第百二十話 旅路篇
ミカが言うには、その「エリザベス」とかいう貴族の領地は、山地にあって寒く、雪が積もるらしい。「極夜の館」こと彼の家も、元はその領地の山の上に建つマナーハウスだったとか。
「山地なら北だね。スコットランドかな。雪は、今の季節なら無いか」
「あ、あ、でも、俺も行ったことないんだ。話に聞いただけで」
「行ったことあるなら君だって僕なんか頼らないでしょ」
ジャクソンは、ひたすら北に向けて車を走らせる。人口密度が桁違いなこの街では、深夜でも車の通行はゼロではない。しかし、さすがに歩道を歩く人影は見かけない。
影が落ちたような街を、小さな赤い車はポポポポと音を鳴らして通過していった。車内では、若い青年二人が並んでジッと前を見つめ、エンジンと一緒に震えている。
「長旅のところ悪いけど、助手席で寝ないでくれる? 僕一人だと、事故るかもしれない」
「怖くて寝られるかよ、運転初心者!」
ミカは、両腕に吸血コウモリたちを大切に抱きかかえてそう叫んだ。
一時間も走れば、空の下の方が白んでくる。早朝特有の冷たい匂いが二人の鼻をくすぐった。街が目覚め始める前に、赤い車は大都会を抜けて、麦畑が広がる農業地帯に入った。
広大な緑が道路の両サイドを挟んでいる。ここから先は景色の変化も少ない。時間の流れだって遅く感じる。
一時間も走れば運転の勝手もわかってきて、ジャクソンはふーーーう、と長い息を吐いた。それから、手持ち無沙汰であろうミカに話しかけてやる。
「ねえ、適当に北へ進んでいるけど、山地に入ったら、どこかの村か町で聞き込みしないと始まらないよね」
しかし、ミカからの返事はない。前方から視線を外すのは怖いが、おっかなびっくり、チラッと助手席を見ると、ミカは窓に張り付いて外の景色を熱心に見ていた。
――そんなに夢中になるものかな。
カントリーサイドの景色を眺めるのはジャクソンだって初めてだ。だが、そもそも「景色を楽しむ」とは、どうしたものかわからない。
「ただの景色じゃないか」
「え? なんか言った?」
ジャクソンの独り言に反応して、ようやくミカがジャクソンを振り向いた。しかし、ミカの瞳がキラキラしているのに気づけば、後回しでもいいような話に敢えて付き合わせる気にはならない。
「なんでもないよ」
「そう?」
ミカは再び、窓の外をわくわくと眺め始めた。
ひとまず、スコットランドの首都まで行ってみることになった。まっすぐ進んで十時間はかかる。ジャクソンとミカは途中の町で昼寝しながら、丸一日かけてたどり着いた。
午後五時頃、夕焼け空の下、ひとまずの目的地である公園の駐車場に車を停車して、ジャクソンは言った。
「ホテルを取れるほど財布の余裕は無いんだけど」
ミカは頷く。
「別にいいよ、車中泊で」
「じゃ、その辺で飯だけ買おう。ついでに、ここから先の地図もね。観光客向けの店なら置いてあるでしょ」
レンガ造りの重厚な建物が立ち並ぶ歴史ある古い町は、オレンジ色の光に照らされてノスタルジックに揺らめいている。遠目には小高い丘がある他、歩いている道にも傾斜があるが、足の鈍い疲労さえ、知らない町に来た感動に変わる。
買い物を終えてしばらく歩くと、街頭に面した建物の二階から、手頃な階段が歩道へ飛び出していた。ジャクソンとミカは、その階段をベンチがわりに地図を広げてみる。ミカは階段の中ほどに腰かけ、ジャクソンは階段には上らなかったが、ミカが座る段に肘をかけて立って地図を覗き見た。地図の隣には、二人分のフィッシュアンドチップスが袋を広げて置いてあり、ミカとジャクソンの右手には、それぞれオレンジジュースとストレートティーがある。
イギリス北方の地図を一覧して、ジャクソンが言った。
「アドラーなんて貴族は聞いたことが無いから、多分小さな山村だよ。有名な町は候補から外して、まずは、近い村から聞き込みしてみようか」
「何つって聞いて回るの?」
「「極夜の館」を知ってますか、とか?」
「それは〜無理じゃないかなぁ〜。極夜の館って、吸血鬼さんが付けた名前だから」
「え、自分たちで呼び名を付けたってこと? 自分たちの家に?」
ジャクソンは目を瞠る。
「やばいセンスだな。聞いた印象、地元の有名ホラースポットの通り名でしかないのに。ん?」
意外な事実を噛み締めたジャクソンの横で、突然、ミカが顔を青くして、片手で口を塞いだ。
「どうしたの? チップスが喉詰まった?」
「いや、これ言っても良かったのかなって……」
ミカの襟の中に潜んでいる吸血コウモリたちが、「タイムパラドックス!」とか言って騒いでいる。
「何それ。僕が君ん家の名前を知ったからって、どんな歴史が変わるっていうの。それより、聞き込みの仕方を工夫しないとね……はぐ」
眉間に皺を寄せて考えながら、ジャクソンは魚のフライを頬張った。オレンジジュースを煽ったミカは、元気にゴックンと喉を上下させてから言った。
「俺バカだし、虱潰しでも文句ねえよ。一人だったらそうしてたもん。それより、ジャクソンは生肉じゃなくてよかったの?」
「は? なんで生肉?」
「えだって、吸血鬼は血を感じる方がいいんじゃねえの?」
「はあ……。君の知ってる『成人済み』と一緒にしないで。僕は血を飲まない。食は人間と同じなの」
ジャクソンはツンケンした口調でそう答えたが、その実、よく聞かないとわからないほどわずかに尻すぼみで、顔も徐々に俯いていった。階段の上に居るミカには、ジャクソンの後ろめたさに歪んだ目元は見えなかっただろう。それでも、ミカの目はゆっくりと見開かれ、ついには不安そうに揺れた。
「でも、そのままじゃ、ジャクソンは大人に……」
「いいでしょ、こんな話は。僕は新しい世代のヴァンパイアなの。人間と同じ世界で生きていくって決めてるんだから」
ジャクソンがツンと鼻を高くしてそう言うと、ミカはそれ以上何も言わなかった。
と、その時、知らない声がジャクソンに話しかけてきた。
「坊や、そこに誰かいるのかい?」
「えっ?」
ジャクソンが声の方を振り返ると、通行人であろう、年老いた女性がそこに立っていた。ふわふわした白髪頭のその人は、古びた紫色のワンピースを着て首元にはスカーフを巻き、丸っこい背中を庇うように片腕を後ろに回している。
老婆はミカが座っているところにジッと目を凝らすと、はたと気づいて驚きの声を上げた。
「まあ! チップスが浮いてる!」
「はあ? あっ、しまった、君!」
「あ、そういや俺ゴーストなんだった!」
そうだ、ジャクソンはすっかり見慣れてしまっていたが、ミカの体は霊体で、普通の人間には見えない。ミカがジュースのカップとチップスを、手が透過することなく掴めているのは、一種のポルターガイスト現象を習得したからに他ならない。傍から見れば、ジャクソンは虚空に向かってぶつぶつ呟きながら道端で食事している孤独な若者だ。怪しいことこの上ない。
だが、慌てるジャクソンたちを他所に、老婆はコロコロと笑い声をあげた。
「いいのよ。何かが見える人は珍しくないわ。ここは妖精の国ですもの」
そう言うと、老婆はよっこいしょと階段の一番下に腰かけた。
「バスを待つのに、休みたかっただけなのよ。あなたたちの談笑を邪魔するつもりはなかったの」
「……はは、そうですか」
ジャクソンはどう反応していいかわからず、空笑いしつつミカと目を合わせた。ミカも自分の体を見下ろして微妙な顔をする。ミカは、幽体離脱した狼男だ。妖精とは程遠い。
二人の邪魔をするつもりは無いと言うが、老婆は元来喋り好きな様子で、街の往来を眺めつつジャクソンに話しかけてきた。
「町も人も変わってしまったわねえ。友達に会いに出て来たのだけど、知らない土地になったみたいだわ。何かが見える人に会ったのも、久々だし」
「昔は多かったの?」
「ええ。それを仕事にしている人も居たわ」
「へえ、仕事?」
「そう。大事なことを占ったり、病気を治したり……。でも、恐ろしいこともあったのよ。悪い人もいたの」
「悪い人か……嫌な話だね」
ジャクソンには、それに覚えがあった。老婆の言う「何かが見える人」とは、言い換えればオカルトに関わりがある人である。例えば黒魔術に携わるような闇の人々の存在を、ジャクソンはよく知っていた。
「たとえば、『地下』とか?」
老婆が振り向いて、信じられないというように目を瞠った。唇をわなわなと振るわせ、怖がっているのかと思いきや、しばらくしてジャクソンに憐れむような視線を向けてきた。
「……そう、知っているの。それは、大層苦労したのでしょうね」
さらに、老婆は階段に開げられた地図を一瞥して言った。
「坊や、これからどこかにいくの?」
「うん。スコットランドをドライブ旅行中なんだ」
「そうなの、そうなの……それなら、田舎の方には行かない方がいいわ。わたしの故郷の近くなんだけどね、昔、そういう人たちが沢山いて、潰れてしまった村があるの。間違って行くといけないわ」
「なんだって? それは、恐ろしいね」
ジャクソンが答えたその時、老婆の話を黙って聞いていたミカが、何かを閃いたように息を吸う音が聞こえた。
ジャクソンは、考えたくないような気持ちでミカを見る。希望を見出したような、絶望したようなミカの曇った瞳と目が合った。
ミカの考えていることはよく分かる。極夜の館は、怪物ばかりが住む家だ。「地下」と通じていると言われても頷くばかりだ。いやはや、朗報じゃないか。この狼男は、何を焦っているのだろう、家が見つかりそうだというのに。
「坊や」
虚空と見つめ合うジャクソンを前に、老婆は何を思ったか、やけに真剣な眼差しをした。
「坊やが何を見ても良いけれど、怪物とは関わっちゃいけないよ。怪物は、人を食うわ」
老婆の瞳がまん丸い。氷水に浸かったような感覚がジャクソンを襲った。緊張で感覚が鈍くなって、ミカの気配さえ感じ取れない。いや、ミカも老婆の警戒心を感じ取り、獣の癖で気配を消したのかもしれない。この奇妙な感覚のことを、ジャクソンは昔から、魂が肉体を拒否する時の感覚だと思ってきた。つまり、ジャクソンにとっては馴染みのものであるから、彼はすぐに内心を回復させて、老婆を安心させるように口元で笑顔を作った。
「うん。わかってるよおばあちゃん。ねえ、カバンのポケットから出てるの、汽車のチケット? 落ちそうだよ」
「ええ? あら、ほんとう? ありがとうね」
ジャクソンは冷静に、老婆のチケットを拾い上げた。




