4.
「つかれた」
そう言って、グレーテルが座りこんでしまった。無理もないことだと思う。もうだいぶ歩いた。まだ昼間の明るさだけれど、今の時期は日が暮れるのが遅いので時間はよくわからない。それでもいつもなら家に帰っている時間になっているはずだ。
グレーテルはもちろん、ヘンゼルもくじけそうだった。森はだんだんと深くなり、2人以外の人の気配がまったくしない。幼い子供だけでは心細かった。
けれど帰ることはできない。捨てられてしまったから。捨てられていなくても道を見失ってしまったので帰れないのだが。
引き返そうにも、道にまいていたパンは小鳥に食べられ、目を離したすきに道が消える。どうすることもできなかった。
いっそ自分もグレーテルのように座りこんでしまいたい。
ヘンゼルはため息をはいて、力なく空を見上げた。なんの苦労もなく浮いている雲がうらめしい。
その時、視界にゆらりと流れこむものがあった。村で見慣れた、煙突から立ちのぼる煙だ。
「グレーテル、家だ、家があるよ!」
「え?」
灰色がかったそれが希望の道しるべに見えた。
「とりあえず行こう。頼めば少しくらいご飯とかもらえるかもしれない」
グレーテルはヘンゼルを頼りにできるけれど、ヘンゼルは誰も頼りにできない。折れそうな気持ちで希望にすがった。
煙ははっきりと空を流れていて、遠くから風に乗ってきたのでないことが明白だった。家は近い。こどもの足でも日が落ちる前に着けると思った。
その予想は正しかった。道が消える森の中で空にあるものを目指して歩くので迷うことがなく、数分も歩くと甘い匂いが2人を誘った。
「お兄ちゃん、あれ!」
半ばヘンゼルに引きずられるようにして歩いていたグレーテルが突然かけだす。それはヘンゼルも同じで、疲れている体のどこにそんな力が残っていたのか不思議なほどに速く走った。見えた建物が気分を高揚させ、疲れを吹き飛ばしたのだ。
お菓子の家。
空腹感を覚えていた2人の向かう先に待っていたものはお菓子の家だった。聖誕祭くらいでしか嗅ぐことのないクリームの香りが、鮮やかな見た目でそそるジェリービーンズが、2人の頭を抑えられない食欲で満たした。
2人がいくらこどもだと言っても、深い森の中にお菓子の家が建っていることがどんなに非常識なことであるか、わかっているはずだった。しかし2人の頭はそこまで回らない。精神的なショックと空腹感の両方を抑えこむのは大人でも難しい。まして幼い兄妹には不可能だった。
「お兄ちゃん! これ、ふわふわでおいしいよ!」
グレーテルは何のためらいもなく壁をちぎって口にほうりこみ、歓声を上げた。そのあまりの笑顔に、自制を試みたヘンゼルの心も揺さぶられ、同じように壁をちぎってみた。パンとはまた違った柔らかさを持つそれは、わずかに弾力性があり、口に入れて噛むと甘さが全身にしみわたるような気がした。
レープクーヘンの壁に、生クリームで描かれた模様。
砂糖を煮熔かして作った透明な窓、それを縁取るチョコレートの窓枠。
家全体にちりばめられたジェリービーンズ。
ビスケットのドア、屋根、柱に土台。
当然、貧しい農村に暮らす2人は自分たちが何を食べているのか知らなかった。それでも2人は、今まで口にしたことのないお菓子に魅入られてしまった。疲れきった体に甘い力が満ちていく。
「クリームってこんなに甘かったんだ」
唯一わかるクリームも、聖誕祭の席では乾パンにほんの少し塗って食べるだけだった。それも、この家の装飾に使われているクリームに比べれば薄く、甘味もほとんどなきに等しい。
2人は完全にお菓子の虜となっていた。壁をつまんで、窓を割り、窓枠を折って、口に入れる。現実逃避もかねて、甘さに意識を委ねた。
そこへ、
「何してるんだい?」
女の声にビクリと2人の体が揺れた。とっさにヘンゼルはグレーテルをかばうようにして振り向き、いきなり現れた女と相対した。
女は若く、綺麗だった。少なくとも、ヘンゼルが会ったことのある人間の中で彼女に敵う人間はいないと確信できた。
深い森の中に暮らしているからなのだろうか、色素が薄い。木漏れ陽色の髪はゆるく波うって、女の腰ほどまで垂れている。野暮ったさはない。それどころか完全に整えられた美しさがある。日光に当たることも少ないらしく、まったく焼けていない白い肌に輝く空色の瞳がよく映える。
――きれいな人だ。
うっかり口に出そうとして、やっとヘンゼルは自分が見ず知らずの人間を不躾に見ていたか気づいた。顔が羞恥でほてる。後ろに目をやると、グレーテルも兄同様、熱に浮かされたように女を見上げていた。
そんな2人の様子に含みのある微笑みを浮かべ、女は優しげな声をかけた。
「とりあえず、うちにお入り」
その夜。ヘンゼルとグレーテルは、ナスターシャと名乗った女の家に泊まることになった。外側はお菓子だったが中は普通の家で、ナスターシャの説明によると「家にお菓子の服を着せた」状態らしい。
どうしてこどもが森の中にいるのか。ナスターシャは初めこそ2人に質問を投げかけてきたけれども、口をつぐむ様子を見て深い追究はしなかった。
彼女の優しさにヘンゼルは泣きそうだった。グレーテルに先を越されなかったら、ナスターシャの若草色をした平服に泣きついていたと思う。
「大丈夫だよ」
口をつぐんだ時にナスターシャが言った言葉が蘇る。事情は何も知らないはずなのに全てを見透かしたような空色の瞳に見つめられて、ヘンゼルは顔が火を噴きそうになった。
今はもう真夜中。グレーテルは今頃、与えられた別の部屋でぐっすり眠っているだろう。ナスターシャも同じか。
けれどもヘンゼルは眠れなかった。ずっと歩き回って体は疲れていたし、1日の間にいろんなことがあって心も疲れているのに、だ。
ヘンゼルはベッドに足を抱えて座り、開け放った窓から星を見ていた。闇に馴れた目には小さな光が強く見える。
星には仲間がいる。
僕たちの親はいなくなった。
「眠れないの?」
孤独に震えているヘンゼルの耳を慈しみに満ちた声が打ち、肩には温かい腕が回された。
ナスターシャだ。
「あ……」
「大丈夫。寂しいのはわかってる」
抱きすくめられて固くなるヘンゼルに、ナスターシャの声が慈雨のように降りそそぐ。同時にお菓子とは違う、安心そのもののような甘い香りが漂った。
「グレーテルの前では我慢していたでしょう? 今なら泣いてもいいから」
その言葉に目頭が熱くなり、下まぶたにおさまりきらない滴が頬を伝う。
一度ほどけてしまった緊張は戻らない。流れてしまった涙も止まらない。とめどない奔流に流されて、しかし別の部屋で眠る妹を起こさないように、ヘンゼルは声を殺して泣いた。
「つらかったね」
「よくがんばったよ」
不思議と落ち着く声音に耳をゆだね、自身の中で凝り固まった不安や焦燥、絶望を涙に乗せて流していく。
この夜、ナスターシャはヘンゼルが泣き疲れて眠るまで、ひたすら優しい存在だった。




