第15話 打ち上げ②
「ただいま。もう始まってるのね」
玄関の鍵が開き、母さんがリビングへ顔を出した。
三浦と小宮山が椅子から立ち上がる。佐々木も一拍遅れて続いた。
「お邪魔しています」
「座っていていいわよ。ごめんなさいね、ゆっくり挨拶できなくて」
夜勤へ入る前に、荷物を取りに戻っただけらしい。
母さんは三人へ順番に名前を聞いた。
「三浦美咲です」
「小宮山栞です」
「佐々木悠真です。高瀬の親友です」
「最後の説明はいらない」
「家へ呼ばれたから、もう認められたと思って」
「打ち上げの場所を貸しただけだ」
「数学の課題も教えてくれた」
「早く終わらせるためだ」
母さんは佐々木の話を笑って聞き、最後に琴音へ目を向けた。
「琴音ちゃん、おかえり」
琴音の手が止まった。
友人たちの前でも、母さんの言葉は普段と変わらない。
「……ただいま」
少しだけ小さな声で答える。
三浦が琴音を見る。
琴音は青い花柄の茶碗を両手で持ち、スープを飲むふりをした。
「本当に、ただいまなんだ」
母さんが台所へ入ったあと、三浦が小声で言った。
「おばさんが先に言っただけだよ」
「でも、琴音も答えたでしょ」
「返事をしない方がおかしいから」
「いつも言ってるの?」
「昔から」
「友達の前では初めて?」
琴音は茶碗へ視線を落とした。
「……たぶん」
いつもならすぐに言い返す琴音が、今日は少しだけ言葉を選んでいる。
「三浦、細かいことを聞くなよ」
「高瀬君がそれを言う?」
「何で俺なんだ」
「琴音の昼食が少ないと、すぐに気づくんでしょ」
「誰に聞いた」
「琴音に」
「琴音」
「本当のことでしょ」
「全部話すなよ」
「全部じゃないよ」
「まだあるのか?」
聞いても、琴音はスープを飲むだけだった。
母さんが冷蔵庫から水筒を取り出し、鞄へ入れる。
「琴音ちゃん、帰りが遅くなるなら、お父さんへ連絡しておいてね」
「もう送ったよ」
「なら大丈夫。帰りは颯馬に送ってもらいなさい」
「一人で帰れるよ」
「暗いから」
琴音が俺を見る。
「じゃあ、お願いする」
「勝手に決めるなよ」
「送ってくれないの?」
「送らないとは言ってない」
「じゃあ決まり」
三浦が小さく笑う。
「こういうところは、すぐ決まるんだね」
「何が?」
「何でもない」
母さんは腕時計を確かめ、玄関へ向かった。
「それじゃ、行ってきます。皆も楽しんでね」
「行ってらっしゃい」
琴音が最初に答える。
三浦たちも続き、玄関の扉が閉まった。
佐々木が俺と琴音を交互に見る。
「今のも普通なんだな」
「何がだよ」
「おかえりと、行ってらっしゃい」
「昔からだから」
琴音が答えた。
「相沢さん、半分くらい高瀬の家の人じゃないか?」
「半分って何」
「高瀬の母親には娘みたいに迎えられて、高瀬には専用の茶碗を出される」
「娘じゃないよ」
「茶碗は?」
琴音の返事が止まった。
「毎週来るから置いてあるだけだ」
代わりに答えると、佐々木が面白そうに頷く。
「高瀬の説明は、理由になってないんだよな」
「なってるだろ」
「毎週来ることを普通として話してるから」
「今さら変える必要がないだけだ」
三浦が琴音へ顔を向ける。
「琴音は、それでいいの?」
「うん」
琴音は短く答えた。
青い茶碗を持つ指から、余計な力が抜けていた。
◇
一度だけ大富豪をしたあと、壁の時計が八時を指した。
「もう八時?」
琴音は、配られたばかりのカードを惜しそうに伏せた。
「最後にもう一回できたのに」
「次に集まったときでいいだろ」
佐々木が言う。
「次もあるの?」
「今日で終わりなのか?」
「文化祭の打ち上げは一回だけだろ」
「普通に遊びに来ればいい」
「お前の家じゃない」
「親友の家だから」
「勝手に次の予定まで決めるなよ」
「じゃあ、次は俺の家」
「妹の学校ごっこは?」
三浦が尋ねる。
「全員、生徒役な」
「大富豪の方がいい」
「妹に会う前から冷たくないか?」
小宮山がトランプの枚数を確かめ、箱へ戻す。
「五十二枚とジョーカー一枚。全部ある」
「しおりん、次も数えてね」
「ここのトランプだけど」
「琴音まで次がある前提かよ」
「楽しかったから、またしてもいいでしょ」
琴音の視線が、三人ではなく俺へ向く。
「駄目?」
「片づけまで全員でするならな」
「じゃあ決まり」
「日程は決めてないだろ」
「駄目じゃないことは決まったよ」
誰も次の日程までは決めなかった。
それでも、今日だけで終わるとは誰も言わなかった。
三浦と小宮山が食卓を片づけ、佐々木が残った飲み物を袋へ戻す。
「高瀬、今日はありがとな」
「ごみまで持って帰らなくていい」
「俺が買った分だから」
「じゃあ頼む」
「一回くらい遠慮しろよ」
「持って帰りたいのはお前だろ」
「こういうところも親友らしいな」
「まだ続けるのか」
「今日で確定したと思ってる」
「何で」
「家に呼ばれて、飯を食って、トランプをした」
「そんな条件で決めるな」
「ほかに何が必要なんだ?」
「本人の了承」
「高瀬以外は認めてるぞ」
三浦が靴を履きながら頷く。
「私はいいと思う」
「私も」
小宮山まで続く。
「多数決で決めることじゃないだろ」
「好きにしろ」
「了承をもらった」
「諦めただけだ」
「似たようなものだろ」
佐々木は満足したように靴を履いた。
三浦が琴音へ小さく手を振る。
「琴音はまだ帰らないの?」
「片づけが残ってるから」
「もうほとんど終わったよ」
「テーブルが少しべたついてる」
三浦は食卓を見たあと、俺へ視線を向けた。
「心配してたほどじゃなかったでしょ」
「何の話?」
「私たちが来たこと」
琴音は少しだけ考えた。
「うん。楽しかった」
「それならよかった」
「ミサたちが帰ったあとも、いつもどおりだし」
言ってから、琴音が俺を見る。
「そうだよね?」
「俺に確認するなよ」
「高瀬君、琴音を送ってあげてね」
「母さんにも言われた」
「なら大丈夫だね」
三人が玄関を出ていく。
扉が閉まると、家の中が急に静かになった。
◇
五人分の紙皿は重ねられ、来客用の器は流しで乾いていた。
少し前まで話し声が重なっていた部屋に、今は冷蔵庫の稼働音だけが残っている。
琴音は食卓の端から、ゆっくり布巾を動かしていた。
「そこ、もう拭いた」
「颯馬が?」
「さっき」
「まだ少しべたついてる」
「ピザの箱を置いてたからな」
琴音は同じ場所をもう一度拭く。
「お前、いつまでいるんだ」
「追い出したい?」
「父親へ連絡したんだろ」
「九時前には帰るって送った」
時計は八時二十分だった。
片づけはほとんど終わっている。残っているのは、乾いた器を棚へ戻すことくらいだ。
「いつもの金曜日と同じだね」
「打ち上げをした日にまで、いつもどおりにするのか」
「皆が帰ったら、いつもどおりでいいって言ったのは颯馬だよ」
「そこだけ覚えてるんだな」
「大事だから」
琴音が布巾を流しへ置く。
まだ帰るつもりはないらしい。
「温かいものでも飲むか」
「颯馬が入れてくれるなら」
「自分でやれよ」
「今日は場所を貸してくれた人にお願いする」
「普通は借りた方がやるだろ」
「私は、借りてないかもしれないよ」
「何を」
「場所」
琴音は自分の席へ座った。
打ち上げの間も使っていた、俺の正面の椅子だ。
「おばさんは、おかえりって言ってくれたから」
「それがどうした」
「帰ってきたなら、お客さんじゃないでしょ」
「都合のいいときだけ帰ってきたことにするな」
「駄目?」
琴音は俺を見たまま待っている。
「駄目なら、母さんが最初から言わないだろ」
「颯馬は?」
「何が」
「私がお客さんじゃなくてもいい?」
湯を沸かし、俺は茶を、琴音にはミルクティーを用意する。
答えを考えている間も、琴音の視線が背中へ向いている気がした。
来客用のカップをいくつか出す。
琴音は少し迷い、青い線の入ったものを選んだ。
「これ、今まで使ったことない」
「来客用だからな」
「やっぱり今日はお客さん?」
「さっき自分で違うって言っただろ」
「颯馬は答えてないよ」
「面倒くさいな」
ミルクティーを注いだカップを琴音の前へ置く。
「熱いから気をつけろ」
「うん」
琴音はカップを両手で包んだ。
「それで?」
「まだ続くのか」
「私、お客さんじゃなくてもいい?」
「今さら客扱いしたら、琴音の方が困るだろ」
「私の話じゃなくて、颯馬の話」
琴音は簡単には逃がしてくれない。
友人たちがいたときより、二人になってからの方が質問が多かった。
「嫌なら、青い茶碗なんか置いてない」
琴音が食器棚を見る。
「茶碗があるから?」
「毎週来るから、茶碗があるんだろ」
「どっちが先?」
「知らない」
「私は覚えてるよ」
「なら聞くな」
琴音はミルクティーへ口をつけた。
カップの向こうで、口元が少しだけ緩んでいる。
「楽しかった?」
「何が」
「今日」
「騒がしかった」
「それは楽しかった方?」
「嫌なら家に入れてない」
「そっか」
琴音はカップの青い線を指でなぞった。
「私も楽しかった」
「ならよかっただろ」
「うん。でも、皆が帰って少し安心した」
「何で」
「静かになったから」
「騒がしいのが嫌だったのか」
「そうじゃないよ」
琴音は少し考えてから、俺の方を見る。
「二人に戻ったから」
冷蔵庫の音が、さっきより大きく聞こえた。
琴音は視線を外さない。
「颯馬は?」
「何が」
「皆が帰って、少し安心した?」
「片づける人数が減った」
「そういうことじゃないでしょ」
「質問が多い」
「今日だから」
さっきも聞いた言葉だった。
琴音はカップを持ったまま、俺の答えを待っている。
「皆でいるのも、悪くなかった」
「うん」
「でも、毎週は疲れる」
「うん」
「琴音一人なら、今までどおりで済む」
「それだけ?」
「ほかに何があるんだ」
「私は、颯馬と二人に戻って安心したよ」
琴音だけに言わせたままにするのは、少し違う気がした。
来客用の器を一つずつ上の棚へ戻す。
三浦、小宮山、佐々木が使った三つ。
最後に青い花柄の茶碗を持ち上げる。
「俺も、琴音と二人なら落ち着く」
食器棚へ茶碗を戻す。
いつもの場所だった。
返事がないので振り返る。
琴音はカップを口元へ寄せたまま、こちらを見ていた。
「何だよ」
「もう一回言って」
「言わない」
「聞こえなかった」
「絶対に聞こえてただろ」
「冷蔵庫の音が大きくて」
「そんなに大きくない」
「じゃあ、驚いて聞き取れなかった」
「それは琴音の都合だろ」
琴音はカップの向こうで笑った。
「でも、聞けたからいい」
「なら最初から聞き返すな」
「颯馬から言ってくれると思わなかったから」
琴音は残っていたミルクティーを飲み切った。
「来週も、二人?」
「毎週打ち上げをする気はない」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
琴音が少しだけ目を見開く。
「来週も、琴音の茶碗はここにある」
「茶碗の話?」
「それで分かるだろ」
「私の場所も?」
「今さらなくならない」
琴音は食器棚の手前に戻された青い茶碗を見る。
「金曜日じゃなくても?」
「来るなら先に連絡しろ」
「連絡したら?」
「二人分作る」
琴音はそれ以上、何も確認しなかった。
◇
玄関で琴音が靴を履く。
「今日は送るんだよね」
「母さんに言われたからな」
「それだけ?」
「暗いから」
「それだけ?」
「早く靴を履け」
「もう履いてるよ」
扉を開けると、夜気が玄関へ入ってきた。
琴音は外へ出たあと、一度だけ家の中を振り返る。
「颯馬」
「何」
「今日は、お邪魔しましたって言った方がいい?」
「好きにしろ」
「お客さんじゃないのに?」
「さっきから、それを言わせたいだけだろ」
「何を?」
「琴音は客じゃないって」
琴音は少しだけ黙った。
「言ってくれるの?」
「もう言った」
「うん」
琴音は家の中へ小さく頭を下げる。
「行ってきます」
「どこから帰ってきたつもりだよ」
「送ってもらって、また帰ってくるから」
「今日は自分の家へ帰れ」
「分かってるよ」
琴音は笑い、門の前へ向かった。
三人分の来客用の器は、上の棚へ戻した。
青い花柄の茶碗だけは、いつもの場所に残っている。
来週も、その次も。
琴音が来るなら、俺は黙ってそれを取り出すのだと思う。




