第百九話 大浴場篇
図書室の正面にあたるドアを開けると、広々とした脱衣所に入る。中は薄暗く、カビの匂いが充満している。ミカが吸血鬼に続いて中に入ると、右手の壁に掛かる曇った鏡に、狼の横顔が映った。鏡像は辛うじて結ばれているが、ぼやけ、歪んでおり、ミカはお化けでも出たかと思ってビクリと肩を揺らし、すぐにその正体を知って自分で呆れてしまった。赤いスカーフで鼻を覆っている間抜けな見た目の狼と目が合う。ミカは、自分が狼男であることを自覚した後、鏡の中の顔が狼の顔に見えるようになっていた。狼が直立二足歩行しているようで、人間と狼の中間っぽさが可笑しい。前を行く吸血鬼の姿は鏡に映っておらず、ミカはなぜか彼を見直したような気分になった。彼は紛れもなく吸血鬼だが、いつもの生活感ある態度は正直、それらしくない。今はスウェット姿であるし、彼の本来の種族などすっかり忘れてしまいそうだったのだ。
吸血鬼は、ミカが壁かけの大鏡に近寄っていくのに気づいて、浴室のドアノブをひねる手を止めた。
「ミカ? 何かあったかい?」
「あ、なんもないっす。ただの興味で」
「ふうん、鏡かい。美しい私が見えるかな」
吸血鬼はそう言って、鏡を見ながら髪を撫でつけるふりをする。
「吸血鬼さんは映らないでしょ」
「そうだよ。だから私は鏡と縁がない。ひどいだろう? 私ってこんなに美しいのに、自分の顔を見たことがないんだよ」
「それでよく堂々と言えますよね? 私は美しいって」
「もちろん、他人に言われるからね」
「……ああ、そりゃ俺には想像つかねえ理由っすわ。大抵の人間にはそんな経験ないっすもん」
ミカが半目になって言うと、吸血鬼は心外だという風に眉をピクリと上げて、肩をすくめた。
「別にナルシストってわけじゃないぞ。私の顔を見た人間が軒並み褒めてくれるんだ、むしろ客観的事実に基づいてる。自分の顔を鏡で見て、自ら美しいと言ってる奴よりずっと誠実じゃないか」
「だから、わかりましたって。普通の人ならありえねえっすね、って言っただけっすよ。それより吸血鬼さん。この鏡の前には、椅子が一つしかないんすけど……もしかして、こんなデカい風呂のくせして、一度に一人しか入らねえ想定なんすかね」
「なるほど、他の椅子は仕舞われているのか。おそらく、主人専用の風呂ということなんだろう。脱衣所が広いのは、使用人が主人の身支度をしやすいためだ。二階のシャワールームは、使用人が寄ってたかって働くには狭いからな」
「あれで狭いってなるんすか。ほんと住む世界が違ぇなあ……」
さて、大浴場は掃除をしていないと言ったが、ずっと手を入れていないのは他でもない、ここが桁違いに汚いからだ。水気を含んだまま永年放置され、床面の大部分を占める広い浴槽には、カビだけではなく、コケらしきものまでへばりついている。さらには、浴室内のいたるところに、床を突き破って雑草が生えて鬱蒼としている。雑草のほとんどは枯れてしまっているが、まだ茶色い葉をそのまま残していて、とても室内とは思えない様子なのだ。住民全員が掃除を諦めてしまうのも無理はない。
その枯れたジャングルのような場所へ、吸血鬼とミカは互いに励まし合って入った。吸血鬼が持つLEDランタンで周囲を照らしてみる。浴室の壁も、他の場所と同様に茨に貫かれ、穴だらけになっているが、普段使っていない部屋なので修繕していない。しかし、直していないおかげで、こもったカビくさい空気が抜けてちょうどいい。
「うわあ……相変わらずっすね。なんで室内にこんな草が生えるのか……」
「湿っていて最悪の気分になる。だからスウェットを着て来たんだ」
「……え、最初からここに来る予定だったってことっすか!? 自分だけばっちり準備してさあ、それだったら言ってくださいよ、俺も汚れてもいい服に着替えてきたかった!」
「そんな服、持っているのかい?」
「ないっすね。あ痛っ! いや痛くないけど」
吸血鬼と言葉でじゃれ合いながら歩いていたミカは、軽く蹴躓いてつんのめった。何を蹴ったかと振り返って見れば、床のタイルが一部飛び出している。そうしてずれたタイルの隙間から、雑草が伸びてきているのだ。ミカは、ずれたタイルによってできた段差に躓いたらしい。
「あ~あ、見てください、吸血鬼さん。雑草のせいで床もボロボロっすよ」
「おや……ねえ、そのタイルの下ってどうなっているんだい?」
「タイルの下? えっと……」
ミカは促されるままに床タイルをめくり上げた。すると、その下には割れたセメントがあって、さらにそのセメントもはがすと、黒っぽい湿った土にたどり着いた。掘り返せば虫でも出て来そうだ。雑草は、この土から生えてきているらしい。畑のように整えられた土だと、ミカは土を少し触って思った。
「吸血鬼さん、地面っす。床のセメントが割れて、その下から雑草が生えてきてるんすよ。床が古くなってるから、風呂の水が浸み込んで、雑草が育って、床を割って出てきたとか」
「……」
吸血鬼は眉をひそめて、ミカの手の下にある土を見た。そして、怪訝そうにしながら、ゆっくりと首を横に振る。
「床を剥いでも、その下は建物の基礎だ。下の地面が直接出てくることはない」
「え? じゃあこれは?」
「さあ……」
吸血鬼は、荒れた浴室をぐるりと見回した。そのまま天井を見上げ、ふとあることに気づく。
「そうか。ここは昔、室内庭園のようなものだったのかもしれない」
「室内庭園? 何すか、それ?」
ひらめいた様子の吸血鬼は、すっきりした顔をミカに向ける。一方、首をひねるだけのミカは、吸血鬼の顔をきょとんとして見返すだけだ。




