第7話 月曜日の青い茶碗
琴音が俺の教室で昼食を取るようになってから、一週間が過ぎた。
毎日ではない。
友人と別の教室へ行く日もあれば、文化祭実行委員の打ち合わせで昼休みがつぶれる日もある。
それでも琴音が来るかもしれない日は、俺の鞄が隣の机を塞ぐことはなくなった。
誰かに決められたわけではない。
ただ、毎回どかすのが面倒だから、最初から置かなくなっただけだ。
◇
『今日、少し遅くなる』
月曜日の十八時過ぎ、琴音から短い連絡が来た。
『分かった』
それだけ返し、米を二人分研ぐ。
味噌汁には豆腐とわかめを入れ、鶏肉と大根を煮る。
大根へ箸が通るころになって、琴音がうちへ来るとは書かれていなかったことに気づいた。
遅くなる。
何が、どこで、誰に対して遅くなるのか。
主語も目的地もない。
スマートフォンを手に取り、確認しようとする。
しかし、もう料理はできていた。
来なければ明日の朝に食べればいい。二人分といっても、正確に量ったわけではない。
そう考え、食器棚を開ける。
俺の茶碗を出す。
その隣にある青い花柄の茶碗へ手を伸ばした。
出してから、少し迷う。
まだ御飯をよそわなければ、琴音が来なくても戻すだけで済む。
それなのに、炊飯器を開けた。
◇
玄関のチャイムが鳴ったのは、七時を十五分ほど過ぎてからだった。
扉を開けると、琴音が立っていた。
片手に大きなファイルを抱え、肩には鞄を掛けている。髪が少し乱れ、頬には薄く赤みが残っていた。
「遅かったな」
「うん。資料を渡しに来ただけだから、すぐ帰るね」
ファイルから一枚の紙を抜き、差し出される。
文化祭当日の保護者向け案内だった。
「何で俺に渡すんだ」
「おばさんに。勤務が休みなら来るかもしれないでしょ」
「直接渡せばいいだろ」
「今週は会えそうにないから」
「郵便受けに入れれば済む」
「それだと颯馬に会えないよ」
さらりと言い、琴音は家の中を見る。
台所から煮物の匂いが流れている。
「夕飯、これから?」
「もうできてる」
「そっか」
琴音はローファーを履き直そうとした。
「食べていかないのか」
手が止まる。
「私、食べるって言った?」
「遅くなるって連絡しただろ」
「あれ、実行委員の集まりが遅くなるって意味」
「ならそう書けよ」
「颯馬の家に行くとは書いてないよ」
「今は来てるじゃん」
「資料を渡すためにね」
「夕飯は?」
「家に帰ってから、何か作る」
「今から?」
「卵ならあると思う」
「また焦がすぞ」
「もう焦がさないよ」
「砂糖は入れすぎる」
「少し甘い方が好きなの」
「俺は普通がいい」
「颯馬が食べる前提なんだ」
琴音が笑う。
いつもなら、それに何か言い返していた。
しかし今日は、笑ったあとで小さく息を吐いた。ファイルを抱える腕にも、少し力が入っている。
「もう御飯をよそった」
俺は言った。
「戻せばいいでしょ」
「味噌汁も二人分ある」
「明日食べれば?」
「豆腐が入ってる」
「冷蔵庫に入れれば大丈夫だよ」
「冷める」
「温め直せるよ」
「もう温め直した」
理由を重ねるたび、琴音の口元が少しずつ緩んでいく。
「私が来てから?」
「チャイムが鳴ったからな」
「来る前は?」
「鍋に入ってた」
「待ってた?」
「待ってない」
「でも二人分作ったんでしょ」
「お前が主語を書かないせいだ」
「勘違いした?」
「食べるのか、食べないのか、どっちだよ」
琴音はファイルを抱えたまま、しばらく玄関に立っていた。
「食べてもいい?」
「最初からそう言ってるだろ」
「言ってないよ」
「作ったって言った」
「それは勘違いの報告」
「細かいな」
「颯馬が、ちゃんと言わないから」
琴音はようやく靴を脱いだ。
台所へ入ると、食卓を見て足を止める。
俺の茶碗と、青い花柄の茶碗。
どちらにも御飯がよそわれている。
「これ、出してたんだ」
「見れば分かる」
「私が来るって言ってないのに?」
「戻すのが面倒だった」
「御飯まで入ってるよ」
「炊飯器を開けたついでだ」
「私と同じ量」
「毎週見てれば分かる」
「覚えてるんだ」
琴音は青い花柄の茶碗を両手で持った。指先へ伝わる温かさを確かめるように、少しだけ持ち上げる。
「月曜日なのに」
「茶碗に曜日は関係ないだろ」
「私がいるから?」
「お前の茶碗だからな」
琴音は何も言わず、茶碗を元の位置へ戻した。
鞄とファイルを椅子へ置き、玄関へ戻っていく。
「何だよ」
「言い忘れたから」
琴音は一度外へ出た。
扉が閉まり、数秒後にまた開く。
「ただいま」
金曜日と同じ声だった。
曜日は違う。
母さんもいない。親同士の都合で夕飯を食べる日でもない。
それでも食卓には、青い花柄の茶碗がある。
「おかえり」
答えると、琴音は満足したように靴を脱いだ。
◇
「今日、集まりで何をしてたんだ」
大根を箸で割りながら尋ねる。
「当日の担当決め。受付と案内と、落とし物の対応」
「全部やるのか」
「受付と案内だけ。人が足りなかったら、ほかも」
「最初から足りない前提じゃん」
「当日に休む人もいるかもしれないから」
「琴音が休めばいいだろ」
「実行委員が休んだら駄目でしょ」
「体調が悪ければ休む」
「悪くないよ」
「今から疲れてるのに?」
琴音の箸が止まる。
「疲れてるように見える?」
「髪が乱れてる」
「それだけ?」
「玄関で食べるかどうか決めるのが遅かった」
「いつもと同じだったと思うけど」
「いつもなら、もっと早く勝手に上がる」
「私、そんなに図々しい?」
「今さらだろ」
琴音は味噌汁へ息を吹きかける。
「よく見てるね」
「玄関に二人しかいなかったからな」
「学校では?」
「何が」
「学校の私も見てる?」
「たまに目に入る」
「今日、何回会った?」
「二回」
答えてから、気づいた。
琴音も気づいたらしい。
「覚えてるじゃん」
「一回目は昼休みに俺の教室へ来た」
「二回目は?」
「放課後。職員室の前」
「私、何してた?」
「先生と話してた」
「見てるね」
「目に入っただけだ」
「職員室の前を通っただけなのに?」
「琴音の声が聞こえた」
「名前を呼んだ?」
「呼んでない」
「どうして?」
「先生と話してたからだろ」
琴音は納得したような、していないような顔で味噌汁を飲んだ。
「明日は、視聴覚室にいるよ」
「何で教えるんだ」
「目に入るかもしれないから」
「用もないのに通らない」
「そっか」
残念そうには見えなかった。
むしろ、俺がそう答えると分かっていたような顔だった。
◇
洗い物を終え、琴音が帰ったあと。
食卓の端に、大きなファイルが残されていた。
連絡すると、すぐに返事が来る。
『明日使う』
『朝渡す』
『朝は打ち合わせ』
『昼休み』
『先生に呼ばれるかも』
『じゃあ放課後』
送ってから、余計なことを言った気がした。
返信が来る。
『視聴覚室にいるよ』
わざわざ放課後まで持っている必要はない。朝に琴音の教室へ置いておけば済む。
それでも翌日、ファイルは俺の鞄に入ったまま放課後を迎えた。
視聴覚室の扉を開ける。
最初にこちらを見たのは、琴音ではなく佐々木だった。
「お、高瀬。ちょうどよかった」
「よくない」
「まだ何も言ってないだろ」
「その台詞のあとによかったことがない」
教室の中を探す。
琴音の姿はない。
「相沢さんなら職員室。すぐ戻ると思う」
「なら、机に置いておく」
「待ってる間、この紙の端を押さえてくれない?」
「重しを使えよ」
「ちょうどいいのが来たから」
「帰るぞ」
「分かった。高瀬の手が一番信用できそうだから」
机の上には、丸まった大きな模造紙が広げられていた。
押さえるだけなら、一分もかからない。
そう思って手を置いた。
それが間違いだった。




