第九十三話 助言の部屋篇
男は「博士」と呼ばれていたが、なにせ専門分野が「オカルト」とか「怪奇現象」といったものであるので、所属する大学では煙たがられている。
しかし、一歩「地下」に踏み込めば、彼は確かに、一目置かれる「博士」だ。
大きめの街にはたいてい地下街があって、そこでは魔術や悪魔信仰に関する取引きが行われている。そんな世界で勢力を広げてきた「地下学会」が、彼の本来の所属だ。
この「地下」と、神を信仰する「教会」とは、相反する性質を持っていると思われがちだが、実は時々交じり合う。なぜなら、彼ら地下学会の研究者たちは、エクソシストが使う悪魔祓いの道具を開発することもあるからだ。ミカという興味深い実例と出逢わせてくれたのも、その筋から紹介された神父なので、彼は基本的には、「教会」側の人間のことも大切にしている。
助手の女が、地下の大研究室に入室してきた。
「博士、以前相談を受けたエクソシストたちが、また手を貸して欲しいという手紙を寄越してきました。悪魔を人の身体から引き摺り出すために、聖水を身体に注入する道具を開発して欲しいと」
「開発して欲しいだって? それは相談か? それとも、依頼か? 仕事の依頼なのに、ただの相談と同じように受けてもらおうと思っているのか」
博士は助手を見向きもせず、手元の作業を継続したまま答えた。
「君も君だ。そんな手紙をいちいち報告するんじゃない。契約は、順を追ってが基本だろうが」
助手をそう突き放すと、博士は中断していた鼻歌を再開する。上機嫌でフラスコを揺らし作っているのは、一種のホムンクルスだ。
フラスコの中に入っているのは、ミカの姉から採取した経血である。経血は全ての命の源であり、これに色々な材料を足していくことで、人工的な身体が生まれる。しかし、今回、そこに人工魂を入れる計画はない。彼が作っているのは、あくまで身体だけだ。
口の部分にチューブを接続したフラスコを火にかけると、蒸気が上に登ってチューブを通り、密閉したビーカーに「命」が滴り落ちる。その工程がうまく行っているのを確認すると、彼は「さて」と手袋を脱いだ。次に手にしたのは、魔術書である。
「何をしている。影響を受けたくないのであれば、すぐに出ていけ」
「は、はい」
博士の言葉に、助手は慌てて部屋を出て行った。あとに残るのは、博士自身と、これみよがしに台へ寝かされたミカだけだ。
「ええ……、知恵の悪魔のページはこの辺りだったかな」
博士が持っているのは、悪魔召喚の手順書である。彼は遠く魔女の血を引いているのだ。
博士は魔女の末裔として、魔術書に書かれた召喚の呪文を唱えた。
大研究室の床には既に魔法陣が描かれていて、その中央から黒い人影が這い出てくる。それは、黒の絵の具でゴリゴリと塗りつぶしたような黒影で、この世では形を留めない。
『またお前か』
登場するなり、悪魔はそう言った。
「お久しぶりです、知恵の悪魔様。しかし、以前に貴方を呼び出したのは、僕の曽祖母にあたる者でしょう。僕は、しがないドクター、ヒーリというもの。実は今一度、このヒーリの血の話を聞いていただきたいのです」
『話を聞くだと?』
「ええ、それが困っているのです。こんな分野ですから、他に相談できる先人というものもおりませんので……」
博士は傍に置いてあった台を引き寄せ、悪魔にミカの寝顔を見せた。
「ご覧ください。今は麻酔でよく眠っていますが、彼は元は凶暴な獣。まだ子供ですが、獰猛な肉食動物です」
悪魔は身体を前方に伸ばし、興味深げにミカを真上から見下ろした。
『狼の子か』
「さすが、よくおわかりで! 僕はこの狼の子を、ただの人間にしたいと考えているのです。そこで、ご助言をいただきたいのですが、まずこれをご覧ください」
博士は身を翻し、「命」を抽出中のホムンクルス製造器を示した。
「僕はこの者の魂を人間部分と狼部分を分離させ、狼部分を別の肉体に宿すことで、この者を人間にしようと考えています。しかし、今まで、どうやっても分離させることが出来ずにいるのです。どうか、知恵を貸していただけませんでしょうか?」
それを聞いた途端、悪魔は体を逸らし、博士を嘲笑った。
『地に落ちたなヒーリ。その子供は狼付きではなく、子供そのものが狼なのだ。分離させることなどできまい。獰猛な獣に困っているのなら、殺す他ない』
「それでは不十分ないのです! 僕は、この子に普通の人生を送って欲しいからこそ、この子から狼の魂を消し去りたい……。魔女の中には分身の魔法を使える者もおりました。もし、僕にそれが可能なら、この試みは上手くいっているはずなのに」
『ほう、分身の魔法か。やっと本来の目的を言ったな?』
悪魔は考え込むように体をくねらせた。その様子は、タバコの煙が天井付近で曲がったところのように見える。博士は、悪魔が次に発する言葉を固唾を飲んで待った。
『いいだろう。お前に分身の魔法を授ける。その研究が正解だと思うのならば、追求してみるがよい。私はその対価として、研究の結果をいただこう』
「! よろしいのですか!」
歓喜する博士の手が、その時、妙に熱くなった。目をやると、手に持っている魔術書が発光している。慌ててページをくってみれば、今まさに、『分身の魔法』の手順が生成されていくところだった。
『興味深い存在だ、狼の子。この子の父は狼か』
目をキラキラさせていた博士だったが、その悪魔の質問と独白との間のような呟きを聞いて、瞬きし、困ったように眉根を寄せる。
「いやあ、それが、父親は人間だと言い張るのです」
『ほう、では、その前か?』
「その前?」
『これは面白いことになった』
悪魔は肩を揺らしてクククと笑い始めた。腹を抱えるように丸まったあと、脅かすように首を博士へ伸ばしてくる。
『分身した狼の子は、元の体を探して回るぞ』
博士は何かを言おうと口を開いたが、特に言葉が出てこなかった。それを見て、悪魔がまた愉快そうに笑う。
『お前には関係ないか』
悪魔はそう言うと、ミカが乗っている台を指先で叩いた。ミカを起こそうとしているのかと焦ったが、悪魔は眠ったままのミカにそっと顔を寄せるだけだった。
『せいぜい探せ、お前を産んだ血をな』
博士は悪魔の言葉を反芻し、意味を汲み取ろうと考える。
悪魔という契約好きがいるというのに、この場はやけに静かで、会話もなかった。
しかし、それも悪くないと。
悪魔は答えを聞かない博士を気に入り、上機嫌に魔界へ去っていった。
再び、ミカと二人きりになった大研究室で、博士があっけらかんと独白する。
「ふむ。問題ない。狼くん、君には、僕が作った新しい体をあげるからね。ミカくんは、普通の人間のミカくんと、普通の狼のミカくんに分かれ、それぞれの生を全うするのだよ。僕の中ではその予定さ。そうでなければ……、また誰かが君を研究するだけさ」
博士が分身の呪文を唱えると、ミカの体を悪魔の煙が包み込んだ。その煙を掻き分けるように何やら光の玉のようにも、透明な影のようにも見えるものが、ミカの身体から飛び出してくる。それは苦しみ悶えるように玉の形を歪ませた後、ちょうど細胞分裂のように二つに引き裂かれた。
二つに分かれた不思議な玉は、一つはミカの体の中に戻る。そして、もう一つは博士が持つフラスコの中に入ろうとして……。
……途中で、くるりと方向転換して天井へ昇って行った。
「おやや?」
博士は玉の様子を目で追う。玉は壁を通り抜けられないようで、行き先に惑って四苦八苦していた。
博士はそれを見てフラスコを机に置き、虫取り網を持ってこようと部屋のドアを開けて、とはいえ網なぞどこから取ってきたものかとオロオロして、閉じた。




