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何故踊る3

 頭の隅にまだ眠気の残っている雪乃は眠気覚ましに散歩に出ることにした。

 時刻は午前十一時。寝覚めの悪い雪乃にとってはまだ眠い時間帯だ。

 靴を履き、扉を開け、祖母に行ってきますと告げると、祖母の行ってらっしゃいという声が返ってくる。

 日常だ。何でもない普通の時間。この時間は帰郷するまで続くだろうか。

 続かないだろう。

 確信があった。この家を取り巻いている不思議な空気は雪乃をただでは帰すまい。とは言えそれも悪くはないと雪乃は思う。オカルト研究部の性だろうか。奇妙な噂話と性格が入れ替わった従兄妹。こんな面白そうな話はない。

 正直に言えば期待感に胸が膨らむ。

 栃木くんだりまで来て部活動に勤しむことになろうとは予想していなかったので前日こそ辟易していた雪乃だったが、疲れがとれたとなれば、この奇天烈な話にも多少の興味が湧こうというものだ。

 調べるにあたって、雪乃は菜砂に話を聴くことに決めた。

 どういう意図があるのかは判らないが、菜砂は性格が入れ替わったことについて話したがっていた。ならば菜砂に話を聴くのがよい選択だと雪乃は考える。

 菜砂は何処だろうか。家には居ないようだ。

 祖母に聞いてみようかと考え、潜った玄関を潜り直す。

「おばあちゃん、菜砂ちゃんが何処に行ったか知りませんか?」

「菜砂ちゃんなら神社の方にいるんじゃないかい? 予定の無い日はいつもあそこに居るみたいだから」

 雪乃はありがとうございますと礼を言うと神社を目指す。

 神社は家から近い。時間はかからないだろう。そういえば、あの神社は何を祀っているのだろうか。昔何回か足を運んだことはあるが詳しいことは何も知らない。夏祭りを行っているところも見たことがない。

 その辺りも含めて菜砂に聞いてみようと雪乃は思った。

 ジリジリと照りつける太陽が雪乃の髪を痛めつける。こんなに暑いならば帽子でも被ってくればよかったと雪乃は後悔した。今の雪乃に出来る対処と言えば木陰に入ることくらいだ。田んぼを抜け、雑木林に入ると日差しが遮られる。少し気温が下がったように感じた。

 雑木林を奥へと進むと鳥居が見えてきた。

 木々に囲まれた鳥居は荘厳な雰囲気を醸し出している。

 鳥居を潜るとすぐに拝殿が見えた。端に設置されているベンチに菜砂が座っているのに雪乃は気付く。

 神社という場所の影響だろうか、菜砂はなんとなく神憑って見える。

 近寄り難い。

 しかし近寄らなくてはならない。雪乃は菜砂を訪ねてここまで来たのだ。本人を前にしてそそくさと帰るわけにはいかない。

 ベンチに近づき声を掛ける。

「菜砂ちゃん、こんにちは」

 一時的とはいえ同じ屋根の下で生活している相手に改めて挨拶をするのも変な気持ちになる、と雪乃は少し調子を狂わせた。

「雪ちゃん……散歩? ここの場所、覚えてたんだ」

 菜砂は気にしていないようだ。

 それはそうだ。わざわざ気にするほどのことではない。しかし何でか気を遣ってしまう。

「ええ。けど散歩はついでです。菜砂ちゃんを捜していました」

「私を? なんで?」

 白々しいと雪乃は思う。

 畔明の変化について話を振ってきたのは菜砂の方だ。雪乃がその続きを聴きに来たのだと菜砂は判っているはずなのだ。

 それにも関わらず菜砂はとぼけている。一体どういうつもりなのだろうか。

 答えるまでも無い質問に雪乃は沈黙を返す。

「昨日の話の続き?」

 訊かれるまでもない。

「そうです」

「そっか……そうだよね。私から持ちかけた話だもんね。けど、雪ちゃんの嫌いな話だよ。オカルトだよ。聞く人が聞けば与太話だと断ずるようなね。だからもういいの。わざわざ雪ちゃんに嫌な思いをさせる訳にはいかないよ。昨日はごめんね。せっかく仙台から遥々来てくれたのに……」

 そういえば、菜砂には雪乃がオカルト研究部に所属していることや怪談話に寛容になったことについて話していなかった。

「オカルト、というのはラテン語で『隠された』という意味の言葉を語源としているらしいです。今でこそ超自然的なものを指す言葉ですけれどね。まあ友人からの受け売りなんですけど、『隠された』っていうのは気の利いた訳だと思いませんか? 超自然的なものは胡散臭いと思います。けれど、『隠された』となると何だかワクワクします。菜砂ちゃん、昨日私は言いましたよ、私だって少しは変わったと。それは目に見えるものではなくて考え方なのだと」

 とりあえず言葉を並べてみる。嘘を排除し、正直な気持ちを出来るだけ聞こえのいい言葉で取り繕う。

「……」

 菜砂は黙する。

 何を考えているのだろうか。少し言葉を選びすぎただろうか。

 雪乃は内心緊張していた。

 菜砂はちらりと雪乃を見ると境内に目を移し、つらつらと話し始めた。

「この神社に祀られているのはヒルコ様。水、蛭、子って書いて水蛭子。水蛭子様と言えば流されて恵比寿様になったっていう伝承が有名だけど、ここに伝わる水蛭子様は恵比寿様になれなかったの。水蛭子様には手足が無いから、元気に走り回る子供達が羨ましくて、妬ましくて、誰彼構わず祟ったんだって。それを治める為に建てられたのがこの神社。でも、人は水蛭子様の言葉がわからなくて、水蛭子様が何を望んでいるのか判らなかったの。だから無理矢理本殿に閉じ込めちゃったっんだ。でも何でか夏になると水蛭子様はここから出て行って、閉じ込められた恨みを晴らすんだって。私たちの世代と私たちの親の世代にとってはただのお伽噺だけど、お婆ちゃんの世代の人はみんな信じてる」

 水蛭子。

 雪乃は一度オカルト研究部でその神の名を聞いたことがあった。流れ着いた場所で祀られ、商売繁盛、五穀豊穣の神になった手足のない蛭のような子供の神。

 しかしこの地域に伝わる水蛭子の伝承は一般的に語られている伝承とは大分違う。かなり不幸な顛末だ。それに栃木県には海が無い。海のない地方に水蛭子の伝承があるというのは何だか得心が行かない。

 後で竜二にでも聞いてみようか。

「へえ。世代の話が出るということはそれが公園の女の噂に依って隠された本物の噂、ということですか?」

 そうだよと菜砂は頷く。

「水蛭子様は水辺に出るって言われているから、子供達を出来るだけ田んぼに近づけないように、特定の場所を舞台に噂を作ったんじゃないかな」

 なるほど。わざわざ公園という場所を指定したのにはそういう意味があったのか。

 とは言うものの、それはあまりに突拍子がなさ過ぎやしないだろうか。

 突拍子もない話が今でも畏れられ、その孫や子供にまで継承される理由とはなんなのだろうか。

 そしてこの話が畔明と菜砂の変化にどう関わってくるのだろうか。

「兄さんはね、水蛭子様に祟られてしまったって言われてる」

 言われているということは本当は違うのだろうか。雪乃は首をひねる。

「実際に水蛭子様を見たんだよ。遠目にだけどね。私も見た。けど、私たちは水蛭子様に祟られた訳じゃないの。祟られたことにしたの」

 菜砂の言葉は何処までも遠回しだ。

「子供の浅知恵だと自分でも思うけど、私たちはそれに縋るしかなかったの」

 まだ話は掴めないが、二人が切迫していたということは伝わる。

 菜砂は息を吐き、続けて話し始める。

「私たちはお互いに愛し合っている。産まれた頃から今までずっと。いいえ、これからだってそう。けどね、周りは認めてくれないの。何故って、それは兄妹だから。この世界は兄妹同士は愛を育んではいけない決まりなの。だから私たちは水蛭子様を利用した。水蛭子様に兄さんを狂わせて。私がそれに合わせて壊れる。そうすればきっと周りも諦めてくれるでしょう?あの二人はオカシくなってしまった、だから何があっても仕方ないって」

 雪乃は絶句する。

 また選択肢を間違えてしまったかもしれないと落胆する。腹部が重くなる。

 菜砂は続ける。最早雪乃に向かって話している風ではない。独白のようだ。

「私のお腹の中には兄さんの赤ちゃんがいる。これも水蛭子様のお陰。お父さんもお母さんもお爺ちゃんもお婆ちゃんも皆、私たちのことを諦めてる。もうあの家族は壊れているの。私が壊したの。私と兄さんが」

 耳を塞いでしまいたいと思う。

 しかし聴きたいと言ったのは雪乃自身だ。逃げるわけにはいかない。

「後悔は——ないのですか?」

 今自分はどんな顔をしているのだろうと雪乃は思った。

「あるよ。正直後ろめたい気持ちだってある。けど幸せを享受している自分もいる。だから精神的には普通かな。後悔もあれば悦楽もある」

「そうですか。それが菜砂ちゃんが昨日私に話したかったことですね。では、なぜ家族ではない私にそれを話そうと思ったのですか?」

 当然の疑問だ。四年も顔を見せていない従妹など他人も同然だ。

 今の話は赤の他人に対してそう簡単に打ち明けられる内容ではなかった。

 だからこそ昨日の菜砂は話すのを躊躇ったのだろうが、一度でも話そうと決意したのは事実だ。

「はっきりとは判らない。けど雪ちゃんが家に来るって聞いた時は少し怖くなった。私たちの全部が雪ちゃんにはバレてしまうんじゃないかって思った。雪ちゃんて昔から嘘を見破るのがすごく得意だったじゃない? だから、後から糾弾される前に白状してしまおうと思ったんじゃないかな」

 これも雪乃が蒔いた種らしい。

 嘘を許さないという矜持が芽を出した結果だ。

「私、行くね」

 菜砂は立ち上がると、鳥居の方へ向かって歩き出す。

 まだ聴きたい事はあったが雪乃には止める気力が残っていない。喉がからからで声が出せない。

 しかしここで菜砂に何を言ったところでどうしようもない。

 既に壊れているものを修正することになど意味はないのだ。

 菜砂が見えなくなると雪乃は気を取り直し、携帯電話を取り出す。

 知るべきことはまだある。

 水蛭子は海の無い地域でも信仰されるものなのかということだ。中途半端は気持ちが悪い。毒を喰らわば皿まで。

 雪乃は半ば自棄になりながら掛け慣れた番号を呼び出し、携帯電話に耳をあてる。呼び出し音が五回ほど鳴ると、電話の向こうから怠そうな声が聞こえてくる。

「はい、荅川です。ただいま電話に出る事が出来ません。ピーという発信音の後にお名前とご要件をお話しください」

「嘘は嫌いです」

「嘘じゃねーよ……電話に出るのが億劫になるくらいには怠いんだよ」

 オカルト研究部の部長である荅川竜二はうんうんと唸りながら喋る。

「出てるじゃないですか」

「そりゃあ、オカルト研究部の紅一点である雪乃さんの電話をシカトする訳には行かないじゃないですかあ」

 竜二は飄々としている。

 この男はふざけなければ生きていけない人間なのだ。いちいち態度を気にする必要はない。

 雪乃は本題を切り出す。

「私、今部活動の最中なんです。それで竜二に二三訊きたいことがありまして」

「お前今栃木にいるんだろ? 少しは羽根伸ばせよ」

「こちらにも色々あるんですよ。訊きたいのはですね、水蛭子のことです。海のない土地に水蛭子の伝承というの伝わるものなのでしょうか?」

 竜二は電話の向こうで唸っている。

「水蛭子ねえ……そうだな、水蛭子には色々な伝説があるから、何処に伝わって何処で祀られていたとしてもおかしくはないんじゃねえの? 実際、お前の今いる、栃木県にも水蛭子を祀った神社があるしな。まあどっか別の場所から移転してきたって可能性もないじゃないが、海のない土地に水蛭子の伝説があっても不思議とは思わないな」

 どうやら、栃木県にも公式に水蛭子を祀っている神社はあるらしい。

「そうですか」

 雪乃は続けて神話の変遷に着いて質問する。

「では、その水蛭子の神話のオチが変わるということはあり得ますか?」

「普通にあり得るぜ。神話って結局人が作ったもんだからな。現地人が色んな意味付けをするんだ。環境に依って話が変わるってのは珍しい話じゃねえな。水蛭子の話も例に漏れねえ」

 意味付け。この地方の人間達は水蛭子の伝承に何を見たのだろうか。

「何でもあり、と言う訳ではないんですよね? 原因があって、伝承は完成する」

「そうだな。とは言え、結構自由だったりもするんだけどな」

 友人の言葉は歯切れが悪かったが、納得出来るだけの情報は得た。

「ありがとうございます。確認は以上です」

 否、待て。雪乃にはもう一つ気がかりなことがあった。今回の件とは関係ないことだが一応訊いておく事にする。

「すみません。最後にもう一つだけ。伝承とは関係ないのですが、竜二は白い案山子って見た事あります?」

「ハア? 案山子?」

「全身真っ白な案山子です。よく見えなかったんですけど畑の向こうに立ってたんですよ」

「案山子なんてそこら中に立ってるだろ。しかしまあ白い案山子ねえ……」

 竜二は何やら考え込んでいる。

「お前それさあ」

 なんだ。


「くねくねだったりしてな」

 くねくね。聞き慣れない単語が飛び出して来た。

「なんです? それ」

「あれ? 知らねえ? ある兄弟が田舎の祖父母の家に行って、田んぼでくねくね動く白い影を見つける。兄が双眼鏡を覗いて正体を確かめると、兄は頭がオカシくなっちまったって話。インターネットで流布した都市伝説だな」

 何だそれは。

 今諏訪家を取り巻いている状況にあまりに酷似しているではないか。

「もう少し詳しく教えて下さい」

「うーん。くねくねってのは正体不明なんだ。本当か嘘かわからない都市伝説っていうよりは怪談の類いなんだよな。つってもいろいろ考察はされてるみたいだぜ。ドッペルゲンガーだとか神様だとかな。単なる勘違いで、くねくねして見えたのは陽炎のせいで、兄がオカシくなっちまったのは熱中症の所為だって説もあったよ」

 ただの見間違いだと思っていた白い案山子、水蛭子の伝承とそれが隠された理由、くねくね。

 閃いた気がする。

 ここは一旦整理した方が良さそうだ。

 雪乃はありがとうございますと告げると竜二の応答を待たずに電話を切る。

 雪乃は逸る心を無理矢理落ち着け、頭を捻る。

 水蛭子の祟りとは、くねくねの考察の一つである熱中症説を使って考える事が出来る。

 水蛭子は何故か夏になると本殿から抜け出し、閉じ込められた恨みを晴らす、というのがこの地域で語られている伝承だ。

 水蛭子に祟られた際の症状というのは突然倒れて死んでしまうだとかそういった類いのものだろう。昔の人間は熱中症というものを知らなかったからそれを水蛭子の祟りと関連付けた。しかしそれだけでは畏れられ続ける理由としては少々弱い。

 そこでくねくねことあの白い案山子が出てくる。

 菜砂は、畔明と自分は水蛭子を「見た」と言っていた。

 そうだ。菜砂は語らなかったが、水蛭子は視認出来るものとして、その姿形が伝えられているのではないだろうか。白くてくねくね動く、案山子のような形をしていると。

 実際に誰でも目撃出来るものであるなら陽炎に揺らめく案山子であろうが、農業に勤しむ働き者の人間であろうが、水蛭子の姿を聴かされている者ならば信じてしまうかもしれない。

 そして公園の女の噂は、子供達の目を田んぼに向けさせない為に作られた。

 まだ隙はあるものの何となく掴めて来た。

 掴めた所でどうということはないのだが、少しは霧の晴れた気持ちになる。


 神社は蝉の声以外は何もない。

 雪乃は本殿を見る。

 今あそこに水蛭子はいない。否、何処にも水蛭子など存在しないのかもしれない。ここに祀られているのはイワシの頭なのかもしれない。皆が過剰に取り上げるから怪異が育つのだ。菜砂も言っていた。自分たちと自分たちの親の世代にとってはお伽噺であると。

 白い案山子を見た菜砂自身は信じているのかもしれないが、そんなものはどうとでも解釈出来る。

 この突拍子もない伝承は近いうちに消えるだろう。もしかしたら、公園の女の噂の方が一人歩きを始めるかもしれない。人が何を怖れるかに依って噂も世代を交代していく。


 しかし恐るべきは人の心だ。

 雪乃は菜砂と畔明のことを考える。

 二人は偶然水蛭子を発見したとき、それを利用しようと考えた。

 何故か。

 結ばれるためだ。恋仲として結ばれるため。悍ましい想いだ。家族を蔑ろにしてでも掴みたかったそれはどれだけ大切なものなのだろうか。

 雪乃には判らなかった。判ることができなかった。

 碌に恋愛の経験もない雪乃には判るはずもなかった。

 何時でも選択を間違える雪乃には判るはずもなかった。

 仮の妹を捨てた雪乃には判るはずもなかった。


 何も判らなかった。従兄妹の考える一切が雪乃には理解不能だった。

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