忌憚奇譚14
墓村夕子は考えず、ただ静かな公園内の空気を飲み込んだ。
樹はバッグの中に骸を入れる。その動作の熟れたこと。
彼女は殺すことを知っている。
まるで無垢とは程遠かった。乙香の言う無垢の皮を被った邪悪というのは正鵠を得ていたと言っていい。
「樹ちゃん。こんばんは」
まさかの一言。乙香が樹に近付きながら声をかけた。夕子はその場から動けない。乙香は何を考えているのだろうか。まるで戦いた様子もなく、平常心といった風だ。
「夕子、ほら、樹ちゃんだよ?」
こちらを向いて乙香は悠然と言う。それでも夕子は動けない。
樹の方に目を向けると、それこそ邪気のない目で、こちらを見ながら笑っている。
樹が乙香のいる場所まで走って来た。乙香の頭を指差して笑っている。乙香は動じた様子もなく、樹を去なしている。
そして乙香と樹は連れ添ってこちらへ足を向ける。
夕子は口を開くことが出来ない。あまりに異常な光景だった。口裂け女に遭遇したときとは訳が違う。幾ら恐ろしくても、あの駐車場に死はなかった。しかし今は、この公園は違う。異界だ。完全に街からは切り離された異界が形成されている。
すぐそこに死を引き連れた人間が、友人と共に近付いてくる。
そして夕子の一.五メートル程前方で足を止める。乙香はそのまま歩みを止めず、樹と夕子の間に入る。調度二等辺三角形が出来る位置取りだ。
「見られちゃったかー」
依然、笑顔を崩さない樹。
「樹ちゃんは……」
声を絞り出す。喉はからからで、もしかしたらその声は情けなく枯れていたかもしれない。
「——一体何?」
一体樹は何なのか。非情に漠然とした、しかし確かに相手を人間扱いしない質問である。無礼は差し置く。今この瞬間に礼儀礼節などなんの役にも立たない。
「人間だよ。だってほら、お姉ちゃんたちと同じ形をしてる」
そういう質問をしているのではない。形而の話ではない。
「人間だよ。私は人間」
言い聞かせるように樹は言う。誰に言い聞かせているのかは判然としない。
「人間は――猫を殺したりしないよ」
「するよ。ほら、保健所の人とかさ、犬も猫も殺すんでしょ?」
「それは違う。引き取り手がないからだよ」
なんて滑稽な言い訳だろうか。そんなもので人間の人間たる善性を主張出来るはずもない。
「同じだよ。死ぬという結果も殺されるという過程も同じなんだから」
「ちょっといい?」
乙香が挙手する。
「保健所は勝手に野良猫の処分をすることは出来ないよ。幾ら苦情が来ても、猫は飼い猫か野良猫かの区別がつかないからね。犬は飼育する際に登録が必要だけれど、猫にはそれが必要ない。猫は放し飼いをする人も多いし。全く、ガキの素朴な質問に狼狽えないでよ」
「ごめん……」
誰に対しての謝罪なのだろう。
「ふうん。じゃあ犬ならいい? 虫はどうかな? 植物は?」
屁理屈だ。
否、そうでもないのかもしれない。大体にして、乙香の返答だって的を射ているとは言えない。樹は人が生き物を殺すことに対する非難に疑問を持っているのだ。
「夕子、真面目に考えちゃ駄目だよ? 樹ちゃんは何を言ったって自分の殺害行為を正当化しようとするんだから」
確かにそうなのかも知れない。それは昨日考えた。向こう側にいる人間に対して、自分たちは成す術がない。
「あはっ。乙香お姉ちゃんは冷めてるなあ」
「事実でしょ? 私もそんな子供だったから判るよ」
なるほど。虫を殺す邪悪な子供だった乙香。何処か通ずるところはあるのかも知れない。
「やっぱり! 乙香お姉ちゃんは何かカッコいいと思ったんだよ! 変に堂々しててさ」
誰なのだろう。この子供は本当に杉川樹という名前なのだろうか。自分が認識していた、あのおどおどとしていた控えめの少女とは似ても似つかない。
確かに笑顔はあったが、こんなにも笑顔一辺倒ではなかったはずだ。
「ごめん。私、子供嫌いだから」
「私が子供に見えるんだね」
「子供にしか見えないね。小さい大人にも見えない」
全く二人の会話に入り込めない夕子。
「樹ちゃんは、一体何?」
仕様がなく、同じ質問を繰り返す。
「しつこいなあ。じゃあ夕子お姉ちゃんには私が何に見えるの?」
何に。夕子には樹が子供にも大人にも見えない。そもそもが人間にすら見えない。
言うなれば——
「お化け……」
「あはっ。失礼だなあ。でも、そうだなあ、半分くらいは当たってたりして」
これは揺さぶりだろうか。半分は当たっているなんて言葉は当てにするには心許ない。ほとんど適当に言っていると見るべきだ。
「樹ちゃん――」
乙香が続けて流暢に言う。
「樹ちゃんはサンタクロースって知ってる?」
「知ってるよー。クリスマスイブの夜、子供にプレゼントをくれる白髭の好々爺。聖ニコラウスの伝説を起源に持っていて、国によって容姿や伝説も様々。ドイツでは双子って設定もあるんでしょ?」
樹はぺらぺらと言葉を並び立てる。
夕子は目眩がしてきた。
何故こんなにも詳しいのか。昨日の反応は演技だったのか。否、そうだ。当たり前だ。これまでの彼女の振る舞いを見ればそれくらいは判る。認めるべきだ。彼女は無垢ではない。
「なんで、嘘を吐いたの?」
「ん? 昨日のアレ? あれはねえ、便利なんだよ。無知な子供を装えば皆優しくしてくれるでしょ? 乙香お姉ちゃんみたいな人もいるけどさ、でもそういう人は稀だよ。クラスでもそうだよ。目立つよりは奥に引っ込んでいた方が安全」
乙香が、そういうところが化物染みてるって言われてるんだよと抑揚のない声で言った。
そうだ。子供らしからぬ立ち振る舞い。それがどうにも不気味で彼女をこの世から乖離させる。
「お兄さんに対してもそんな感じなの?」
乙香が訊く。
「こんな感じだねえ。でもお兄ちゃんは臆病だから気付いてはいるんじゃないかな。言わないだけで」
「ご両親は?」
「お父さんのことは知らない。全然私に興味なさそうだもんね。お母さんは死んじゃったからいない」
あっけらかんと言ってのける樹。我慢しているとかそういうこともなさそうに、悲しさの欠片も見せない。
「お兄ちゃんもどっちつかずでさ、私とお父さんの間を行ったり来たり。全く、あんな優柔不断な兄を持つと苦労するよ」
「そんなこと言っちゃ駄目だよ……兄妹なんだから仲良くしないと」
「兄妹は仲がいいものなの? そうは思えないなあ。周りを見てみなよ。兄弟仲ってのは悪くて当たり前みたいな感じだよ。弟や妹がいれば生意気だと思うし、兄や姉がいれば目の上のたんこぶとしか思えない。そんな人ばっかだよ」
そうなのだろうか。夕子は、姉たちを慕っているし弟は可愛いと思っている。しかしそれは夕子個人の認識によるものなのか。
だとするならば自分の考えの何と浅はかなことだろうと今更ながらに考える。雪乃に兄弟が出来れば少しは現状を改善出来るなどと。浅薄が過ぎる。何事も環境次第なのだ。人間がそこにいるだけでは何の解決にもならない。
「ま、別に嫌いではないんだけどね。お兄ちゃんは優しいし。世界で一番のお兄ちゃんと言ってもいいくらい」
樹の言葉に少し安心する夕子。しかし乙香がそれを砕くようなことを言う。
「世界で一番使えるお兄ちゃん、でしょ?」
「嫌な言い方だなあ。でも確かに使えるねー。お兄ちゃんのおかげで私は独りぼっちを免れているんだからさ」
「それは独りぼっちなのと変わらないよ? ぬいぐるみを相手にしているようなものだね。樹ちゃん、お兄さんが愛想を尽かしたら一発で独りぼっちじゃない」
乙香は忌憚なく呟く。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんが私に愛想を尽かしたら、それであの家庭は終わりだもの。私はお父さんの溺愛する猫ちゃんをぶっ殺しちゃうだろうし。そうしたらお父さんは凄く怒って、私たちをどうにかしちゃうかも。お兄ちゃんはそれが嫌だから私に愛想は尽かさない。ま、私はどっちでもいいけど。いや、もう不毛はやめて、いっそのこと終わっちゃえばいいのかもね」
アハハと笑う樹。なるほど、猫を殺すのはそういうことか。代償行為。樹は猫殺しで破滅願望を表現している。
破滅願望。それが確かにあるのなら、樹は家を毛嫌いしているのかもしれない。
「樹ちゃんは、家にいるのが嫌なんだね」
夕子は訊く。
「嫌に決まってるよ。あんなクソっ垂れた家庭が好きだなんて言うヤツの方が異常だよ。私が落ち着ける場所はトイレだけ。部屋は鍵がないから居場所として不安定。お風呂はお兄ちゃんと一緒に入るから一人にはなれない。あんな家、さっさと出て行きたいよ。でもこれでも子供だからね。出て行くなんて出来ないでしょ?」
どんどん表現が露骨になっていく樹。まるで乙香のようである。
ともあれ、トイレに対する思い入れというものが樹にはあるらしい。安心出来る場所という思い入れか。宵太もなかなか鋭いなと気散じたことを考える夕子。
「ねえねえ、私にも質問させてよ。さっきから訊かれてばっかりだよ」
「どうぞ」
「わーい。じゃあえっとねー、高校ってどんなところ? 私きっと高校なんて行けないから、ちょっと気になってるんだよね」
悲観的だ。しかしそれは仕方のないことかも知れなかった。彼女は悲観的にならざるを得ない環境にいるのだから。
「別に、小学校と変わらないよ。授業を受けて帰るだけ。ああ、部活動とかいうのもあるけれど、まあそれは中学で体験することだから」
乙香が無感動に応える。夕子は言葉を見つけられず黙るしかない。
「部活動って面白い?」
「さあ? 私は入ったことないから判んない。どうなの夕子。楽しい?」
「た、楽しいけど……」
急に話を振られて戸惑う。
「へえ。そっか。夕子お姉ちゃんは軽音楽部なんだもんね。ロックだねえ」
楽しそうに話してはいるが、樹のバッグの中には猫の死骸が入っているのだ。それを考えると普通の会話などとても出来ない。
それでもこの二人は普通に振る舞っている。異常だと思った。否、乙香は何時も通りだ。彼女はどんな状況でも狼狽えない。それはそれで異常だとは思うけれど、狼狽している乙香の方が想像し難い。
しかし、死を携えているこの少女はどうだろう。辛いことなど一切ないのだと言わんばかりの無邪気さ。天真爛漫さ。異常だと思う。異端ではなく、確かに異常だと思う。
「高校かあ。行ってみたかったなあ」
「行けるよ。私でも行けたんだから」
何の慰めにもならないような言葉が口から溢れた。
「アハハ。夕子お姉ちゃんは優しいねえ。いや、甘いのかな?」
「夕子は甘々だよ。基本的に考えなしだから。でもそこがいいところでもある」
言われたい放題の夕子。しかし、乙香がフォローを入れてくれるのは少し嬉しかった。
「ふうん。ま、何でもいいか。じゃあ私はそろそろ帰るね。遅くなるとお兄ちゃんが心配するから」
「うん。そろそろ夕子も限界みたいだから、消えてくれると凄く助かる。それから、今後絶対に夕子には近付かないでね? 顔も見せちゃ駄目。それだけでこの子は参っちゃうから」
「善処するよ」
言って樹は去っていった。
「あー疲れた。肩がガタガタだよ」
乙香が伸びをする。
ほとんど何も言えないままに、会話が終わってしまった。
「夕子、ほら、戻ってきて」
夕子に近付き、頬をぺたぺたと叩く乙香。
「痛い痛い!」
思いの外強めに叩かれた。
「あんなガキの言うことを真に受けちゃ駄目だよ?」
「う、うん。でも——」
「でもじゃないよ」
何かを言おうとした夕子を乙香は遮る。
「あんな救いようのない人を救う必要なんてないんだよ。私たちにはそれが出来ない。判るでしょ?」
その通りかも知れない。どうしたって自分には助けることが出来ない。責任を持てない。
夕子は、判ったと返した。
しかし、確認はしておこうと質問する。
「最近五橋の辺りで見つかってる猫の死体ってさ」
「樹ちゃんがやってるんだろうね。それから、昨日見つけた獣の骨も樹ちゃんの仕業」
「警察とかに行った方がいいのかな?」
どうなのだろう。その辺は勝手が判らないだけに億劫である。
「行かなくていいよ。だって証拠なんて何もないし、私たちが何を言ったって信じてもらえるとは思えないね。それどころか私たちの方が悪者にされちゃうよ。樹ちゃんには大人に守ってもらう為の演技もあるんだし。言うだけ損しかない。このまま本人が勝手に捕まってくれるのを待つしかないよ」
確かにそうだ。不利はこちらにある。自分に出来ることは、徹頭徹尾何もない。
夕子は暗澹と肩を落とした。
乙香の言う通りだった。樹は邪悪で、無垢の皮を被っているだけの化物だった。
トイレの花子さん。猫が好きなのは花子さんではなく、樹だったというわけだ。否、好きではないのか。むしろ嫌いなのかも知れない。家庭環境は判然としないが、恐らく樹の父親は育児を放棄している。父親は自分に興味を示さないと樹自身も言っていた。そして父親は猫に執心しているのだと。
それならば猫に憎悪を抱いていてもおかしくはない。
しかし何にしても、自分に出来ることはない。親に話せば対策を練ってくれるだろうか。その選択肢も考えておいた方がいいかもしれない。
「それにしても、猫をお供えか。随分子供染みてるね。ま、子供だから仕方がないか」
乙香が呟く。
「猫をお供え?」
「いや、樹ちゃんはきっとトイレの花子さんと太郎くんに猫をあげてるんじゃないかなと思って。だから骨もトイレの前に置いてあったんだろうし」
「ああ、なるほどね。猫を食べるんだっけか」
と言ってから気付く。
そうだ。食べるならば骨であるのはおかしい。肉がなければ食べるも何もない。
乙香にそれを伝える。
「自分で削ぎ落したんじゃない? お供えして、しばらくしたら戻ってきて、肉を捌く。これで花子さんと太郎くんが食べてくれたってことを表現する。そうやって演出しながら愉しんでたんだよ」
それはまた異常だ。
「でも子供がそんなこと出来る? あの骨、ほとんど肉を残してなかったように見えたんだけど」
「うん。肉は全然付いてなかったよ」
「でしょ? 子供がそんな器用に肉だけ削ぎ落すなんて……それに内臓も処理しなきゃならないし」
「家でやってたんじゃない? まあそれはそれで現実的とは言い難いけど」
そうでなければ外でやっていると見るのが正統か。しかしそれならば刃物を常備する必要が出てくる。となるとまた一層に異常だ。
否、違う。刃物を持っているなら刃物で殺せばいいのだ。樹は首を折っていた。
「刃物なんて危な過ぎるしなあ……」
「刃物?」
乙香に刃物を持ち歩いている可能性を話す。
「それはあるのかもね」
「どうして? 自分で言っておいてなんだけど、刃物を持ってるなら刃物で殺せばいいんじゃない? 樹ちゃんは首を折って殺していたんだよ?」
「刃物で殺したら血が付いちゃうでしょ。それは歩き回るうえで頂けない」
「ああそっか。いや、ちょっと待って。それなら外で捌いたっていうのも怪しくなってくるよ。だって捌くときに結局血が出るもの」
「着替えを用意してたんじゃない? 捕まえるときは場所を選べないけれど、捌くときには人目のない場所を選べる」
確かにそれなら筋は通るのか。
しかし——
「用意周到だなあ……」
「あの樹ちゃんだよ? やりかねないよ」
それはそれで納得出来る。樹ならやりかねない。
「何にしても、こんな所で話していても何にもならないよ。とりあえず、樹ちゃんは猫を殺してお供えした後、自分で何処か人目につかない場所で捌いてたってことにしておこうよ」
何処か得心行かないが、それ以上の答えは見つかりそうになかった。
夕子が溜息を吐いて一息入れると、乙香が、ご飯食べに行こと誘ってきた。どんなときでも平常心。流石だった。気分転換も兼ねて夕子は乙香の誘いを受けた。
*
夕子は気を落としていた。気分転換に乙香と食事をとったものの、一人になるとどうも樹の顔を思い出して暗澹としてしまう。
一人住宅街を歩き、顎をあげて先を見る。
暗い。すぐそこの丁字路を曲がれば、杉川家、世咲家と続き、そうして墓村家に到着する。
夕子は歩みを早めた。
早く帰りたい。暗い夜道を一人で歩くのは恐ろしかった。
丁字路を曲がる。すぐそこに杉川家見える。家は暗かった。あんな事実を知ってしまったからそう見えるのだろうか。
そうして世咲家。少し明るい。縁側にある犬小屋の中にはシベリアンハスキーがその身を埋めている。あれが雪乃の新しい家族か。安心したような寂しいような気がした。
世咲家を過ぎ、自宅へと到着した。
鍵を開け中へ入る。
「ただいまー」
「おお、夕子。お帰り」
朝子が迎えてくれた。
「なんだ、浮かない顔じゃないか。何かあったか?」
「い、いや別に」
言いながら靴を脱ぎリビングへ行く。
「おお、お帰り夕子」
父が帰っていた。机の上に模型のパーツを広げて何やら作業をしている。
「ただいまお父さん。ひるまちゃんとお母さんは?」
宵太は勉強だろうから置いておく。
「お母さんは台所。ひるまちゃんは上でゲームやってる」
「で、お父さんは?」
「ガンダム!」
父の趣味は模型作りである。ロボットアニメの模型が特に好みらしい。
夕子は、そっかと返してソファに腰を下ろした。続いて朝子もかける。
「顔が疲れているな。悩みがあるなら話を聞こうじゃないか!」
「大丈夫だよ。大したことじゃないんだ」
否、事に依っては大事なのだが、どうも遠慮してしまう。
「事に依っては大事だけれど何だか遠慮をしてしまう、というような顔をしているぞ」
「的確過ぎる!」
見抜かれているならば仕方がない。夕子は昨日から今日にかけての一連の出来事を朝子に話して聞かせた。
朝子はうんうんと話の腰を折らずに聞いてくれていた。少し離れたところにいる父は何の反応も示さず、模型作りに集中している。
「なるほどな。それは確かに大事だ。育児放棄だろう? それは不味いな。何処の子なんだ?」
「すぐそこだよ。雪ちゃん家のとなり」
「雪乃の家の隣。はあ……それは確かか?」
歯切れの悪くなる朝子。どうしたのだろう。
「確かだよ。昨日見送ったし」
「あの赤い屋根の家か?」
首を縦に振る。
すると朝子は一層神妙な様子で言う。
「あのな夕子——」
「何?」
「あの家には誰も住んでいないよ」
耳を疑った。誰も住んでいないとは何だ。それはどういう事実を指すのだ。
ぐるぐると夕子の頭の中で疑問が回っている。
「え……でも私見たし、友達だって一緒に見たんだよ?」
「ううん。奇妙だな。父さん、私がここを離れてからあそこに入居した人はいるか?」
朝子が父に疑問を投げかける。
「いいや。あそこはずっと空き家だ。朝子、話してもいいぞ」
話してもいいとは何だろう。父は何かに気付いたのだろうか。
「ふむ。まあ、私もよく覚えていないのだがな。夕子、あの家はな、昔一家心中があった場所なんだよ」
「え……」
「私が四つの時分。夕子は一歳、宵くんはまだ生まれて間もない頃だ。だから記憶も曖昧なのだが、確かに周りの大人たちが慌てていたのは印象深く残っているよ。父親に当時小学六年生の長男、それから小学三年生の長女。三人があの家で惨殺されていた。いや、惨殺されたのは子供二人で、父親は自殺だったらしい。聞いた話だがね」
三人家族。小学六年生の長男に小学三年生の長女。当てはまる。樹は三年生でその兄は六年生。
どういうことだ。これは何を意味する。
「あの話はこの辺ではタブーなんだよ」
父親が模型を弄りながら答える。
「あの家の子供は明らかに育児放棄されててな。しかしちゃんと飯は食っているようだったし、虐待があったわけじゃあなかった。だから然るべき機関へ通報しても、あまり効果がなかったんだな。そんで——突然だよ。ある日突然事が起こった。皆唖然としてな。以来、当時この辺りに住んでた人間は、子供を救えなかったことを恥部として認識し、語るのを憚るようになったんだ」
育児放棄。符合があり過ぎる。当然朝子と父の方だって困惑しているだろう。まさか今になってこんな話を持ち込まれるとは思ってなかっただろうから。
夕子はソファから立ち、自室へと移動する。朝子が何か言ったがよく聞こえなかった。
自室へ入ると、パソコンを起動する。
もしかしたら当時のアーカイブが残っているかもしれない。
夕子は検索エンジンで思いつく限り検索をかけてみた。
検索を始めて数分。それは見つかった。日本の事件を扱っている個人サイトに載っていた。家の画像も掲載されている。
スクロールバーを下へとスクロールしていくと、当時の新聞記事の画像と一緒に、その記事に掲載されていた文章を綴った場所に辿り着いた。
そこには確かに書いてあった。杉川直、杉川樹の二名がトイレにて包丁で惨殺され、父親である杉川一が喉を刺して死亡していた。家からは首の骨を折られた猫の死骸も見つかったらしい。遺書は見つからず、しかし状況から警察はこれを一家心中と見たようだった。
打ちのめされる夕子。一体自分が会った杉川樹とは誰だったのか。幽霊だったのか。否、認め難い。認め難いがそれでも確かに昨日、樹はあの家へ入って行った。
それに樹のあの言葉。
——高校かあ。行ってみたかったな
それは家庭環境に憂えたことよって紡がれた言葉だとばかり思っていたが、今となってはもう一つの可能性を考えざるを得ない。
つまり、死んでいるから行けない。随分前に死んでしまったから行けなかった。
行ってみたかった、とはそういう意味ではないか。
「そんな馬鹿な……」
否定したい。否定したいが事実はすぐ目の前にある。杉川樹の名が確かにそこにある。
頭を抱える夕子。
何が現実で何が幻影なのか。
唸っていると、朝子が夕子に呼びかけながら部屋へと入ってきた。
「朝姉……」
「あったようだな。どれ」
朝子はモニタを覗き込む。そしてなるほどと頷いた。
「確かに樹という名があるな。名字も一致しているし、家族構成も確かに三人家族。なるほど。夕子が出会ったのは幽霊か」
あっさりと朝子は言う。何故そう簡単に受け入れることが出来るのだろう。幽霊などいるはずがない。
「幽霊なんて……」
「幽霊とはいるいない或いは見える見えないではない。出逢うか否かだ。とはオカルト研究部で部長を勤めていた私の先輩にあたる人物の言葉だ。名を女ノ都峰千という。変わった名前だろう?」
確かに変わった名前だ。
「お坊さんの息子?」
「いや、警察官の息子だ」
なるほど。否、そうではない。
確かに峰千なる人物の言葉は、言葉遊びとして納得してしまいそうになるが、幽霊の実在を示すものではない。
夕子はそう反論した。
「確かにそうだ。実在は証明出来ない。しかし同時に不在も証明することも出来ないんだよ」
「でも、もしかしたら何処かの悪ガキがこの事件を知って、私たちをからかっただけかもよ?」
それは現実逃避とも言える考えだ。しかし言わずにはいられない。
「あの家に、彼女が入って行くのを夕子とその友人が見ているのにか? 鍵は管理会社が管理しているから、扉は開かないぞ」
そうだ。確かに夕子と乙香、そして光太郎は樹が家に入るのを見ている。当然鍵はかかっていたはずだ。樹は鍵を開けただろうか。否、そこは問題ではない。あの家に入ることが出来たという事実が既にあり得ないのだ。
「幽霊の実在も不在も証明は出来ない。だからいるいないの問題ではない。そして見えたところで幽霊かどうかその場で判別するのは難しい。枯れ尾花なのかもしれないからな。だから幽霊は出逢うもので、それ以上でも以下でもないんだ。夕子は幽霊に出逢った。事実だよ。間違いなくね」
朝子は言う。
どうなのだろう。夕子は得心が行かない。行かないが、そういうことで納得するしかないのかも知れない。
夕子はそうかもねと朝子に返す。
そして、後でオカルト研究部現部長にも相談してみようと思った。彼だって伊達に部長ではないのだ。何か言葉をくれるかも知れない。
夕子は一息吐き――ひるまちゃんとゲームしてくると言って部屋を出た。
朝子が、私もやろうと言ってついてくる。
ひるまの部屋に向かいながら、この話はきっと自分が語ってやると夕子は思った。意地だった。何なら本当にあった怖い話として持ちネタにする程の覚悟がある。
悔しかったのだ。化かされたままというのが。得心が行かない原因はそこにある。化かされたままは悔しい。だからせめてもの抵抗として語ってやるのだ。
夕子は決意して姉の部屋の扉を開けた。
消し忘れた自室のパソコンは夕子が戻るまで真実を映し続けていた。




