第九十七話 ミカの狼篇
祖母は、ミカの質問にハッとしたようだった。ミカにとっては不可解なことだ。大人たちは、ミカが何も気づかないとでも思っていたのだろうか。いつも、あんな……腫れ物に触るようなとも少し違う……視線に晒されていて。
昔、童話「赤ずきん」をソフィアが読んでいたことがあった。当時は、ソフィアもミカも、まだ、その童話に相応しい年齢であった。しかし、母は、ソフィアの手から、「野蛮だ」というピンとこない理由で、本を取り上げたのだ。
母が、狼を嫌っているようだと気付いたのは、「赤ずきん」の件からしばらく経った後だ。別の農村で狼が出たという新聞記事を祖母が切り抜いていたとき、祖母の鋏が滑らかに動くのを見て楽しんでいたミカを、母が引っ張り部屋に連れて行った。それから、ミカの前で狼の話をするなと、祖母を叱っていたのを見た。祖母は新聞を切り抜いていただけで、ミカも、その手元の様子を見ていただけだった。それでも、母は「狼」と見ただけで祖母を叱ったのだ。
「ばあちゃん、博士がよく、俺に月の話を聞いてきてたんだ」
どこの農村にも、昔から、人狼の伝説が残っている。ミカだって、人狼が月を見て変化するという話なら、聞いたことがあった。
「姉さんが、納屋に入るのも」
姉が十ニ、三歳の頃だが、珍しく、朝から寝込んでいる日があった。その時、姉から酷い出血の匂いがしたので、ミカは急いで母に知らせたのだ。
『母さん、姉さんから、たくさん血が出てるよ!』
それを聞いた母は、血相を変えて姉を納屋に閉じ込めた。それから、姉は定期的に体調を崩すようになり、その度に納屋に入ることになった。
女性は血を流す日があるのだと、後で、祖母からこっそり聞いた。その日は、ソフィアも辛いだろうから、会いに行ってはいけないと。
そう考えを巡らしていた時、ミカはハッとして顔を青くした。
「ばあちゃん、母さんは、姉さんの様子も見に行ってくれてるかな」
ミカの話を緊張しながら聞いていた祖母は、突然の話題転換についてこられなかったようで、「……え?」とだけ返す。
「姉さんがいる納屋は、家よりずっと簡単な造りだよ。狼が出てるなら、あんなところに一人でいたら、危険かもしれない」
「あ、ええ、そうね。よく気付いたね。確かに、あの納屋はここから離れているけれど……」
「でも、やっぱり、一人でいるのは危険だよ。俺、今から行って姉さん連れて来るから、母さん帰ってきたら言っておいて?」
「ええ。お姉ちゃんをお願いね」
「うん」
ソフィアの無事を思うと、ミカは自分と狼の関係についてなど、すっかり忘れてしまった。すぐさま家を出て行こうとするミカを、祖母がそっと引き止める。
「ああ、ちょっと待ってミカ。……気をつけるんだよ」
「わかってるよ。すぐ帰って来るから」
ミカは祖母に向かって笑顔を見せると、急き気味に玄関のドアを開けた。
途端に、家の中に流入してくる空気に、血の匂いが混じっているのを感じ取った。ミカの全身の肌が泡立つ。この血の匂いのもとは、それほど遠くない場所にある。ミカは道へ走り出て、慌てて周囲を見渡した。
羊小屋の方向を向くと、血の匂いはより濃く感じた。見れば、向こうから、三人の人間が近づいてきている。しかし、三人のうち一人は自分の足で歩けていない。腹に何か布を巻きつけた状態で、両端の二人に担がれている。
近づくほどに、真ん中の怪我人が父であるとわかった。父の腹に巻きついているのは、母の上着を折った即席の包帯であると見えた。そうしてかろうじて覆い隠されている腹からは、大量の血が溢れ出ている。
「!! ……父さん!!」
ミカはたまらず叫んだ。
その声に反応して、父を気遣っていた母が顔を上げ、ミカを見つけて青い顔をした。
「ミカ!! 早く家に入りなさい!!」
ミカは父の惨状を見て、ますます、姉の様子が気になってきた。頭の中に最悪の事態が浮かんでこびりつき、いてもたってもいられない。
「違うんだ、姉さんのことを助けに行かないと……」
ミカは、やや離れた距離にいる母たちに聞こえるかわからない声でそう説明した。母たちには、ただミカが状況を理解せず、もたもたしているだけのように見えただろう。
「いいから! 早く家に入りなさい!!」
母は、狂ったようにそう繰り返した。しかし、悲痛すぎる声は乾いた喉の奥に吸収されてしまい、ミカの母の思いが、ミカまで届いていないことを察したタピオが、
「後ろだ!!!!」
と、大声で叫んだ。
「……え、後ろ?」
ミカは、はたと正気になって、タピオの言う通り後ろを振り返った。
そこには、大きな黒い影のように見える狼が佇んでいた。いや、ミカを獲物と思って狙いをつけているのか。いや、敵とみなして威嚇しているのか。とにかく、狼の後ろ足は今にも踏み切らんと緊張していて。
実際、次の瞬間、ミカをめがけて飛びかかってきた。
ミカは、狼を追い払おうと腕を振り回したはずだ。しかし、その腕が狼の肉体に当たった感触はなかった。
ミカの目の前が、真っ暗になった。




