第8話 紙を押さえるだけ
模造紙の端を押さえるだけだったはずが、十分後には定規を持たされていた。
「高瀬、そこから八センチ」
「七・八しかない」
「誤差だろ」
「二枚をつなげたときにずれる」
「案内図に二ミリの精度を求める人、初めて見た」
「お前が適当すぎるんだよ」
佐々木は悪びれず、模造紙の反対側を押さえている。
視聴覚室には、文化祭実行委員と手伝いの生徒が十人ほど集まっていた。
黒板には今日の作業が書き出されている。
校内案内図、受付の表示、立入禁止区域の掲示。教室の後ろには、段ボールや色紙、丸めた模造紙が積まれていた。
琴音へファイルを渡したら帰るつもりだった。
しかし琴音は職員室から戻ってこない。
「ここ、廊下が狭すぎないか」
案内図の下書きを見る。
「紙に収めるため」
「階段から教室までの距離がおかしい」
「誰も縮尺なんて見ないだろ」
「迷った人が見るんだろ」
「大体の位置が分かればいい」
「三階の端が紙からはみ出してるぞ」
「そこは裏面」
「案内図を裏返しながら歩かせるのかよ」
鉛筆を取り、廊下の線を引き直す。
正確な縮尺は必要ない。だが、階段の位置と廊下の向きくらいは合わせないと、案内図として役に立たない。
「高瀬、こういうの得意だったんだな」
「得意じゃない。見れば分かる」
「俺には分からなかった」
「自慢するな」
佐々木から消しゴムを取り上げ、余計な線を消す。
「颯馬?」
入口から声がした。
琴音が、追加の資料とテープを抱えて立っていた。
「どうしているの?」
「忘れ物を届けに来た」
「それなら、どうして案内図を書いてるの?」
「こいつに捕まった」
「俺は紙を押さえてくれって頼んだだけだぞ」
佐々木が余計な説明をする。
「線を引き始めたのは高瀬」
「曲がってたからだ」
「帰る?」
琴音が尋ねる。
机の上には、途中まで直した案内図がある。
ここで帰れば、残りは佐々木が仕上げることになる。三階の端が裏面へ追いやられる可能性も高い。
「これが終わったらな」
「あと、どれくらい?」
「二十分」
「じゃあ、私もやる」
琴音は正面の空いた席を通り過ぎ、俺の隣へ座った。
持っていたテープや資料を机へ置く。
「正面にも机があるだろ」
「定規を渡しやすいから」
「机を挟んでも渡せる」
「こっちの方が近いよ」
「近くなくても届くだろ」
「模造紙の端も押さえられる」
琴音は俺の横から手を伸ばし、紙が丸まらないよう押さえた。
肩が近い。
食卓ではいつも向かいに座っているため、横へ並ぶと距離の取り方が分からなくなる。
俺が少し椅子を動かすと、琴音がこちらを見る。
「狭い?」
「別に」
「じゃあ、そのままでいいね」
琴音は何事もなかったように案内図へ視線を戻した。
◇
二十分で終わるはずだった作業は、四十分かかった。
琴音が案内図の上下を逆に置き、貼った紙を一度剥がすことになったからだ。
「方位記号を見ろよ」
「校内案内に北は必要?」
「書いてある以上は必要だろ」
「消せばよくない?」
「地図を琴音に合わせるな」
「見る人が分かりやすければいいでしょ」
「廊下が逆になる方が分かりにくい」
貼り直した紙には、うっすら折り目が残った。
琴音は何度も指で伸ばす。
「破れるぞ」
「でも、ここが浮いてる」
「乾けば目立たなくなる」
「本当に?」
「たぶん」
「颯馬が、たぶんって言った」
「接着剤の乾き方まで断言できるかよ」
琴音は折り目から目を離さなかった。
失敗を気にしているらしい。
「上から矢印を貼れば隠れる」
余っていた色紙を取り、矢印の形に切る。
折り目の上へ置いてみると、大半が隠れた。
「少し長くない?」
「廊下を示すなら、このくらいでいい」
「変じゃない?」
「誰も元の折り目を知らない」
琴音は矢印を貼り、端を指先で押さえた。
「これなら大丈夫かも」
「失敗しても直せばいいだろ」
「料理みたいに?」
「何が」
「卵焼きも、颯馬が形を直してくれた」
「料理と案内図を一緒にするな」
「でも、どっちも私が失敗してる」
「自覚はあるんだな」
「一応」
琴音は完成した案内図を持ち上げた。
少し離れて見てから、満足したように頷く。
「颯馬が来てくれてよかった」
「佐々木に捕まっただけだ」
「でも最後までいた」
「途中で帰ったら、余計に気になるだろ」
「私が失敗したところも直してくれた」
「案内図の見栄えが悪かったからな」
「私が困ってたからじゃなく?」
「案内図が困ってた」
「物に感情を持たせないで」
「前にヨーグルトへ持たせたやつが言うな」
琴音が声を立てずに笑った。
「幼なじみって、本当だったんだね」
向かいで文字を切っていた女子が言った。
「何だと思ってたの?」
琴音が尋ねる。
「最近知り合ったのかと。前は全然話してなかったから」
「小学生のころから知ってるよ」
「高瀬君も?」
急に話を振られる。
「そうだけど」
「相沢さんの家にも行ったことある?」
「ある」
「高瀬君の家には?」
「金曜日に御飯を食べてる」
琴音が答えた。
「毎週?」
「大体ね。最近は、ほかの日も」
「それ、かなり仲いいよね」
周囲の視線が集まりそうになり、案内図へ手を伸ばす。
「幼なじみなら普通だろ」
言ってから、隣で琴音の手が止まった。
「颯馬が認めた」
「何を」
「学校でも幼なじみ」
「学校と家で関係が変わるわけじゃないだろ」
「前は変わってたよ」
「話してなかっただけだ」
「今は話す?」
「見れば分かるだろ」
琴音は案内図を見たまま、少しだけ口元を緩めた。
◇
翌朝、黒板に文化祭準備の当番表が貼られていた。
実行委員でもない俺には関係のない表だ。
そのはずなのに、案内表示作成の欄へ自分の名前がある。
「佐々木」
「おはよう」
「消せ」
「何を?」
「俺の名前」
「昨日、最後まで手伝ってたじゃん」
「昨日だけだ」
「案内図、ほかの階も残ってるぞ」
「知らない」
黒板の下にはチョークがある。
名前を消そうと手を伸ばしたところで、教室の入口から呼ばれた。
「颯馬」
琴音が長い定規を持って立っている。
「昨日、忘れてたよ」
「それは実行委員の備品だろ」
「今日も使うかと思って」
「使わない」
「当番表に名前があるよ」
「今から消すところだ」
「そっか」
琴音は定規を胸元へ戻した。
「じゃあ、返しておくね」
「昨日の案内図は?」
「今から先生に見せる」
「矢印、剥がれてないか」
「確認したよ」
「折り目は?」
「目立たなくなった」
「本当に?」
「見に来る?」
断るつもりだった。
ただ昨日の接着剤が乾いた状態を見ていない。このまま掲示して剥がれれば、直した意味がなくなる。
「案内図を確認したら帰る」
「うん」
「今日だけだからな」
「分かった」
「定規を渡せ」
琴音は教室へ入ってきた。
差し出された定規を受け取ると、佐々木が笑う。
「結局、消さないんじゃん」
「うるさい」
当番表には、俺の名前のすぐ下に琴音の名前があった。
チョークへ伸ばしかけた手を下ろす。
今日だけなら、消すほどでもない。
そういうことにした。




