第百話 災禍の狼篇
フォーク、鋤、鍬といった馴染み深い農具は、今、長物の武器として扱われ、その切っ先はミカに向けられている。彼らがミカに武器を向ける様子には、当然、何の躊躇もない。彼らの目に、今のミカはただの狼にしか見えず、躊躇などしていれば、逆に喰われてしまう――と思われている。ミカは、信じられない思いで、眼前に迫るフォークの鋭い切っ先を見つめた。
ここにいる村人たちは、皆、ミカの顔見知りで、この小さな農村において互いに助け合って生きてきた者たちだった。親しかった彼らに殺意を向けられて、平気でいられるわけがない。
立ちすくんだミカは、村人たちの姿を恐る恐る順繰りに眺めて、そこで、ビクリと気が付いた。村人たちの中心に、ミカの母と、タピオが立っている。ミカの母は、ミカと目が合ったことに気が付くと、一歩だけ前に出てきた。
母は、過呼吸気味になった息遣いの合間で、こう言った。
「ミカなの……?」
母のつぶやくようなそれを聞いた周囲の人々は、ヒソヒソと「ミカ」の名前を言いあって怪訝な顔を見合わせる。母のすぐ隣に立っていた男性は、「おいおい」と戸惑いつつ問いかけてみる。
「ミカ、ってのは、どういうことだい? この小屋にいるのは、ソフィアなんだろう?」
続いて、他の村人たちも、口々に意見を言い始めた。
「そうよ、ソフィア! 早く助けないと!」
「駄目だもう燃えてる! それに、まだ狼がここに居るんだ、小屋に近づけば危険だ……。何より、ほら見ろよ、狼の口元……血が……」
「シッ、皆まで言うな! 実の母親が聞いてるんだぞ!」
「ていうか、ミカくんはどこに居るの!? お姉ちゃんが大変なことになっているのに、まだ来ないの!? 一番に駆けつけて来そうなのに!」
「もしかして、ミカくんも中に!?」
村人たちの憶測は全く見当違いな方向に飛びかけたが、その憶測が発展しきる前に、タピオが大声で「違う!!」と否定した。
「さっき伯母さんが言ったとおりだ。この狼が、ミカなんだよ!」
「ええっ?」
村人たちはどよめいた。人間が狼になるなど、普通はあり得ない現象だ。やはり、タピオの言葉をすぐに信じる者はいなかった。
「タピオ、また何を冗談言ってるの!?」
「お前も、おばさんも、気持ちはわかるが、変になっちゃあ……」
「変になってねえよ! 俺らはこの目ではっきり見たんだ。怪我した伯父さんを、伯母さんと二人で家に運んでいた時だ。ちょうど家から出てきたミカに、黒い狼が襲い掛かった。ミカが狼に喰われたと思ったけど、違った。ミカに覆いかぶさった狼は、霧みたいになって、ミカの口の中に吸い込まれていったんだ。それから、ミカの体の形がどんどん変わっていって、狼になっていった! 嘘みたいだけど、嘘じゃない! その狼は、ミカなんだよ!」
タピオの話は、ミカの頭から抜け落ちた記憶そのものだった。村人たちだけでなく、ミカもまたその話に衝撃を受け……にわかに、怒りや憎悪がふつふつと沸いてきた。
ミカは気づいたのだ――そうか、ソフィアを殺したのは、俺の体に入ってきたという「黒い狼」だったのか! 俺の体は、その謎の存在に操られていただけだったんだ!――これは、ミカが諸悪の根源を発見した瞬間であった。
大切な身内を亡くした人間が、憎むべき相手を見つけた後は恐ろしい。
ミカは、まるで何かに目覚めたようになり、罪悪感に囚われて冷え切っていた心と体にも、血が通うようになった。ミカの心を蝕んでいた暗い感情は、興奮材料たる怒りと憎しみに塗り替えられ、ついにミカは、すぐにでもソフィアの仇を取ろうと決心するまでに至った。
ああ、ずいぶんと足が軽いが、これはきっと、身体がこう訴えているからなのだ――必ず、必ず「黒い狼」を殺し、ソフィアの仇を取らなければならないと!
その時、ミカの母が、もう一歩ミカに近づいてきた。
「ねえ、ミカなのね……?」
母は目を見開いて、ミカに手を伸ばしてくる。ある種の興奮状態であるミカには、その表情が自分を心配するものに見え、思わず母に駆け寄った。
――母さん! 俺だよ! 早く俺から「黒い狼」を引きずり出して! こいつが全部悪いんだ!
しかし、もちろん、ミカが母に駆け寄ることは許されなかった。村人たちが母の腕をつかんで一斉に後退しながら、武器をミカに突き付けてきたのだ。ミカは、狼狽えて、四つ足で地団太を踏む。
――どうして逃げるんだよ!? 違う、全部「黒い狼」のせいだって、タピオが言っただろ! こいつさえ俺から出て行ってくれれば、俺は人間に戻れるのに!? 助けてくれよ、一緒に「黒い狼」を倒そうよ!!
ミカの心内の訴えを他所に、ミカの母は、村人たちに叱責されて引きずられながら、絶望に打ちひしがれていた。なぜなら、「ミカなのね」という呼びかけに狼が応えて駆け寄ろうとしてきた――ということは、つまり、目の前のコレは、本当に「ミカ」であるのだから!
この口元を血まみれにした狼は、自分の息子のミカで間違いないのだ。
母は思い出す。
彼が自分の腹から生まれ出てきたときも、同じように血まみれで、毛むくじゃらの全身がテラテラと光っていた――。
こんな記憶回帰のことを、フラッシュバックと言うだろう。
「ああ……あああああああああ!!!」
フラッシュバックした記憶がもたらす衝撃は、母を発狂させるには十分だった。しかし、あの忌まわしい息子誕生の記憶は、ただ彼女を発狂させるだけでは飽き足らず、彼女の頭の中で、時系列を追ってどんどんと繋がっていったのだ。誕生、成長。いつまた息子が狼になるやもしれないと怯え、神に祈る毎日。必死で医者を探した日々。なかなか治療の成果が出ず、精神が摩耗していく感覚。
突然様子がおかしくなったミカの母にギョッとした周囲の村人たちが、彼女の肩をつかんで揺り動かしても、彼女の発狂は止まらない。
「こんなに注意を払ってきたのに! この子が生理の血に反応するから、何の罪もないソフィアを納屋に追いやって、他にも家族に散々我慢させてきたのに! 全部、この子を人間にするためにやってきたことだったのに!!! 無駄だった!! そうよ何もかも無駄だったわよ!!! この子を狼の体で生んでしまった時から、わたしが全部間違っていたってわけなのね!!!!!」
ミカの母は、酸欠になりそうなほど叫んでいた。金切り声が、聴力の発達したミカの耳をつんざく。煩い声のせいか、その声が叫ぶ内容のせいか、ミカの頭の中は真っ白になった。ミカに向かって伸ばされていたはずの手は、優しいソフィアの手のように、ミカの頭を撫でてくれるものではなかった。母のその手は、彼を突き放すためのものだったのだ。
「そうならそうと早く、教えてくれればよかったのに……」
ついに、母は顔を覆ってうずくまる。タピオや村人たちが「大丈夫か」「しっかりしろ」と呼びかけても、反応はない。
次に顔を上げた母は、不気味に低い声で笑っていた。
「殺して……! もう殺して……! 早くミカを殺して!!!」
タピオが、母の肩を支えて立ち、隣の男性に向かって首を横に振った。男性はタピオに頷くと、彼と母のために人をよけ、遠くに下がらせる。
男性は言った。
「おい、おばさんはもうおかしくなってる。俺たちでやるぞ!!」
「川から水を持ってきたぞ!」
「裏に回って消火しろ!」
ミカの頭の中には、母の不気味な笑い声がグルグルと回っていた。そのときの母の表情といったら、まるで見たことがない、上目遣いにミカを睨み、顔面を影で覆いつくしているようだった。
ミカの、母の愛を信じて踏み出したはずの足は、それ以上、同じ芝生の上に置いておくことができなくなった。
ミカは、母とタピオがいなくなって村人たちの垣根の中心に空いた穴に、飛び込むようにして駆けだした。
その巨体が繰り出す四つ足で、誰にも追いつけないような速さで、ミカは必死でその場から逃げ出したのだ。
村人たちは、小屋の火事を消化する者と、ミカを追いかける者に分かれた。ミカを追って彼を殺そうと意気込んだ者たちは、しかし、逃げていくミカの後ろ姿を見て仰天し、さらに、二手に分かれた。
「まずい、早く水を持ってこい。俺たちは、なんとしてもあれを足止めするぞ。あれ以上、被害を拡大させてはいけない!」
被害というのは、火事の被害だ。なんと、ミカの尻尾は、納屋の火事から引火して燃えていて、走る度に芝を燃やしていたのだ。農場には、ミカが足をついた場所すべてに点々と炎が残されており、このままだと、火の手は農場全体に回るだろう。それが村の家々にまでに及べば、もう取り返しがつかない。
混乱し、興奮しきったミカは、自分の尻尾が燃えていることに全く気が付いていなかった。それよりも、早くこの体から「黒い狼」を追い出さなければならないと焦っていた。その前に、自分が殺されるわけにはいかない。「黒い狼」を殺して、ソフィアの仇を取れば、ミカの母も、村人たちもわかってくれるはずだ。ソフィアを殺したのはミカではなく、ミカは狼ではないと。ミカの気が付いた時にはもう、ソフィアは瀕死の状態で、ソフィアはミカを赦してくれたのだと!
ソフィアに赦されたとわかった直後の謙虚さは、もうミカの頭からすっぽり抜け落ちていた。それよりも、今村人たちに殺される方が怖い! ソフィアを失った上に、今こうして殺される方が不当で、信じられない!
ミカは走り続けた。背後からは、武器を持った村人たちが追いかけてきていたが、なかなかミカに追いつくことはできないようだった。ミカが村の住宅街にたどり着き、街道を走り抜ける頃にはもう、ミカの体を燃やす火は下半身を覆うまで広がっていた。家の窓からミカを見た人々には、火の玉が道を走り抜けて行ったように見えた。
ミカが通ったところに植物や生えていたり、布が干していたりすれば、すべて燃えてしまった。家畜に与える飼料があれば、燃え上がり、香ばしい匂いを漂わせた。
全身が熱いのは、体温のせいだと思い込んでいた。まさか、村に大火を呼んだのが自分のせいだと思わなかった。
とにかく、村人たちから少しでも遠ざかって、「黒い狼」を体から追い出す方法を考えようとしていた。
ミカは、身体を燃やす火が前足に辿りつく前に川辺に辿りついた。ここは、村の街道をたどって村から抜けた後、都会の方向に続いていく道に沿って流れる川であり、浅い土手を下りれば、しばらく人の目を避けることができる。
やっと、落ち着ける場所を見つけたと思ったミカは、川のほとりで足を止めた。しかし、足を休めたのも束の間、何者かが背後から衝突してきて、ミカを川に突き落とした。
何が起こったのかわからないまま、ミカは川の奥深くまで沈んでいった。燃えていた背中が、ジュッと音を立てて消火され、ひどいやけどになった肌に、水が遠慮なく浸み込んでいく。ミカはやっと、自分の体がとんでもないダメージを受けていたと理解し、「痛い、痛いよ」と叫んだが、その口には大量の水が流入してくるだけだった。
穏やかな川の流れが、ミカの体をぐるりと回転させ、ミカは水底であおむけになった。水の中から川辺を見ると、そこには、ボンヤリとした黒い影がいて、こちらを見下ろしているようだった。その影の形は人間らしくない。頭部には、大きな二つのとがった耳がついているようだ……。
――狼だ! こいつが「黒い狼」だ!!!
せっかく仇を見つけたというのに、もがいても、もがいても、ミカの体はなかなか浮上しなかった。しかも、水を大量に飲んだせいで、意識が遠ざかっている。
――くそ、くそ! 全部こいつのせいなのに! こいつが、こいつが……!!
残念ながら、ミカは悪態をつくだけで、「黒い狼」を殺すことはかなわない。その悪態さえ、水の中でゴボゴボと鳴るだけで、仇には一切届いていない。
ミカは悔しさに涙を流しながら、ついに意識を手放した。ミカの体は水底で浮き沈みして、川の流れに乗り、誰も知らない場所まで運ばれていった――。




