結婚
「信じられない。だって親子でしょ?」
「役の上だよ。八神聡はまだまだ若いし」
「だって、江森ユイカは二十歳だよ。八神聡ってもう……」
「たしか四十八」
「気持ち悪ーい。あたし『真珠』嫌いになっちゃった」
俳優の八神聡と江森ユイカが結婚した。世間はひどく動揺した。二人はその年の人気映画『真珠』で父娘役を演じていたからだ。
マスコミは冷たかった。八神聡の『真珠』で登りつめた人気は下り坂になり、アイドル女優だった江森ユイカは一種の奇妙な目で見られた。
二人は高層マンションの広い無機質な部屋に閉じ籠った。結婚してしばらく後、二人を見たものは無かった。
「ねえお父さん」
暗い部屋で革のソファによりかかり、ユイカが呟く。聡は薄い皺のある瞼を開いた。
「ユイカ」
声は低く、小さく、疲れきっている。
「何? お父さん」
ユイカの声は若々しく、弾んでいる。
「お父さんと呼ぶのはもう止めよう」
聡はユイカの目を見ずに言った。無精髭が脂に光る。彼は長い間風呂に入っていなかった。
「どうして?映画の撮影の時からずっとお父さんって呼んでるじゃない」
ユイカは若々しい素肌を輝かせながら無邪気に笑った。丸い目は黒々とした睫毛に囲まれ、唇はうねっている。体じゅうのどこもかしこも弾んでいるかのようだ。
「ユイカ」
聡は目を閉じた。疲れてしまった。もう、駄目だ。
「私、お父さんのことをお父さんって呼ぶ。その方が好き」
彼女はソファに寝転んだ聡の首を抱いた。楽しそうに笑って、何の心配もないかのように。
聡は深い溜め息をついた。ユイカは媚を含んだ声をあげる。
「お父さん、またやろう。あれ」
「もういいよ」
「やる。やるったらやる。……『お父さん、お母さんはどこ?』」
ユイカの声が急に静かなトーンを帯びた。聡は皺のよった額を上げると、ユイカをチラリと見た。
俺は、この若い妻が怖い。毎日、毎日――。
「……『死んだ』」
ユイカの顔が青ざめる。だけどこれは演技だ。
「『何言ってるの?そんなわけないでしょ』」
「『死んだんだよ』」
聡の台詞は半分棒読みだ。毎日、毎日、この台詞を言わされている。あの映画に出てから。
「『お母さん、出て行ったの?』」
「『そうじゃない。言ってるだろう。死んだって』」
ユイカがしくしく泣き始める。聡はそれを夢見るような目で見る。
ユイカはどうしてこの台詞が好きなんだろう。彼女は生き生きと体を動かし、感情たっぷりに泣くのだ。
ユイカは映画のこの台詞に出会ってから、聡と離れたがらない。彼をお父さんと呼びたがる。彼女の甘えかたがあまりにも真剣で可愛らしくて、聡はとうとう彼女を妊娠させてしまった。
結婚して一月、今、ユイカの下腹部はうっすらと膨らんでいる。
ユイカは泣く。
「『死んだのね』」
聡は目を閉じたままユイカの体の甘い匂いをかぐ。
もう、駄目だ。
ユイカはどこか嬉しそうに泣く。
「『お母さん、死んだのね。私、お父さんと二人きりなのね』」
泣きながら、口の端が笑っている。聡は眠りの海に沈んでいく。
もう、駄目、だ。
「ニュース見た? 八神聡が自殺したって」
「知ってる。何でだろうね。結婚したばかりなのに」
「やっぱどっか変わってたんじゃない?娘役の子と結婚しちゃうし」
「そうかもね。ユイカはどうしてる?」
「テレビ見たら、泣いてたよ」
「やっぱそうか」
「うん。手で顔を隠して、『死んだのね』って泣いてた」
《了》