第百二十七話 父親篇――その一
ジャクソンが、やっと絞り出せた言葉は、ただその名前の復唱にしかならなかった。
「……カリス?」
すると、アルバートは目を丸くし、ジャクソンから身を離した。そして、高らかに声をあげて笑った。
「あっははははは、やっだぁ〜! あんた、自分の父親の名前も知らないのねぇ? そりゃあそうだわ。そうじゃなかったら、ジャクソンなんて安易な名前つけないもの!」
ジャクソンの背後で会話の一部始終を聞いていた黒ローブの者たちがざわついている。耳を澄ますと、「ヴァンパイア様の……あの方のご子息ですって……」「まさか、昔、行方不明になったと……」など、訳知ったような囁きが聞こえる。
それから、突然ある者が我慢しきれずにこう叫んだ。
「やはり運命だっ!! 悪魔様のお導きだ! ヴァンパイア様がお戻りになられたのだ!!」
これを皮切りに、悪魔の礼拝堂は歓声に満たされた。低い雄叫びや金切り声が混ざり合って、ジャクソンやミカには、阿鼻叫喚という表現の方が正しいと思えた。
騒ぎの中、アルバートだけは落ち着き払い、余裕綽々といった態度で、そこら辺の椅子に足を組んで座った。
立ち尽くすジャクソンに、アルバートは自分勝手に話しかける。
「許してね。一般信徒にとっては、坊ちゃんのお父様ってヒーローなのよ。あたしたちの儀式には、どうしても若い女の血肉が必要で、それを調達してくるのが、カリスの役目だったの。若い女をどうにかするなんて、ヴァンパイアほど適した人材はないじゃない? 彼がいる間、あたしたちが儀式の贄に困ったことはなかった。だから彼は地下のヒーローになったし……表舞台でも有名人になったわ。若い女を狙う殺人鬼切り裂きジャック。ジャックって、通り名だわよ。当たり前に、本名が別にあるの」
アルバートは大きな手で、先ほどの写真立てを弄ぶ。ペタペタと触っているかと思えば、時折、慈しむように、写真の中の男の頬を指先で撫でた。
「よく似てるわぁ……。あたしがカリスと出会った時はもうおかしくなった後だったけど、見た目は本当に良かったの。ま、そうじゃないと若い女を捕まえられないから、保たせるのに苦労したんだけど。ね、彼、ここから逃げた後どうなったの? ロンドンまで逃げたって情報はあったの。でも、街中探してもみつかんなかった」
アルバートは、膝に頬杖をついて、興味津々という様子でジャクソンに尋ねてくる。ジャクソンの頭は思いの外冷えていて、両手を縛る縄を見つめながら淡々と言った。
「ヴァンパイア仲間の家に転がり込んで僕を預けて、自分は廃ビルの物置部屋に閉じこもって自傷行為を繰り返して死んだ。親切な仲間が人間の血を持ってってやったけど、一滴も飲まなかった。家族のハートフルエピソードなんか無いよ。僕はあの人のこと、何かの怪物だと思ってたから」
幼いジャクソンは、日に日に衰弱していく金髪の老人のことを、自分の父親だとは理解していなかった。壁に頭をぶつけて血まみれになった姿から、恐ろしい化け物を誰かが捕まえて、部屋に閉じ込めているんだと思っていた。あれが父親だと理解できたのは、本人が死んだ後のことだ。ジャクソンという名前は、ヴァンパイア仲間が「彼の息子」という意味で呼んでいる名前だと、その時理解した。
あれだけイカれていたら、本名なんて誰にも伝えなかっただろう。誰も知らなくて当然だが、それにしても、父親の本名のことなんて、今まで考えてもみなかった。
父親の記憶を思い出すほどに、目の前にいる地下学会の祭司に対して沸々と怒りが込み上げてくる。別に、大切な父親を狂わせたからじゃない。父親を大切に思ったことなんてない。ジャクソンが地下学会を嫌う理由は、父親が嫌いだからなのだ。
ジャクソンは、手首からリードのように垂れ下がった縄をぐっと握りしめ、アルバートを睨みつけて言った。
「人を殺したら怪物になるんだ。なんでおかしくなるまで人殺しを続ける必要があったんだ! 父親があれだったおかけで、僕は天涯孤独だ! 僕は、地下学会なんかに協力しないから。親と同じだと思うなよ。僕は絶対に、怪物にはならないからな!」
いつのまにか静まりかえっていた礼拝堂に、ジャクソンの啖呵がこだました。
地下学会の者たちの間に、今度はどよめきが広がった。その間に、ジャクソンは手首を縛る縄を解こうと四苦八苦してみる。しかし、引っ張ってもすり抜けようとしても、やはり自力では解ける気配がなかった。
すると、すぐに、アルバートが立ち上がって、パンッと手を叩いた。
「あんたたち、落ち着きなさい。大丈夫、悪魔様は信者を裏切ったりしないわ。ここにいるヴァンパイア様はまだ若くて、混乱しているのよ。儀式を見て貰えば理解されるわ。そこに座らせてあげて」
黒ローブの一人が前に出てきて、おそるおそる言った。
「しかし、ヴァンパイア様と我々では、力の差が……」
アルバートは、ニコリと笑って言った。
「無いわよ、差なんて。威勢がいいだけで、縄も解けない。まだ子供のヴァンパイアなんだから」
アルバートがジャクソンを振り返る。
「ジャクソン!!」
試験管の中でミカが叫んだが、どうすることもできなかった。
「ブッ!!」
ジャクソンは、頬を打たれて祭壇の前に倒れ込んだ。アルバートは、振り返るや否や、ジャクソンが動く間も無く、その長い腕でジャクソンを張り倒したのだ。
「くそ……」
口の中が出血し、ジャクソンは上手く喋ることができない。
倒れたジャクソンの周りに、黒ローブの者たちが、更なる縄を持って集まってきた。
焦ったミカが精一杯の声を上げる。
「何すんだよ! お前! 祭司なんて嘘じゃないのか!? ほんとはボクサーとか格闘家なんじゃないのかよ! おい! ジャクソン! しっかりしろよ!」
試験管の中で白い光が暴れに暴れて、試験管を揺らしてカタカタと言い始めた。
アルバートが口を尖らせて、鬱陶しそうにミカを見ながら、部下に言う。
「ちょっと、ちゃんと手順通りに封じてんでしょうね」
「はい。中から容器を破ることはないと思いますが……」
黒ローブの一人がアルバートの問いかけに答える側で、別の者がジャクソンの腕を掴む。
「……っ、やめろ! 触るな!」
もちろん、ジャクソンもそんなに柔ではない。格闘家のような男に一度くらい殴られたところで、吸血鬼だ、気絶することはないし、動けなくなるわけでもない。黒ローブたちは、ジャクソンを引きずって、先ほどアルバートが指示した場所に連れて行こうとしていたが、ジャクソンは相手を蹴り付け、振り解き、抵抗し続けた。
「あら、まだ元気ね」
アルバートはそう言うと、サッカーボールをリフティングするかのように、ジャクソンの顎を蹴り上げ、倒れて露わになった腹を上からぐっと踏みつけた。
「グッ! ウオェ!」
腕でガードすることすら間に合わない。アルバートの暴力には全く躊躇いがなく、まさに日常動作のようだった。
顎から頭に衝撃が伝って、ついに動けなくなったジャクソンを見下ろし、アルバートは「あ〜あ」と、何故か呆れたようなため息をついた。
「ねえ、あんたって、カリスが自分で地下学会に入ったと思ってるの?」




