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空の彼方に

「さっちん、寝癖たってるで?」


 親友のワッコに指摘されて、私は慌てた。

「やだ。どのへん?」

「後ろ。ほら、櫛かしたげる」

 ワッコから櫛を受け取って、手探りで反乱を起こしたやつらを見つけては撫で付けていく。

「あんがと。ママに見て貰ったんだけどなぁ」

 ママも今朝は忙しくて、後頭部までは目が届かなかったらしい。

「なぁ~に、さっちん、ママっ子だなぁ」

 いつもは周りに頼ってばっかのヨンピが自分のことは棚に上げて言う。

「しょうがないじゃん。さっちん、鏡見られないんだから」

 さりげなく私の秘密をばらすワッコ。

「へ? 何それ」

「ふか~い事情があんのよ。それよりヨンピ、DVD早く返しや?」

「あ、ごめんまた忘れた」

「もう~あんた、そろそろ借りパクの域や。信用なくすで」


 *


 あれから一年が経ち、私は中学生になっていた。


 あの日、気がつくと元の世界の自分の部屋にいた。家具の配置も本の背表紙に踊る文字も、もとどおり。私の姿も……鏡に映っていた。

 階下に下りるとテーブルにつっぷしていたお母さんが顔を上げて、目が合った。最初に幽霊を見たような顔をし、次に物凄い勢いで怒りだし、最後には泣かれてしまった。私がいなかったのはほんの二十四時間ほどだったが、予想通りにお母さんはそれはもうメチャクチャに心配し、学校と警察に連絡し、地域の皆さんに聞きまわったらしい。おかげで私は翌日有名人になってしまった。もう少しで私の顔が印刷されたポスターが町中に貼られるところだった。

 どこに行っていたのかという質問に、私は最初、いとこのお姉ちゃんのとこに遊びに行こうとして道に迷ってしまったと嘘をついた。どこに泊まったのかと言われ、夜通し歩いていたと言った。なんとか家に戻ってこれたが、お母さんに叱られるのが嫌でこっそり裏口から入って二階へ上がったの、と。

 そんな嘘はすぐにばれた。それで今度は本当のことを言ってみた。ちさに会いに行っていたの、と。ちさって誰というので、お母さんが言ってた双子のもう一人の子だと言ったら、怪訝そうな顔をして、それ以上追求しなくなった。まさか信じたりはしなかっただろうが、その後少しだけお母さんが優しくなったので、なにか余計な心配をさせたのかもしれない。

 そして。

 元の世界に戻れた私はもう、ちさとは話ができなくなっていた。

 もう、鏡の中にいるのはちさではなかったし、頭の中であっちの世界のちさに呼びかけてみても、返事はなかった。

 話ができる可能性はあると言ったお爺さんの言葉が単なる慰めだったのか、可能性があるだけで私はその幸運にあずかれなかったのか、とにかくもう私はちさと話をすることはできなかった。


 そしてだんだんと私は鏡を見ることができなくなった。


 鏡に映る自分を見ると、ちさを思い出してしまうのだ。もう話ができないことが耐えられず、泣いた。失って初めて……という、単純な話。でも鏡に映った自分……ちさと同じ顔が映るのを見ることが、どうしても辛くて、どうしようもなく辛くて、耐えられなかった。

 鏡を見られない私の代わりに毎朝身だしなみをチェックするのは、お母さんの役目になった。お母さんは甘えてるだけだと思っていて、そのせいか最近はいい加減にしか見てくれない。今朝の寝癖もそのせいだ。

 鏡を見られないことは、親友のワッコこと島本和子にしか言ってない。ワッコは訳はきかずにいてくれるのはありがたいが、これを秘密だと認識していないらしく、簡単に口にするのが困ったところだ。気まぐれな彼女は、喋った次の瞬間には話題が変わってることも多く、他の子には今のところバレてはいない。


 *


「じゃーね、ばいばい」

「ほなな」


 校門のところでワッコと別れる。鏡を見られないというのも意外に困らないが、それも中学生の今だけだってことは分かってる。大人の女が鏡を見ないわけにはいかない。化粧もできないし、コンタクトだってつけられない。それに、サイドミラーやバックミラーが見られないから車も運転できないし……。デートで遊園地に行ってもミラーハウスに入れないし……。そんなこと今から心配してもしょうがないけど。

 ちさのことを考える。ちさも、同じなんだろうか。私のことを思い出すのが辛くて、鏡を見られないんだろうか。それとも私だけだろうか。あの子のことだから、意外にそんなの気にしないで前向きにやっているような気もする。

 時々、あれが全部夢だったんじゃないかとも考える。私が行方不明になってたのは確かだけど、鏡の世界にいたわけじゃないかもしれない、と。

 でも、そんなの問題じゃない。私の頭の中だけだろうがなんだろうが、ちさは確かにいて、そして今はいないのだ。私にとっては、それがすべてだ。

 何かが目の前に現れた。

 あ、車だ、と思うが身体が動かない。けたたましいクラクションと現実感のないブレーキ音。圧倒的な何かが、人生が終わるまでの選択肢がもう無いと告げている。唐突な終わり。なぜこんな道路の真ん中を歩いていたのか? 車が来ているのに気付かなかったのか? 原因を追究するのはやめよう。だってそれはもう私の人生を左右しない。世界がその速度をどんどん落としている。音がしない。ああ、走馬灯というやつは見てみたかったのに、とそれだけがなんだか残念だった。

 誰かの叫び声。

 手を引かれた。痛いからやめてと思った時には地面で頭を打っていた。視界を黒い車が覆い、停車した。窓を開けて運転していた男が顔を出す。こっちを睨んでいる。何か訳のわからないことを叫び、最後に「気をつけろ」と言い残して発進していった。

「あ、危ないってば」

 声がしたほうを振り向くと、男の子がいた。私を引っ張ってくれたのはこの子らしい。

「ありがとう」

 お礼を述べると、男の子はちょっと怒ったような顔をしていた。

「道路の真ん中歩くなよ。フラフラ。車来てたぞ。あ、危なかった。危なかったよ?」

 興奮しすぎていて、なんか泣きそうにも見える。まあまあ、いいじゃん助かったんだし、と言いそうになるところをぐっとこらえて、素直に謝る。

「ごめんなさい」

 全面的に私が悪い。まったくイカンのイを表明したい所存にございます。

「い、いいけどさあ。あ、危なかったって。本当」

「ありがとう。ごめんなさい」

 男の子はひとしきり、危なかったを繰り返した。これはもしや危なかったのはこの子のほうなんじゃないかと思ってしまう程興奮していた。だが間違いなく道路をフラフラ歩いていたのは私だし、命を救われたのは私だ。

 私が何度も謝っているうちに、男の子も冷静さを取り戻してきたらしい。

「なんか、ごめん俺興奮しちゃって。でもこの道見通し悪いからさ、君も気をつけないと。ほらカーブミラー、見てなかったの?」

 私は黙る。見てなかったよ。見てなかったともさ。見られるわけないじゃん。

「見てなかった」

「見たほうがいいよ。ここ下りだし、スピード出してる車も多いからさ」

「うん」

 私は頷いた。そうですね、見たほうがいいですよね。でも見られないんです。そんなこと、言う義理はない。助けてもらったのは本当に感謝しているけど、今はこの子との会話を終わらせたかった。

 だって。

 涙が出てきた。涙が止まらなくなってしまったのだ。泣いている自分が許せなかった。

「な……なかないでよ。困ったな……。俺、そんなキツイ言い方したかな」

「してない」

 泣いてるのは純粋に私の個人的な問題なので、あなたのせいではありません。そう心では思ったけれど、伝わる筈もなく、男の子は今度は私を泣き止ませようと必死になるのだった。


 *


 私たちは公園にいた。あまりに泣き止まない私を連れて公園へとやってきた彼は、しかし特にプランもないようで、私をベンチに座らせて傍で手持ち無沙汰にしていた。

「ごめんなさい。泣き出してしまって」

 私は落ち着いた。いや、しばらく前に落ち着いてはいたが、念のため自分がもう涙製造マシーンでないと確信できる程度に時間をおいてみたのだ。

「あ、いや、いいよ。俺も興奮してて、言い過ぎたかなって。反省してる」

 男の子は見た感じ、同い年くらいかなと思った。ただ雰囲気はだいぶ幼い印象。

「ううん。違うの」

 首を横に振った。

「私、鏡を見られないの」

 この男の子になら喋ってもいいかなと思う自分がいたらしい。

「鏡を見られない?」

「うん」

 私は全部喋っていた。ワッコにも言っていないことまで。

 小さい頃からずっと私が「双子」だったこと、そして一年前にもう一つの世界へと足を踏み入れたこと、それが原因で世界が二つに分かれてしまい、元の世界に帰ってきた私はもう二度と双子の片割れと話ができなくなってしまったこと。それが辛くて……鏡が見られなくなったこと。それを、私は話した。

「ちさって言うの、その子」

「……ふーん」

「ごめんね? 興味ないよね」

「いや……興味ないわけじゃないけど……」

「信じられない?」

「うん」

 男の子は素直だった。私は笑った。

「だよね。でも、私はその子のことを思い出しちゃうから、鏡見られないの」

「……なんかよくわかんないけど」

 男の子がベンチの隣に腰掛けた。

「俺、大樹(だいき)って言うんだけどさ」

 唐突に彼の話が始まった。いいよ、聞こう。

「うん」

「従兄弟で、和宏(かずひろ)っていう同い年のやつがいたんだ」

 過去形が気になった。

「…………いた?」

 頷いた。

「死んだんだ。交通事故で。小学校に上がるか上がらないかくらいかな。……おばさんは相当落ち込んじゃってさ。だからよくうちの親に連れられて、俺が遊びに行ってたんだ。家も近かったし、和宏が生きてた頃によく遊んでたからさ」

 あっけらかんと話す彼を私は見つめずにはいられなかった。

「……うん」

 交通事故……。だから私が轢かれそうだったのを、あんなに怒ってたのかもしれない。

「俺と和宏は年も同じで、結構似てたんだ。だからかもしれないけど、おばさんが言ってた。だいちゃんが笑ってると、カズくんの笑い声が聞こえるって」

「和宏くんの……笑い声が?」

「うん。俺が笑ってる時にさ、今頃あの子も天国で笑ってるんだろうねって」

「……大樹くんが笑ってる時は、和宏くんも笑ってる……」

「そう。だから俺は、おばさんの前では笑ってることにしてるんだ。俺が笑ってるってことは、和宏も笑ってるってことだろ? だったら、俺は笑ってたい」

「へぇ……。大樹くん、偉いね」

「偉くないよ。和宏もよく笑う奴だったんだ。だから、あいつのこと思い出すと、自然に笑っちまうってのもあるし」

 隣に座る男の子は、無邪気に笑うのだった。

「でさ、だからあんたも笑ってたほうがいいよ」

「…………へ?」

 唐突に、私の話になった。

「ちさ、だっけ? その鏡の向こうにいたって子。その子とあんたは、双子なんだろ?」

「……うん」

「世界がバラバラになってもさ、どっかでその子とあんたは繋がってるんじゃないかな」

「……でも、もうちさの声は聞こえないの。鏡の向こうにもいないし……。ちさ、どうしてるんだろう」

「どうしてるんだろうって、向こうもそう思ってるんだよ」

 その言葉は、私の心の奥の何かを刺激する。

「あんたと同じようにさ、向こうの世界で寂しがってるんだよ。あんたが寂しがってるってことは」

「そう……かも。あの子、私よりもっと寂しがりやだし」

「だったらさ。俺思うんだ。あんたが笑ってるなら、きっと、ちさも笑ってるんだ」

 私は驚いて大樹くんを見た。

「……私が?」

「うん。あんたとちさは、双子なんだろ? あんたが楽しい時は、ちさも楽しい時だ。あんたが落ち込んでる時は、ちさも落ち込んでる時だ。話ができなくても、ちさのことがわかるんだよ」

 きっと俺と和宏みたいなもんなんだ、と彼は言った。

「……じゃあさ、ちさも……鏡、見られないんだろうな」

 私は確信する。絶対そうだ。私と同じなら。ちさも、鏡を見られない女の子になってしまったのだ。

「そうだろね」

 彼もあっけなく同意した。

「いっそ、ちさと出会わなければ楽だったのに」

 言ってから後悔する。情けない。こんなの、「そんなこと言うんじゃない」って叱って貰いたいだけの、甘えた言葉だ。でも幸いなことに彼はそれにまんまと引っかかって叱ってくれるほど、お人よしでもなければ大人でもなかった。

「いいこと思いついた。あんたが鏡を見られるようになればいいんだよ」

「…………?」

「あんたが鏡を見られるようになったら、ちさだって鏡を見られるようになったってことだろ?」

「……」

 私は思わず彼を見る。彼はどうだ名案だとばかりに目を輝かせていた。

 まじまじと彼の顔を見ながら、その単純な発想がだんだんと私の頭を溶かしていくのを感じる。

 ……。そんな簡単で、いいのか。

 私は、吹き出してしまった。なんて明快な解決方法。

「……そうかもね」

 手の平を見る。グーの形にする。

 私は立ち上がって、公園の出口へ歩き出す。

「ん? どこ行くの?」

「挑戦してみるの」

 道路わきのカーブミラーの前に立つ。足が震えてきた。

「さてと……」

 深呼吸。さて、いくよ。ちさ。……どっちが先か、勝負よ。

「よっ」

 顔を上げた。視界からその銀面を追い出さないように歯を食いしばる。目が逃げそうになるのを目蓋に力を入れてこらえる。ミラーを覗き込むと、そこには久しぶりに見る自分の顔が小さく映っていた。歪んでいる。自分の顔だ。……ちさ、じゃあない。あれは、私。

「ちさ……」

 でも口をついたのはちさの名だった。

「……平気?」

 少年が隣に立つ。少年の姿もミラーに映った。こういう時一緒に映っちゃうあたりも、子供だ。

「おーい」

 しかもあろうことか、手をぶんぶんと振った。鏡の中の彼も、ぶんぶん。

 やっぱり涙が出てきた。あれがちさじゃないことが、どうしようもなく悲しくなってくる。

「泣くなよー。ちさも泣いてんぞー」

「うっさいなー。泣いてないよ」

「泣いてんじゃん」

「泣いてないってば!」

 私は大樹を睨みつける。それから、もう一度鏡を見る。中の私に指を突きつける。

「おい、そこのあんた! あんたはちさじゃない! 私よ」

 両手を上げた。足を振り上げる。鏡の中の自分も同じ動きをする。そう、それは私。

「パンツ見えんぞ」

「うっさい」

 私は腰に手を当てて、鏡の中を睨みつけた。鏡の中の私も、睨みつけてくる。

 息を吐いた。

 それから、上を向いた。

「ちさぁ!」

 空に向かって叫んだ。返事はこない。空は青かった。雲が無い。一つも無い。どこまでも青くて、大きかった。宇宙まで、何もない。宇宙の向こうのどこかに、ちさのいる地球があるような気がした。

 私は深呼吸して、大樹を見た。

「やった」

「おう、やったな」

「見れた」

「ああ、見れたな」

「……ありがと。大樹くんのおかげ」

「まあね」

 彼は笑っていた。

「良かったじゃん」

「良かった」

 私は頷いた。


 にっと笑う彼を見て、私は思った。


 これはもしかして……恋しちゃったかもしれない……。


 ……ねぇ、そっちはどお? ちさ。

アドバイスいただきましたきゃっつびーさん、腐れ大学生さん、本当にありがとうございました。

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