1-【社-会】
1 -【社-会】
――アスファルトが日光を強く照り返す8月。
朦朧とする意識の中、鼓膜を抜け脳に響くのは、夏を代表するあの虫の鳴く声。
歩く足は既に鉛のように重く、落とした肩の先に揺れるマイバッグには、今日の夕飯と明日一日分の飲食料が入っている。
「なんでこんな暑いんよ…」
ここへ来て10日目。
田舎で実家暮らしだった私は、いつもと変わらず何も起こらない日々に嫌気が刺し、わずかな貯金、大きな不安と期待を持ち、思い切って上京した。
「ただいまー…って、誰もおらんけど」
冷蔵庫前に買い物袋を置き、まず一目散に冷房を起動するためリビングへ。
「よし」
人生初の一人暮らしが始まって10日。
実家から自転車も持ってこれば良かったと、こっちへ来てから何度思ったか。
最寄りのスーパーは自宅から歩いて20分。
氷を入れておけばよかったと後悔しつつ、箱で買ったアイスを開封。
しかし案の定その楽しみは簡単に打ち砕かれた。
小分けにされたバニラアイスバーはどれも、半分は溶けてドロドロになっていた。
「…別にええし。後で食べたるから覚悟しいや」
アイスは冷凍庫へ、その他買った物は冷蔵庫へ放り込んだ私は、汗で濡れた不快な衣服を洗濯機へぶち込んだ。
「あー…涼しい」
下着姿で大胆にソファを独り占め。
これぞ一人暮らしの特権だ、とまた実感する。
「…バイト、どうしよ」
しばらく脱力しながら白い天井を見つめた後、私はエアコンの風で乾いた目を閉じた。
就活の内定が出てからの学生バイトを半年少しと、会社4ヶ月の給料。
趣味が無いまま貯めた貯金残高は…一気に出費が嵩んでそろそろ30万を切る手前。
「あ、洗濯機…回してない」
小さな机に置いたスマホの時計は、8月11日月曜の14時過ぎを表示しており、
ピコンッ
そこへ求人アプリからの通知も表示される。
「ガールズ…、またこういう系か」
――4月に就職した会社。
高校へ集められた求人票の中から、私は月給が良いからという理由が主でそこを選んだ。
通勤時間も自転車に乗れば、実家から10分程度で通いやすかった。
職場見学では、目の下のクマが印象的だった綺麗で華奢なお姉さんが「見てみたいところある?」って、優しく案内してくれたし、他の職場と違ってちゃんと楽しかった。
「…違う」
面接当日はその時のお姉さんが担当してくれて、嬉しいことに顔も覚えてくれていた。
面接自体もかなりゆるく、少しお喋りが弾んだくらいで印象良く終わった。
難無く私は、第一希望だったその会社に就職出来た。
「…あれ」
私は入社式を終えて、そのお姉さんこと…望月先輩と仲良くなった。
入社式の後では、大掛かりな歓迎会も行われた。
「望月先輩がいなかったらうち、…私、多分ここ選んでなかったですよマジで」
「いやっ、私の目に狂いは無かったね。実際良い子で良かったよほんとに」
先輩は入社3年目の24歳。
カシオレとイカゲソが好き。
雰囲気も仕草も少し抜けてる感じも、大人の女性って感じがして、
3年後に私がこうなれる自信はなかったが、私からすれば率直に憧れの存在だった。
「改めてこれからよろしくね、期待してる」
「…はいっ!私頑張ります!」
――でも先輩は、その日以降出社しなかった。
望月先輩は歓迎会の翌日から有給消化が始まり、4月末で退職したと、後で総務の人から聞いた。
「…ほな、望月ちゃんの後任としてよろしくー」
入社して2週間が経ち、基本的な業務をおおよそ教わった頃。
直属の上司は死んだ目で冷たく笑いながらそう私に言った。
「え、いやでも、私…まだ全然」
「大丈夫。俺もちゃんとフォローするからな」
1ヶ月経たずして、私は社会の理不尽さとその厳しさを目の当たりにした。
当然、入社して1ヶ月経たずの新人が、3年のキャリアを積んだ先輩の後任をこなせるわけがなく。
そして1ヶ月が経過した頃、唯一最後の希望だった上司も、ついに素が見え始めた。
「…俺言うたよね。これ、俺だけやなくてみんなに迷惑かかるんよ」
「…すいません」
「ちゃう。すいませんやなくて、すみませんや。学校で何学んできたんや」
「す、すみません!次は」
「次からはー、とかそういうのええから。はよ修正やってや。同じミスは許されへんからね」
同期の子は私の他に3人いたが、配属された部署が違い、あっち3人は仲良くやってる様で。
「…なんで私だけ」
思い描く社会人生活と現実。
そこには天と地程の差があり、救いようのないクソ上司と環境が原因で心身ともにズタズタだった私は、就職4ヶ月目をもって退職することを上司に知らせた。
「…ん、いやいや、仕事溜まってるで?ここで逃げたらこの先困るよ?そもそも常識的に」
「すいません、もう決めたんで」
人間は、皆で協力し合って助け合って生きていくものやと思ってた。
それに、学校で習ったことも違った。
…困ったら、迷わず先輩上司に相談する?
「…前提が、おかしいやん」
そして私は、4ヶ月目の7月末で退職した。
現実を目の当たりにした私は吹っ切れ「どうせ人生なんとかなるから楽しもう」と、親の反対をなんとかねじ伏せ、その勢いのまま実家を飛び出した。
8月から私は、東京の安すぎないアパートの一室へと引っ越したのだった。
もちろん、東京に知り合いがいるわけでも、働く宛があるわけでもない。
東京へ来たのも過去に2回ほど。なので都会の雰囲気に慣れているわけでもない。
「時給良すぎても怪しいし…」
冷房が効き始めた室内は、火照った肌から徐々に熱を奪い、それは同時に一切の行動力も奪う。
ソファにだらけて横になった私は、家の近所という条件でバイトの求人を探していた。
…時給2200円。
夜のお仕事、受付するだけの簡単業務!って、怪しすぎて笑えてくるわ。
私は検索条件を通勤時間30分以内で設定し、スワイプを繰り返した。
そして私は、その中でとある求人を発見する。
「おー、ここ…宮ノ平から電車1本や」
―――――――――――――
ー誰でも出来る超簡単軽作業のアルバイトー
【給料】
・時給1500円+α (出来高により上乗せ)
【場所】
・青梅線御嶽駅 から 徒歩7分の事務所
【業務内容】
・先輩や仲間とチームで現場へ向かい軽作業
・荷物の運搬、備品の管理、検品
【ポイント!】
・初めてでも大丈夫!経験豊富な先輩があなたをしっかりサポートします!
・高時給なので主婦さんや学生さんでもスキマ時間でがっつり稼げる!
・出来高制なので頑張った分だけ評価されます!
・残業は月1時間以内!残業代は1分単位で支給されます!
連絡先 …
―――――――――――
見つけたのは飽きるほど見た同じような広告。
前向きに書かれた文章。
広告の作成者が何か企んでいるのを隠しきれていないように見える。
「…怪しいと言えば怪しいけど、好き嫌いしてたら何も進まんし」
ふと頭を過ぎるのは数ヶ月前に聞いた、クソ上司の嫌味。
当時は耳を左から右へと流れたはずなのに。
(ここで逃げたらこの先困るよ?)
よく言う、いじめた側は覚えてないけど、いじめられた側は一生覚えているというような状態。
思い返せばあの時、横腹と溝落に蹴りでもいれておけば…と思った。
けど、何言ってももう仕方がない。
でももうあいつに会わなくていい。
先輩にも…もう、会えないけど。
「行ってみんと、わからんからね」
そして私は、記載されていた電話番号に電話を繋いだ――。
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