第九十八話 ソフィアと狼篇
ソフィアはその日、納屋の中で一日中横になっていたが、夕方になり、ふと目を覚ますと、あたりが妙に静かであるように感じた。実際、この納屋は放牧地の入り口から見た向こう側にあり、民家からは離れた場所で、森にも比較的近いため、静かであるのが常である。ソフィア自身、自分が抱いた「どうしてこんなに静かなんだろう」という不安感の出処を理解できなかったが、ふいに、その背中に悪寒が走った。
ソフィアは毛布をかき抱き、傍にある小さな薪ストーブの火が消えていないことを確認する。毛布の中で、ソフィアは、お腹をゆっくりとさすった。どうやら、今度の月経では寒気と精神的疲労がひどいようだ。ソフィアはもともと、生理の重い体質で、この時期は学校に行くことも、家事を手伝うこともままならない。
しばらくして、外からこちらに近づいてくる足音のようなものが聞こえた。母が、今日の食事を届けに来てくれたのだろうと思ったが、ジッと耳をすませているうちに、母ではないと気づいた。足音の間隔が早すぎるのだ。
「……ミカが走って来てるのね」
ソフィアは呆れて笑い、少し疲れを感じてゆっくりと横になった。
「もう、来ちゃだめって約束なのに」
そう呟きながら、ふと疑問が浮かぶ。
(母さんは、ミカの病気は治ったと思っているのよね? それなのに、どうして今も、ミカから血の匂いを遠ざけるのかしら。今朝はお腹が痛くて朦朧としてたから気づけなかったけど……まだ何かあるの? それとも、今までの習慣が抜けなくて……)
その時、納屋の古い木製ドアが、ドン! と何者かに叩かれた。ソフィアは、ビクリとして上半身を起こす。ドアは叩かれた衝撃で、穴こそ開かなかったものの、鍵は完全に壊れ、下の番は外れ、かろうじて残った上の番だけでブランと戸口にぶら下がっていた。その叩かれ方というのは、もちろん、激しくドアをノックする程度ではない。まるで、何か大きいものが、遠慮なく体当たりしてきたような勢いだった。
気づけば、こちらへ走ってくる足音は止まっていた。ソフィアは、ドアの前にミカがいるはずだと思いながらも、突然のことに、驚きで声が出せなかった。
「……あ、」
なんとか、その一言だけ絞り出した時、壊れたドアがギイッと音を立てて開いた。
ドアが開いた隙間からこちらへ入り込んできたのは、明らかにイヌ科のものである鼻先だった。
いや、イヌ科なんて曖昧な言い方をする必要はない。狼だ。たとえ、本物の狼を間近で見たことがなかったとしても、その大きさからして、狼であるとわかる。
狼はゆっくりとドアを押し開け、徐々にその姿をソフィアの前に表した。体長二メートルを超えそうなその狼は、焦げ茶色の体毛を逆立て、殺気立っているように見える。
「キャァァァ――、ッ!?」
ソフィアはすぐさま悲鳴を上げたが、その声は途中でプツンと切れて、それ以上、出なくなってしまった。喉の奥が腫れて、潰れたためだ。ずっと薪ストーブの傍にいたから喉が渇いてしまったのか、緊張で体がおかしくなってしまったのか。とにかく、これ以上大声で助けを求めることはできなくなり、彼女の口から悲鳴の代わりに出てきたのは、擦れて誰の耳にも届かないような声で呼ぶ、弟の名前だった。
「ミカ……――? ミカ……――」
そう、ミカだ。ミカがこの近くに居るはずだと思った。納屋に向かって走ってきていたはずの、あの子は今、どうなっている? 壊れたドアからは、この狼以外、何者の入ってくる気配が無いが、まさか、姉より先に狼と対面してしまって、襲われたというのだろうか。
パニックになった頭で、そう考えつつ、ソフィアは体を狼に向けたまま両手を床に着き、後ろ向きに這って部屋の隅へ逃げようとする。暇つぶしの読書のため床に積んであった本のタワーが、逃げ場を模索する腕に当たって倒れ、ドドドドドドドと激しい音を立てた。
その時、ソフィアはハッと気づく。
(わたしの馬鹿! さっき聞いたあの足音は、ミカじゃない! この狼だったのよ! ここにミカは来ていない! この近くには誰もいないんだわ!)
そう気づいた瞬間、ソフィアの心は、不思議と真っ二つに分離した。一つは、誰も助けに来ない絶望感。もう一つは、ミカがこの危険な場所にいないという安心感。どちらかというと、後者の気持ちの方が比率的に大きいようで、ソフィアは、自身がこの状況下にありながら、「ミカ、お願いだから、間違ってもこっちに来ないでね!」と内心で祈るほどであった。もう自分の命を諦めたのかと、自分で自分に呆れるしかなかった。
いや、実際、諦める以外にどうしたらいいというのか。ソフィアは体調の悪い非力な女子で、相手は、巨躯を叱咤して家を破壊する気性の荒い狼だ。民家は遠く、むしろ森の方が近い。ここは狭い小屋の中で、逃げる場所などどこにもない――。
ソフィアの頭の中に、「呪い返し」という言葉が、例の博士の声で浮かんだ。実際には、博士はその「現象」を、「呪い返し」という言葉ではっきりとはいい表していない。しかし、ソフィアは内心ではずっとその概念に怯えていて、それを表現する言葉だって、自分で勉強して見つけてきたのだ。悪魔の呪術を行えば、悪魔は呪術の効果の代償に、必ず術者にその影響を返す。しかし、その呪術の材料に、生きている別の誰かの体の一部を使えば、その誰かに、術者が受けるはずの代償を肩代わりさせることができる。あの博士は、約束通り、ミカの体から狼の魂を消してくれる代わりに、ソフィアの経血を呪術に使ったに違いない。
狼に襲われて命を落とすのは、きっと、その代償のためなのだ――。
部屋の隅に辿りついたソフィアは、古い機織り機に背中をガンとぶつけた後、迫りくる残虐な死に様に備え、体を丸めてぎゅっと目を瞑った。
狼は、喉を「グルルルル」「グルルルル」と小さく鳴らしながら、一歩一歩とソフィアに近づいて来る。しばらくすると、スンスンと鼻を鳴らし、ソフィアの腹あたりに鼻先を当ててきた。
その間、ソフィアはガチガチに体を固めていたが、ふと何か違和感を感じて、うっすらと目を開けた。狼が喉の奥で、「クゥン、クゥン」と鳴いているのだ。まるで、子犬が母犬に甘えるかのように、情けない声を出している。
その声を認識すると、急に狼の様子が違って見えはじめた。今まで、ただ怒り立って人間を襲う獰猛な存在であったものが、全身を情けなく震えさせているのに気づき、毛を逆立てているのも、何かを恐れて肌をあわだてているからだと見えた。
こちらへ甘えるように、腹に鼻をくっつけてくる狼の顔が、寂しさに打ちひしがれる弟の顔と重なる。
ソフィアは、目を大きく見開いて、狼に呼びかけた。
「……ミカ?」
名前を呼ぶと、その狼は少し緊張がほぐれたように再び鼻をスンスンといわせる。
「ミカなの?」
狼は、ソフィアの目を見ない。しかし、ソフィアは何かの確信を得て、握っていた手を解き、恐る恐る、狼の頭を撫でた。
すると、狼は安心したように、目的を達成するため動き始めた。今までは、緊張してソフィアの匂いを嗅ぐくらいしかできずにいたのだ。
まず、牙を使って、丁寧にソフィアの腹回りの服を裂く。服を脱がせると、ソフィアが流す経血の匂いが濃くなり、狼の鼻を直接刺激した。狼の全身の毛が、よりザワザワと逆立ち、体が一回り大きくなったように見えた。
「大丈夫よ……」
何が大丈夫なのか自分でもわからないが、ソフィアは、そう声をかけてやりたくなり、実際にそうした。
「ミカ、また甘えんぼしに来たの? 勝手に来ちゃいけませんって、約束でしょ、キャア!」
狼が、体を丸めていたソフィアを引っ張り、ソフィアは、床に仰向けに転がされた。
それから、ソフィアの下腹部に牙を突き立てた。子犬が母犬にじゃれて甘噛みするかのような静かさで、腹の肉を抉り取る。
「ウッ……」
その瞬間、ソフィアの腹はとてつもなく熱くなった。痛いのとも違う。痛みに危険を知らせる警告の意があるのだとしたら、これはその警告を飛び越え、死に直結する衝撃だ。
しかし、ソフィアは狼の頭を撫でる手を止めなかった。
「ミカ、よーし、よーし……」
狼は、ソフィアの腹を深くまで掘っていく。経血など比べ物にならない鉄の香りが部屋を満たす。見たことないほど鮮やかな赤色の液体が、腹から飛び出す。しかし、ソフィアはその様子を自分で見ない。ソフィアの目は、一心不乱に肉を貪る狼の瞳にだけ注がれている。
ああ、どうしてすぐに気づかなかったのだろう。わたしの元に来る狼なんて、ミカしかいないに決まっているじゃない!
「ミカはいい子だね。ミカ、博士の呪術が、うまくいかなかったのかな。突然狼になってしまって、困ってるんだね」
狼の牙が、ソフィアの子宮を裂いた。
「よし、よし。よし、よし」
ソフィアは、狼の頭を優しく撫で続ける。
ソフィアとミカの母は、ミカの「病気」のことを思いすぎて、だんだんとおかしくなっていった。父や祖母といった周囲の大人たちが、母の精神病を疑い始める以前から、ミカは自分に向けられる母の視線に、何か得体の知らないモノが含まれているのを敏感に感じ取り、自然と、母に甘えることを辞めた。
ソフィアはミカの姉だったが、弟の頭を撫でるという行為に失われた母の面影を求め、甘えるミカも、甘えられるソフィアも、互いに心を満たしていた。
ソフィアの子宮が開いた時、突然、狼がえずいた。心配になって見ていると、狼がソフィアの腹に、黒っぽい塊を吐き出した。
ソフィアは目を瞬いて、しばらく考え、なんとなくその正体に気づく。
ああ、これはわたしの、干からびた経血だ。
「ありがとう。返しに来てくれたんだね」
狼は、やっと全身を落ち着かせ、ソフィアの腹から口元を離した。その口元は、すっかり真っ赤に濡れている。口元だけではない。ソフィアの体に、周囲の床まで、この場の全てが真っ赤だった。もう腹の中に戻ることはないそれらを、薪ストーブの赤い光が、テラテラと艶めかせている。




