第百一話 みんな互いを愛していた篇
ミカの祖母は、一人、ベッドの上で毛布に包まり、ミカや他の家族の帰りを待っていた。突然の獣害という緊急事態に外は騒がしいが、出て行ってもこの老いぼれの体では、余計に世話をかけるだろうとわかる。ソフィアを迎えに行ったミカも、すぐには帰ってこない。
彼女は毛布の中で腕を交差させ、両の肘を握り、忙しなく指を動かし、肌をひっかいていた。その仕草は、今にも動き出したい衝動を必死にこらえているかのようだ。その証拠に、彼女は何かを探る目で、窓の外をジッと睨みつけている。
その時、家の玄関扉が開き、慌ただしい足音と共に、ミカの母とタピオの切羽詰まった声が聞こえてきた。牧場までミカの父の様子を見に行っていた二人が、帰ってきたのだ。
「おばあちゃん!? いる!?」
息子の嫁が声を張り上げるのを聞いて、彼女は──イロナは、毛布を肩にかけたまま部屋を出た。
「いるよ。オリヴィアさん……、ハ……!?」
たまらず手で口を塞いだのは、家の中へ入って来た二人が、怪我人を担いでいたからだ。その怪我人とは、イロナの実の息子であり、ミカやソフィアの父であり、この農家を若いうちからずっと支えてきた、マティアスだった。
「ごめんなさいね。おばあちゃんのお部屋借りるわよ」
オリヴィアとタピオは、玄関から一番近いイロナの寝室を選び、マティアスを慎重にベッドに寝かせた。体勢を変える度に、腹の穴から痛みが生じるようで、マティアスが「うっ」とうめき声を上げる。見るに堪えない痛ましさだが、イロナはマティアスのうめき声を聞いて、「あ、生きている」と、少しだけ安心した。息があるうちに家に帰って来てくれただけでも喜ばしい。それだけ、マティアスの怪我の状態は酷く見えた。
マティアスを寝かせた後、オリヴィアは救急箱を取りに部屋を出た。その間に、タピオがイロナに状況を説明してくれる。
「牧場に伯父さんを迎えに行ったら、既に怪我をして、倒れていたんだ、狼に喰われて。俺の父さんをやったのと同じ狼だ。喰われた場所も同じさ」
「そんな。イーロに、マティアスまで……?」
「狼に誰かなんて関係ねえよ。手あたり次第食い荒らしてんだ。ああそれから、ばあちゃん。伯父さんや父さんの怪我も大変だけど、それともう一つ、信じらんねえことがあって……」
タピオがイロナの腕を掴んだ時、オリヴィアが部屋に戻ってきて、救急箱を机にドンと置いた。
「おばあちゃん。マティアスの手当てをお願い。わたしたちは、今すぐ行かないといけないから」
「行くって?」
「ソフィアのところよ」
イロナは「ああ」と合点し、手を泳がせながら言った。
「ソフィアなら、既にミカが迎えに行ったんだよ……」
しかし、イロナの言葉に、タピオとオリヴィアは思いがけず目を釣りあげた。
タピオがオリヴィアの様子を見ると、どうにも、口を固く閉じており、詳しいことを説明できそうにない。オリヴィアの代わりに、タピオは叫んだ。
「そのミカが、狼になったんだよ! ばあちゃん!」
イロナは、ハッとして膝の力が抜け、その場にあった椅子にストンと座った。
「ミカが、狼に……」
「そうだよ。狼になって、ソフィアが居るっていう納屋に走って行っちまったんだ。今すぐ止めないと、ソフィアが危ないんだよ」
詳しいことを説明しようにも、タピオにわかっているのは、「ミカが狼になったこと」と、「ソフィアが危ない」ということぐらいだった。だから、タピオはそれだけをイロナに伝えると、オリヴィアを促し、部屋を出ていこうとした。タピオは既に、獣害というよりも、超常現象に巻き込まれたのだと理解していた。そのため、歩きながら、理解不能な状況をボヤいてしまっても仕方がない。
「ったく、どうなってんだ。ミカは狼男だったってのか!?」
「違う! それだけは違うわ、タピオ!」
後に続こうとしていたオリヴィアが立ち止まり、タピオの発言を強く否定した。タピオは振り向き、「え?」と、首を前に突き出す。
「ミカのあれは……病気なの」
「……病気? 狼になるのが? 病気だって? 伯母さん」
タピオは信じられないという目でオリヴィアを見て、説明を求めるようにイロナを見た。しかし、イロナも、オリヴィアに同意するように目を伏せ、何も言わない。
「そんな……ミカの病気って、そういうやつだったのか」
「だから、わたしたち家族は、いつかこうなるんじゃないかと思っていたのよ。でも、仕方がないわ。ミカは悪くないのよ、病気なんだから。早く行きましょう。今、苦しんでいるのは、ミカも同じのはずよ」
「ああ、うん。伯母さんがそう言うなら」
ミカが狼になったというのに、オリヴィアやイロナはやけに落ち着いていた。ミカに一番近い家族たちが受け入れているのなら、従兄であるタピオには、これ以上、騒ぎ立てることはできない。
なお、オリヴィアについては、あえて緊張感ある態度をとることで心内の負の感情をごまかし、精神の均衡を保とうとしているだけのようにも見えた。狼になったミカと対峙してしまえば、あっけなく崩れてしまいそうな、もろい均衡を。
オリヴィアとタピオは、イロナにマティアスの手当を頼んで、家を出た。家を出る時、タピオがオリヴィアに、こう言っているのが聞こえた。
「……待って伯母さん。そのあたりの家の人にも、声をかけて来てもらおう。俺たちだけじゃ危険だ」
家の外は、これから更なる騒ぎになるだろうことが予想された。イロナは、気持ちを切り替え、救急箱から包帯などを取り出し、止血用のタオルを手に取って、手際よく手当をし始めた。
「……あまり、大げさに思わないでくれよ。ちょっと噛みつかれただけなんだ」
「! マティアス!」
イロナが血まみれのシャツを捲り上げたとき、マティアスがボソボソと口を開いた。マティアスの顔色は悪かったが、その表情は落ち着いているようだった。確かに、傷の状態はマティアスの言うとおり、服の上から見た印象ほど酷くない。血は多く流れており、服に真っ赤なシミを作っているが、傷自体は、狼の牙が刺さった痕だけで、肉が食いちぎられている様子はない。
「……噛みついてすぐ、目当ての人間じゃないと気づいて、逃げて行ったんだ。誰かを探しているみたいだった。きっと、俺に近しい人だ」
「マティアス、しゃべって大丈夫なの?」
「はは、これくらい、大したことない」
イロナは、マティアスの腹の血をぬぐい、傷ついた肌がくっつくようにガーゼを当てて、包帯で押さえこんだ。
「探してるって、誰を?」
イロナは、つい気になってしまって、マティアスに続きを促してしまう。マティアスは微笑んで、考えるように目を閉じた。
「……たぶん、ミカを探してるんだ。俺を噛んだ狼は、ミカから飛び出した狼の魂なんじゃないかな。あの博士は、本当にミカを人間にしてくれたらしいが……結局、うまくはいかなかったみたいだ」
そう考えるにしても、まだ疑問は残る。「狼の魂」は既にミカの中に戻ったというのに、どうして今だに暴れていて、ソフィアがいる納屋の方向へ走って行ってしまったのだろうか? わからないことは残るが、それ以上考えても仕方のないことだった。こういう不思議な出来事は、ただの農家に理解しきれるものではない。
「だから、母さん。俺とイーロをやったのは、父さんじゃないからな」
マティアスは、イロナの顔を見上げて、優しくそう言った。マティアスが眺めるうちに、イロナの目はどんどん見開かれていき、ぽかんと開いた口からは、やっと、「どうしてわかったの?」という言葉だけが出た。
マティアスは呆れて言った。
「母さんが気にしていることくらい、わかる。母さんが『狼』と聞いて、思い浮かべるのは、いつも『ミカ』のことじゃない。『父さん』のことだ、昔から。それくらい、わかる。あんたの息子だもん」
イロナの愛する夫は、人間ではなかった。それこそ、狼男と言うべきなのか。ミカが、人間に近い狼男なら、彼は、狼に近い狼男であった。
イロナの父母は優しく、理解がある人たちで、イロナの夫が傍に居られない事情があっても、イロナが双子を産むことを許してくれた。その双子に狼の特徴は現れず、イロナの家庭は、ごく普通の農家として営みを続けていった。イロナの父母が亡くなり、イロナ自身が老いても、牧場を二つに分けて、双子のそれぞれに相続し、農家の仕事を引き継いでいった。孫が生まれても、その子に狼の特徴は現れなかった。そのあとに生まれた孫も、狼ではなかった。ミカが生まれたとき、イロナの罪がこの世に露呈した。
ミカが、狼憑きと呼ばれる病気ではないことを、イロナは最初からわかっていた。ミカは、ただ、祖父の血を引き継いだだけだったのだ。
「何も、母さんのせいじゃない。俺もイーロも、健康に育った。今回のことだって、父さんのせいじゃない。ただ、俺たちミカの両親が、健康なミカにいろいろ余計なことをして、そのツケが、回ってきただけさ」
マティアスは、イロナを慰めるためというわけではなく、本気でそう思っているようであった。ああ、息子にこんな風に気遣われて、なんて情けなく、愚かな母親なんだろう。
イロナは、マティアスの頬に手を当てた。自分の手はもうしわくちゃになっているし、マティアスもすっかり大人の肌になってしまっているけれど、彼はいつまでも、愛する夫との間にできた、イロナの愛する息子であった。
しかし、マティアスから詳しい話を聞いた後でも、イロナの中にはまだ一つ、心配事が残っている。
イロナは、部屋の窓を視線で示してみせた。
「……でも、わたし、さっき、見たのよ。窓の外に、狼が居たんだけど……あれはきっと、ミカじゃなくて、あの人だったと思うの」
マティアスは、口を半開きにして、パチパチと目を瞬きさせた。
「いや、狼を二匹見た覚えはないな……」
§
それから、少しだけ時間が流れた。その間、家の中に限っては穏やかだった。イロナは、マティアスの着替えをもってきたり、汗を拭くための濡れタオルを用意したりしていた。マティアスも、毛布をかぶって横になって休んでいるうちに、幾分か顔色がよくなったようだった。
飲み物でも用意しようかと、イロナが台所に立った時、表の通りに面している窓の向こうで、何か異様に速い速度で動く黒い影が、家の前を横切ったのが見えた。
「え?」
イロナは窓にへばりつき、家の外の様子を見る。謎の黒い影が通ったあとには、火の気が燻っていた。なんと、火は、村の建物や植物に続々と点火されており、マティアスが管理する牧場の木柵も、今まさに燃えている!
イロナは恐怖に悲鳴を上げた。
「火事よ! 大火事になるわ!」
イロナの寝室から、マティアスが起き上がってベッドがきしむ音が聞こえて、イロナは慌てて制止する。
「寝てて、マティアス。わたしが火を消してくるわ!」
イロナはマティアスに念を押すと、マティアスの返事も聞かずに家を飛び出した。バケツは、家の表に並べてあったはずだ。
しかし、イロナが家を出てあたりを見回している間に、水を用意するまでもなく、牧場の木柵の火は鎮火されていた。火を消してくれた者は、まだそこに居る。イロナはその姿を見た瞬間、心臓が跳ね上がり、今ここで気絶してそのまま息絶えるのではないかと思った。
イロナの体を高揚させたのは、ずっと、ずっと会いたかったあの人だった。生きる世界が違いすぎて、傍にいることは叶わなかったが、絶対に、どこかで見守ってくれているはずだと信じていた彼だ。
「あなた!!」
イロナの呼びかけに、その大きな狼は振り向いた。狼は、焦げ茶色の毛並みを落ち着かせていて、前足で燃えた木柵を取り壊し、念入りに踏みつぶして火を消してくれていた。
イロナは、彼に走り寄ろうとしたが、その前に、彼がプイとそっぽを向いて、走り去ってしまった。イロナはあっけにとられたが、彼が走っていく方向を見て、さっきの「謎の黒い影」を追いかけているのだと気づく。
そして、狼が走る姿とその速さを見て、その「謎の黒い影」の正体も狼だったのだと──ミカだったのだと悟った!!
ずっと姿を見ていなかった彼が火事から家を守ってくれた、その感動と、歓喜のままに死ねるなら、それもいいかもしれないと一瞬だけ思ったが、そうもいかない。今は、大事な孫の危機であるのだ。イロナは焦り、その場で足踏みを何度かした後、はっと思いついて家の横手に走りこんだ。そこには、家族共用で使っている原付が駐車してある。
イロナはまるで若返ったかのように身軽に原付にまたがって、夫と孫を追いかけて、道を爆走した。
§
河川敷に辿りついたと同時に、ミカらしき狼が、川の中に沈んでいくのを見た。ミカが沈んだすぐ近くの川岸には、イロナの夫が佇んでいる。イロナは原付を降り、転がるように川岸へ走った。
「あ、アードルフ!!」
彼は、イロナを振り返ってくれた。イロナは彼の傍まで駆けつけ、川の中を流れていくミカが、徐々に人間の体に戻っていくのを見た。
「アードルフ、ミカを助けて」
イロナは狼の背に手を当て、訴えるようにそう言ったが、彼は、イロナの瞳をまっすぐに見つめたまま動かなかった。
イロナは、その様子を見て察する。
「これが、一番いい方法なのね」
アードルフは、こう判断したのだった。──もうミカは、この村には居られないだろうと。
アードルフは、地面に置いてあった布の塊を足で蹴って、川に流した。何かと思えば、それは、ミカが着ていた服だった。ビリビリになって道に落ちていたのを、拾い集めてきたのだろう。彼はもう、ミカを川から引き上げるつもりはない。このままどこかに流れて、別の場所で、人として生きることを願っている。
「アードルフ……ミカは死なないの?」
アードルフは、狼の顔をコクンと縦に振った。
「アードルフ。ミカは、どこかで元気に生きてくれるかしら」
アードルフは、もう一度コクンと頷いた。
「アードルフ。アードルフ、アードルフ、アードルフ!」
イロナは、たまらず、アードルフのたくましい首に抱き着いた。顔と腕が毛皮に埋もれ、アードルフ以外、何も見えなくなる。
「マティアスがね、わたしのせいじゃないって、言ってくれたの。でも、わたし、ミカのこんな姿を見て、どうしてもそうは思えなくなってしまった。だけど、もしわたしのせいだってことにしようものなら、あなたも悪いことになってしまうわ。そんなことできない、言えない。わたし、どうしたらいいの?」
大きな狼の頬が、イロナの頬にすり寄せられた。なぐさめるように、落ち着かせるように。
アードルフは、イロナの目を、見つめていた。
──誰のせいでもない。もし、そう思うのが嫌なら、二人のせいにすればいい。
イロナとアードルフは、言葉なしに心を通わせられた。
川の上流の方で、誰かが水を汲んでいる。村の火事を消すために、バケツリレー方式で水を運んでいるようだ。これから、人が続々とここに集まってくる。
イロナが原付で走ってきた道の方からも、人々の声が聞こえ始めた。ミカを追いかけてきた者たちだ。
「狼はどこだ!」
「すぐにでも捕まえないと」
「もう逃げたんじゃないのか?」
「人食いだぞ、放っておけるか!」
イロナは、アードルフの首から腕を放し、その前足を手で押してやった。
「行って。あなたが間違って捕まってしまうわ」
アードルフは一、二歩進み、またイロナを振り返った。その目は、優しく、イロナと、その家族を見つめ続ける。
アードルフとイロナは、愛し合っていた。オリヴィアとマティアスも、愛し合っていた。オリヴィアとマティアスとミカとソフィアも、愛し合っていた。
イロナは、アードルフがこっちを見返る姿に、ゆっくりと手を振る。
「ありがとう」
イロナの最後の言葉を胸にしまって、アードルフは地面を蹴り上げた。彼は、人間には絶対に追いつけないスピードで、川を越え、森を越え、山に帰っていく。
「え? ミカんとこのばあちゃん? なんでここにいるの?」
アードルフもミカも、すっかり姿を消したあとに、やっとこの川辺に着いた人々が、イロナの背中にそう声をかけた。
イロナは、ずっと遠くを見つめて、返事をしなかった。
§
目を覚ました「青年」は、何も覚えていなかった。ただ、霧の中をさまよいつづけ、周囲は町ではなく、森であろうことだけがわかった。
青年は、気づいたら川岸に打ち上げられていた。体には、ビリビリになった服がまとわりついていたので、ひとまず、それを着た。あまりにも冷たく、確実に風邪をひくだろうと思った。
ふいに、霧の中に、大きな黒い網が見えた。近づいてみると、それが網ではなく、黒い大きな鉄の門であると気づいた。
ここは、どこか大きなお屋敷の入り口のようだ・
どこでもいいから、なにか食べ物と、暖かい場所が欲しかった。いや、もっとまともな服もあればいいな。それと、誰かがいればいい。一緒に住んでくれる人。俺の帰る場所がほしい。
愛して、頭を撫でてくれる、姉のような人が欲しい。
実際に霧が濃く出ているのか、自分の意識が朦朧としていて視界が霧がかっているのか、怪しいところだった。
とにかく、どこかに辿り着かねばならないことだけはわかって、青年は、その門扉をゆっくり押した。




