてけぼり。国王様の気持ちだって」
「俺の本心は伝えてるだろうが」
「は? いつ。人でからかって遊ぶ男が何してきても、全部冗談か気まぐれにしか感じないわよ」
「雄は気まぐれで雌の首を噛んだりはしない」
つ……と指先で先ほど噛まれた首筋を撫でられる。突如、その箇所が急速に熱を帯びた。ドクン、と自分の脈が耳の奥で響くみたいだ。熱っぽく真剣な眼差しのゼルガと視線が交わり、焦りに似た戸惑いがスカーレットの中で生まれる。
「何度俺から逃げようが無駄だ。もうお前を選んだ。ここに印をつけたときからな」
きつく噛み跡に吸い付かれ、小さな呻きがスカーレットの口から漏れた。ちりりとした痛みに眉をしかめる。
顔を離したゼルガは、壮絶な色気に満ちていた。大人の色香が漂い、いつもは変態としか思わない彼の素肌にも目を奪われてしまう。
(あれ、あれ……?)
何だろう、このドキドキは。先ほどまでとは違った意味で身体中が沸騰しそう。鼓動が早く不整脈に侵される。艶っぽいその眼差しに毒でも仕掛けられているかのように、スカーレットはその場から動けずにいた。
「男が女の首を噛むのは求愛の証だ。急所を狙えるほど近くにいる男は自分だけだという、独占欲の証でもある。とっくに廃れた行為だが、貴族連中は未だに覚えているやつらが多い。お前を紹介したときは無意識の行動だったがな、あれであの場にいた貴族共に牽制をかけた。こいつは俺のだと」
「……どういうこと?」
言っている意味がわかりそうでわからない。求愛の証って何だ。自分は義務から求められていたのではないのか。あなたも以前首に噛み跡つけてましたよね? とも言ってやりたいが、それを今訊いたら話が長くなる。女から男へは特に意味がないのかもしれない。
また牽制をする意味もわからない。そもそもスカーレットは色恋とは無縁の日々を送っていたのだから。
「国王様は私が好きなの?」
ぽろりと出た質問に、自分でも驚く。だがもっと驚いたのは、彼の答えだった。
「今更すぎるだろうが。俺はお前以外を選ぶつもりはない」
「え……、え? いや、嘘でしょ」
「おい、何で嘘だと決めやがる」
眉根を寄せ、むっとした声で言い返すゼルガに、スカーレットは困惑気味に視線を彷徨わせた。
「私は国王様の好みとかけ離れた小生意気で小うるさいじゃじゃ馬娘だし! 数年後がどうのこうのとか言ってたけど、あれも全部冗談だとしか思ってなかった」
「冗談なんかじゃなくて本気だ。俺は誰にもお前をやるつもりはねぇ」
からかいが含まれていない真摯な声音に、スカーレットの心臓が大きく跳ねた。先ほどとは違う意味で、息がつまりそうなほどの気迫を感じる。
「一度しか言わねえから覚えておけ。俺はお前が好きだ。お前の全部が欲しい。だからちゃんと俺を選べ、スカーレット。お前が俺を求めれば、俺も迷う事なくお前を選べる」
「――……ッ!」
濃密な空気と真剣な愛の告白に、スカーレットはくらりと眩暈を起こした。




