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第九十四話 狼少年篇

 早朝、牧羊を主な産業とする村に、若い男の声で危機が告げられる。


「狼が出たぞーー!!」


 若い男はそう叫びながら自分の牧場を飛び出し、村を縦横無尽に走り回った。


「狼が出たぞーー!」

「狼が出た?」

「狼だって?」


 村人たちが朝の仕事場から、はたまた朝食を用意する家の窓から不安げな顔をのぞかせ、男の後ろ姿に驚き声をかける。

 男は最後に親戚の放牧場に駆け入り、羊を数えている伯父と従弟を見つけると、ありったけの力を腹に込めて声を張り上げた。


「伯父さーん、ミカーー!! うちの牧場に、狼が出たんだよーーーー!!」


今年十九歳になる彼の名は、タピオと言った。タピオはソフィアより少し年上で、ミカやソフィアの従兄にあたる青年だ。


 タピオの警報を聞いて、ミカの父が「なんだって!?」と放牧場の外へ出てくる。ミカも周囲の羊をいなしながら父の後を追い、二人ともが放牧場の外に出てくる頃には、そこにはタピオやミカの母親だけでなく、近所の羊農家たちまでもが集まっていた。


 ミカはタピオを見上げて尋ねる。


「タピオ、狼って本当なの?」

「ミカまで疑うのか~!? 本当なんだよ、俺見たんだ! 信じてくれよぉ」


 ミカは眉をひそめた。確かに、この村は山地にあり、四方には森がある。しかし、山は奥の方まで放牧地として人の足が踏み入れられ、森も村人によって管理されている。これまで、森に狼が住むと噂されることはあっても、村に降りてきて羊や人に危害を加えたなどという事件は、長らくなかった。


「だって、タピオ。狼なんて、森に入っても滅多に見ないわよぉ? それを突然、こんなに大騒ぎにして……一体、どこで見たっていうのよぉ」


 そう言うのは、ミカの家からそう遠くないところに住むおばさんで、ミカの一番の「ご近所さん」だ。この村では、各家々が羊を飼育するスペースを確保するために、家同士の距離がかなり離れている。だから、村人は少ないながらも、村の規模は比較的大きいのだ。


 そんな村の住人たちだが、今朝はタピオの騒ぎを聞きつけて続々とミカの家周辺に集まってきている。まるで、村人全員集会を行うかのようだ。


 タピオは沢山の人に疑惑の目を向けられ、憤慨し地団太を踏んだ。


「疑う前に聞いてくれよ! 狼を見たのは今日の夜中の二時過ぎだ。家の前を歩いていたら、なんだろう、黒い影が前を通ったんだ。俺、俺、その時点でびっくりして動けなくなっちまって、そしたら、その黒い影が俺の周りをぐるぐるまわり始めたんだよ。それで気づいたんだ、その大きな影が狼で、これは獲物に狙いをつけるときの動きだってな!」


 タピオは熱弁をふるったが、しかし、嘘くさいほど情感あふれる語り口と、激しい身振り手振りを見た観衆は、タピオのテンションに反比例してこの「危機」とやらに興味を失ってきた。村人たちの中には、不安で恐ろしいといった様子で話を聞きに来た人もいたが、そのような人たちですら、だんだんと半目になってきて、口をへの字に曲げ始めた。


「ちょっと、タピオ、タピオ、もういいったらっ」

「は、はあ? なんでだよ、今大事な話をしてるんだぞ!?」

「どこがだよ、そんな法螺話聞かせやがって。狼に狙われたんなら、なんでお前は今、無事なんだ?」


 近所のおじさんに問い詰められて、タピオはぐっと言葉を詰まらせる。


「そ、それは、わかんねえ……。怖くて立ったまま気を失ってたんだ。だから、はは、不味そうだと思ったのかなあ……?」

「はあ。じゃあ、お前んちの羊は? 一匹でも食われてるやつはいたか?」

「いや、確かめたが、みーんな元気だったさ」


 タピオの代わりに答えたのは、タピオの父親だ。彼は、ミカの父親の弟である。少し怒りを含んだ言葉を聞き、皆が、タピオの父親を振り返った。


「この馬鹿息子が、仕事もせずに飛び出して、こんな騒ぎたてよって」

「ほーう。じゃあ、タピオんち以外で、狼の被害があったやつ?」


 おじさんの音頭で、各々が周囲の反応を見回したが、羊の数が減っていたとか、牧場が荒らされていたとかで手を挙げる人は一人もいなかった。


「ほらな、お前が腹空かせた狼を見たってんなら、どこの家にも被害がないなんてことあるか? 何しにきたんだって話になるだろ」

「何だよ、下見に来たって線もあるだろぉ?」

「何しに来たって言うなら、タピオ、あんた、夜中の二時なんかに外で何やってたのよ」

「えっ」


 ふと、おばちゃんに問いかけられて、タピオの体がギクリと強張る。「え、えっと~……」と目を泳がせるタピオを見て、嘲るような笑い声を響かせたのは、タピオの家の一番近くに住むおばちゃんだ。タピオの近所のおばちゃんは、ミカの近所のおばちゃんの肩を叩いて、「ケケケ」と笑いながら言う。


「ン~、あんた、アレよ。タピオったらね、最近あのアマンダと付き合い始めたんだけどねー、相手が学校の先生の娘だもんだから厳しくって厳しくって、二人夜中に抜け出して秘密で会ってんのよー! 健気なもんだわよ、タピオの方なんか学校卒業してもしばらく片想いだったんだからね!」


 おばちゃん同士の会話から、タピオをからかうような笑いの輪が広がっていく。哀れ、十九歳のタピオは顔を真っ赤にして、つっかえつっかえに「違う」だの、「そう」だの、言い訳がましく繰り返しているが、すべての真実を知るおばちゃんにはかなわない。とうとういたたまれなくなって俯くと、それを機に、皆の足は解散に動き始めた。


「あ~あ、寝ぼけたタピオの見間違えだろうぜ」

「ちがわい、色ボケタピオの幻覚だ、幻覚」

「な、なんだよ、お前ら~! 俺は嘘つき少年じゃないんだぞー! 最初から嘘って決めつけるやつがあるかー! 後悔しても知らないからなー!」


 タピオが村人たちの背中に投げかけた言葉は、まるで漫画の敵役が苦し紛れに吐く捨て台詞そのものだった。そのせいで、余計にタピオの「狼少年」っぽさが強調されて、タピオの顔面は、今度は口惜しさに真っ赤になる。


 最後に残ったのは、ミカたち一家と、タピオ、タピオの父という顔ぶれだった。


 ミカの父が、タピオの肩を慰めるように叩く。


「ま、まあタピオ。そういうことがあったんだな。教えてくれてありがとう」

「伯父さん! も~! 嘘じゃないんだってば」

「嘘じゃなくても、勘違いかもしれないぜ」


 クールにそう言い放ったのは、ミカだ。ミカは騒動の最中に一度家に帰っており、今は学校かばんを肩にかけている。


「あれ? ミカ、どっかいくのか?」

「見たらわかるだろ、学校行くんだよ。学校」

「え!? あのミカが!?」

「なんだよ。一応、俺も生徒なんだけど?」


 タピオはミカの様子を上から下までジロジロと眺めて、その爽やかな生徒っぷりを見るや感激して涙を流すふりをした。


「ああ、あの不登校のミカ君が立派になって……」

「べっつに、好きで不登校だったわけじゃねえし。病気だったからだし!」

「病気? つっても、毎日元気に仕事してたじゃねえか」

「難しい病気で……、見た目じゃわからなかったんだ。ね、そうでしょ?」


 ミカは父を見上げて、「合ってる?」と首を傾げる。父は、ミカにうなづいてみせて、


「でも、もう完治したんだ」


 と、ヒラヒラ両手を振った。


「ふうん。まあ、何はともあれ良かったぜってことだな! じゃあ、ミカ、頑張れよー! 勉強わかんなくっても泣いたりすんなよー!」

「泣くか! ばか! 勉強わかるし! 姉さんに教えてもらってんだからなーー!!」


 タピオとミカのじゃれあいは本当の兄弟のようで、微笑ましい。父はニコニコとしながらタピオとその父を見送って、これまでずっと黙っていたミカの母を振り返った。


「なあ、母さん。ソフィアもそろそろ……」


 しかし、父の言葉は最後まで続かなかった。母の表情が、痛々しいほどに強張っていたからだ。母の口元は引結ばれ、目は皿のように見開かれたまま、何もない宙を見つめているようでいて、ミカを眺めているようでもある。

 父は、母が何を考え、恐れているのか手に取るようにわかった。彼女は「ミカの病気が完治した」今でもまだ、「狼」という言葉に過剰反応を示しているのだ。


「……ソフィアは、今日、具合が悪そうなの……」


 やっと母が絞り出した返答には、嵐の前のような静かさがある。


 父とミカは、今日はまだ、ソフィアの姿を見ていない。それは、ソフィアの体調が優れず、まだベッドから起き上がれないことを意味する。


「ソフィアは、今日は学校に行かせないわ……」


 母は呆けたような顔でそう呟く。父とミカは、母の目の焦点がゆっくりとミカに合っていく様をじっと見つめていた。


 母の目の奥で、ミカの怯えたような顔が像を結ぶ。


「なんであんたがそんな顔してるのよ!!」


 ミカはびくっと体を震わせた。父はとっさにミカを背中に庇う。

 母は、壊れた機械のように、ヒステリックに騒ぎ立て始めた。


「あんたも学校に行かせないわ! ソフィアとも絶対に会わせないわ! 狼ってあんたでしょう! どういうことよ! どうなってんのよ! 博士は! 博士はミカを見捨てたの!? 本当は見捨てたんでしょう! 治ってなんかいないんだわ!!」

「母さん、落ち着け! おい、落ち着け!」


 父は母の振り回す腕を掴み、耳元で「落ち着け」と声をかけ続ける。しかし、今の状態の母に効果はないと悟って、父は必死の形相でミカを振り返った。


「おい、ミカ。学校へ行け! ソフィアは休むって伝えといてくれ!」

「でも、母さんは」


 ミカは、母親の様子が心配だということを言うつもりだった。しかし、父は、ミカの言いかけた言葉を「母さんは学校へ行くなと言ったのに」という意味に解釈したらしい。


「母さんの言うことは気にするな! このままずっと恐れたままじゃ、ミカは一生学校に行けないだろう!」


 そのとき、母の平手打ちが父の頬肉を抉った。父の顔に傷が入ったのを見て、ミカはヒッと息を詰まらせる。これ以上、父が母を押さえつけておくのは無理だと悟った。


「父さん!」

「早く行ってくれ! お願いだ! ミカの姿が見えなくなれば、母さんも落ち着くはずだから!」


 その父の言葉は、確実にミカの心を傷つけた。自分の顔が見えない方がいいと実の親に言われて、それがどうやら本当らしいとまざまざと見せつけられて……。


 ミカはクルリと踵を返して走った。自分の病気や、家族の事情を知る人なんて誰もいない、ひとりぼっちの学校に向かって。

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