第百五話 運動の習慣篇
ミカの日課は相変わらず、茨の森を駆け抜けることだ。ただ、以前は森の出口を目指して、木々の間を一直線に突き抜けていくだけであったのだが、最近はその前に一工程加わっている。それというのも、「全自動生物型伐採機」としての職務を全うする必要があるからだ。
朝起きてまず、館の住人たちは「本日の被害状況」を確認する。何の因果か、茨の森は毎夜毎夜に収縮し続けていて、接近してきた茨の枝が、屈強にも館の壁を貫いてくる。ベッドから起き上がろうとすると、ちょうど額の真上に茨のとげが、なんていうこともざらだ。そういうとき、ミカはかなりヒヤッとして、生命の危機を感じ、「ウィジャボードの幽霊」が茨の森に館を襲わせ続ける意図をまざまざと見せつけられたかのように思う――きっと、ウィジャボードの幽霊は、ミカたちが夜眠っている隙に、あわよくば茨で突いて殺そうとしているんだ……。ただ、伸び放題伸びた茨では、枝が壁を貫く位置をうまく調整できないから、今夜も運よく、なんとなく生き延びることができただけなんだ――と。しかし、早朝にどれだけビビろうが、ミカたちが恐怖に慌てふためき混乱し喧嘩の末、殺し合いに発展し……なんて、最悪なことになったことはない。徐々に人間らしい身体を取り戻すことで、精神的な大人らしさを発揮し始めたエリザベスや、クールぶった吸血鬼に限らず、ミカだって相当図太いもので、寝室の壁が壊されれば少なからず音や衝撃がするだろうに、一度ぐっすり眠れば夜中に目覚めたためしがない。
さて、こういうわけで、「今日はここに大穴が開いているな」「こっちの壁は毎日のようにボコボコにされているな」など、茨の枝に貫かれた壁の被害状況を把握した後、ミカは颯爽と館の外に出て、狼の姿に変身する。そうして露わにした大きな口と牙で、館の壁に突き刺さった茨の枝々を伐採していくのだ。それと同時に、館の中ではエリザベスが各所を回り、邪魔な枝が取り除かれたところから順に木板を打ち付けて修理していく。
ミカは、館を周回し終えてから、やっと茨の森の中へランニングに向かう。森の外を目指してまっすぐ走り抜けるが、しかし、館を出る条件らしき「人間になる」というのを達成していない今では、森の果てが現れることはないため、気が済んだあたりで引き返している。館に戻って玄関をバーンと開けた頃には、エリザベスも壁の修理を終えていて、みんな一緒に朝食を摂れることが多い。
しかし、本日の日課を終え、館に戻ってきたミカを玄関ホールで待ち受けていたのは、作業を終えて工具を運ぶエリザベスではなく、シャドーボクシングをする吸血鬼だった。
「……!?」
吸血鬼さんがシャドーボクシングしてる!?
シャドーボクシングと、吸血鬼。イメージは全く相容れない二つだが、事実、吸血鬼は何もない場所に向けて拳を突き出し続けている。最初、ミカは、吸血鬼がウィジャボードの幽霊と戦っているのかと思って周囲を警戒したが、どうやらそういうわけではない。
また、驚くべきところは彼の行動だけではなかった。吸血鬼といえば、いつだってお気に入りの装飾過多なタキシードを身に着けていて、家事・育児(ミカのことを我が子のように扱う)の間も上着を脱ぐ程度で済まして、常に気取ったホワイトシャツで居るのに、今といえば、ネズミ色のスウェット姿である。まさか、寝間着かと思ったが、ミカは彼がセクシーなガウンで棺桶に入ろうとしているのを見たことがある。では、あれは運動着か? まさかそんな服を持っていたとは、いやなぜ急に?
「ん? ああ、ミカ、帰ったのかい。また早くなってるな。うっかりストップウォッチを止めるのを忘れていたよ」
吸血鬼は階段の手すりにひっかけていたストップウォッチをピッと止めて、同じく手すりにかけていたタオルでふわふわと汗を拭った。ミカはもう、おっかなびっくり吸血鬼に近づいて、手で口元を覆いながら、その真意を問う。
「吸血鬼さん、急にそんな恰好でどうしたんすか……?」
「そんなに怯える必要はないだろう。ただ……壁を修理するレディの手伝いをしようと思ったら、非力な私では足手まといだと断られてね。そんなこと言われると、どうしてもこの細腕が気になってくるだろう?」
「それで、身体を鍛えようって?」
「ああ。君は君で毎日ランニングしているし、確かに私だけ運動不足だと思って」
依然、唖然としたままのミカの頭の中には、「見た目から入る人って、長続きしないんじゃない?」とか、「前に、『優雅な高等吸血鬼は汗をかかない』とか言ってた気がするけど?」とか、失礼だったり余計なお世話だったりする発言がポンポンと浮かんできていたが、結局、気遣いができる子なので、「ふうん、がんばって」とだけ言った。
「それで、エリザベスの姉さんはどこっすか? まだ作業中?」
「ああ。今は二階の方をやってるんじゃないか。ちなみに、彼女はいつも通りのペースだ。君の戻りが早かったんだぞ」
「森の木が、日に日にギュウギュウ詰めになってるから、奥に行こうにも行けないんすよ。だから、すぐに帰ってきちゃって」
「ふむ。やはり、森の収縮は止まらないか」
吸血鬼は、首にタオルをかけたまま、親指と人差し指を顎先に当ててそう呟く。彼の運動やる気まんまんの装備を眺めていると、ミカも、額や背中にびっしょりと流れる汗が気になってきて、一刻も早く拭いたくなってきた。
「じゃあ、俺、姉さんが終わるまで部屋に居るっすから。朝食の時間になったら呼んでください」
「あ、待ちたまえ」
階段を上がろうとしたミカの背中を、吸血鬼が軽く呼び止める。ミカが大人しく振り返れば、吸血鬼がふてぶてしくも腕組みをして立っていた。
「なんすか?」
「いや、これからの食事のことなんだが、もう食材がない」
「……はい?」
「だから、朝昼夜の食事を作る食材が、もう尽きたんだ」
ミカは、吸血鬼がシャドーボクシングしていることよりも、スウェットを着ていることよりも、茨の森が動いていることよりも、エリザベス嬢がどんどん人間化してきていることよりも、自分の正体が狼男だったことよりも……最近起きた他のどんな出来事よりも仰天して、顎をガーンと下に落として開いた大口から、今世で最大の大声を出した。
「ええええええええええええええ!!!???」
そう、これは吸血鬼のコウモリたちが亡くなって、新しい食料が手に入らなくなって一か月経った日のこと。「ウィジャボードの幽霊が館の住民を殺そうとしているらしい」と、全員で認識してから一か月経ち、幽霊による嫌がらせにもすっかり慣れ切った時点の出来事なのである。
「だが安心したまえ、私に考えがある。だからこの後少し、手伝ってほしいんだ」
衝撃を受けるミカを前にして、吸血鬼はのんきにもウインクしながら親指を立てて見せる。
このとき、ミカの全身の汗はすっかり引っ込んでしまっていた。




