二十六話
砂漠の国では目にかかることがない杉や松などの針葉樹の香りを胸いっぱいに吸い込むたびに、まるで罪が薄らいでいくようで、自分がして来た悪事が許されていくような気がした。
前方には広がるのは果てしなく青い空と海の境界線。白い砂浜の上では子供達が賑やかに駆け回っている。浜辺を撫でるような穏やかな波は潮風を一緒に運んで来ると、海岸林はざわざわと鳴った。
ティリアはこの世界がこんなにも穏やかで優しいものだとは思っても見なかった。今まで呪っていたこの世界が、今はひたすらに愛おしい。生きていることに感謝するなんて初めてだった。
そっと目だけ動かして横に座る男を見る。
幾重にも重なりあった針の葉から日光がメッシュになってやさしく降り注ぎ、その柔らかな日差しを受けて新人は目を細めた。重ための前髪は潮風にふらりと揺れて白い肌が神秘的なまでに透き通って見えた。
「ぼくは、この世界を変えたいと思ってるんだ」
ティリアの視線に気づいたのか、新人は目の前の大きな青に目をやったまま呟いた。
「いつの間にか人間は私利私欲のために奪い合って、殺し合うようになった。だんだんぼくたちはどんなに残忍な事も出来るようになって、終いには人間ですらなくなるんじゃないかと思うんだ」
彼の顔は寂しそうでも嬉しそうでも無く、ただ虚空に漂う何かを見つめているようだった。
「人間ってなんなんだろうな」
「私だってわからないわ」
ティリアに答えられることは、分からないという事だけ。それでも新人に返せる返事が有るだけで幸せだった。
彼女の言葉を受けた新人は一笑を顔に貼付けて、静かに腰を上げる。
「この国ももうすぐに戦争が始まる。そうなればぼくたちも無事に済む保証は無い」
浜風が一層強く吹きつけた。何かを決意したような新人の目には何が映っているのか、ティリアにはわからない。ただこの穏やかな時間がいつまでも続く事を信じるだけだ。しかし新人の顔には若干の陰りが見えた。不安になる。
「私はあなたと一緒に生きたいわ」
新人の顔を見たティリアが絞り出したのは、心の底から湧いて来た純粋な感情。その言葉が新人をいつまでも自分の側に縫い止められるなどと思ってはいない。
「ぼくもだよティリア」
二人の視線は交わった。日差しは依然としてやさしく降り注ぎ、風は浜辺を遊ぶ子供たちの声まで届けた。そっと手を握り合う。
「師匠! こんなとこにおったんですか! 探しましたよ!」
「ああ、十賦か。悪い悪い」
この時代には珍しい大きな色眼鏡をかけた若い男がやって来た。彼はちらっとティリアを見ると「ああ」と何か納得したように頷いた。
「師匠。帝国議会が呼んではります。なんでも新しい武器作れ言ってはりましたよ。ガミガミですわ」
「チッ。あのタヌキどもめ」
新人はまるで別人のような顔をした。さっきまでのやさしい表情が嘘のようだ。
踵を返すと、屋敷に向かって歩き出した。
「ねえ! 新人!」
「ん?」
その場に立ち尽くすティリア。十賦と向こう側から振り向く新人。
ティリアの赤い髪は海の青と混ざってどこまでも深く見える。
「どこにも行かないで!」
きょとんとする新人。すると優しいあの顔を再び浮かべてはにかんで見せた。
「ティリア。ぼくはずっと──」
浜風が轟と吹き、彼の言葉尻は針葉樹のざわめきに溶けた。
なに? 何て言ったの?
あなたは私に何を伝えたかったの?
パラパラとページをめくるような音とともに、風景も匂いも、日差しも子供の声もかき消えた。
最後に残った新人の笑みも本を閉じるパタンという音に飲み込まれた。
※※
「ティリア?」
様子がおかしい。あの暴君のような女、ティリアが突然涙を流した。
もしかしたら悪霊の精神攻撃かもしれない。もしくはタマネギのみじん切り攻撃か。
「え?」
ティリアがはっとなって僕を見た。
自分が涙を流している事に自覚が無いらしい。
「白紙ですね。呪います」
神子川はひとしきり日記をめくっていたが、白紙のページばかりのようだった。暫くパラパラとめくっていたが、ついに文字の書かれたページは出てこないので、パタンと閉じたのだった。




