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第九十二話 新しい契約書篇

 ソフィアが父に事情を話してから一ヶ月後、毎月の治療期間に入っても、博士はミカを迎えに来なかった。父が、博士の治療を拒否する連絡をしたからである。

 元々、母よりもやや冷静で、治療の進展のなさから徐々に不信感を募らせていた父は、ソフィアの話を信じ、それはもうひどく憤慨してくれた。ソフィアと父は相談を重ねて、結局母に黙って博士との契約を切った。母には、後でうまく言って誤魔化すつもりだった。


 契約を絶って一月経ち、「博士は研究の都合で街から離れたらしい」とでも母に説明しようとしていた矢先のこと。先述のとおり、博士がミカを迎えにくることはなかったが、しかし、予想外なことに、博士の助手が家にやってきた。助手の女は母に書類を手渡し、今月、博士が治療に来られない事情とやらを説明した。


「ミカ! ミカ! 降りてきなさい!!」


 そんな母の興奮した声を、家の二階でミカと一緒に聞いたソフィアは、不安に駆られてミカの顔を見た。ミカもソフィアを見ていて、二人は顔を見合わせる形になったが、ミカの方にはソフィアほど不安な様子は見受けられない。純粋に、唐突に騒ぎだした母を不思議がっているようだ。


「ミカ! 博士が、あなたの治療法を見つけたそうよ!!」


 階段を降りて居間に顔を覗かせた途端、母はミカに駆け寄ってそう叫んだ。ミカは驚いた様子で、「えっ?」と声を上げている。ソフィアはミカの背後で、呆気に取られていた。


「博士は、長年の研究からミカくんに最も適した治療法を発見し、今、新しい治療の開発に尽力しています。そのため、今月の診療及び治療はお休みさせていただき、来月、またこちらを訪問した際に、治療の成果をお見せしたいと考えています」


 要領を得ない母の説明を補足するようにそう言うのは、居間のテーブルに席したままの助手だ。テーブルには見覚えのある書類が置いてある。それは、博士にミカの治療を依頼した当初に交わした契約書に似ていた。しかし、この契約書はまだ新しく、署名欄は空欄だ。父がソフィアに近づいていて、母に背を向け、ソフィアにだけ見えるようにして口をこう動かした。


「どういうことだ?」


 ソフィアは「わからない」という風に首を横に振り、それから、こっそり俯いた。本当は、心当たりがあるからだ。

 ……あの夜、ソフィアと博士が交わしたやりとり。その内容は既にソフィアから父に明かしたが、しかし全てではない。ソフィアが「父に話す必要はない」と判断した「あること」については、実はまだ、誰にも隠している……。今回の契約書には、その「あること」が関係している気がした。


「では、新しい治療法に同意するサインを、保護者であるお母様がお願いします」

「はい!」


 母は、戸惑いもなく契約書にサインしようとした。しかし、その直前、助手の言葉を耳にしたソフィアがハッとして母に駆け寄る。母はミカの保護者であると同時に、ソフィアの保護者でもあるのだ。そんな当たり前の事実を再認識し、ふと何かが背筋をよぎる。その契約書に、新しい治療法の詳しい内容は書いてあるのだろうか。


「母さん、ちょっと待って! 契約書を見せて!」


 ソフィアは母と助手の間に割り込み、母の手の下から、契約書を無理やりに奪った。驚いた母が、「ソフィア!」と声を荒らげる。


 ソフィアは構わず、契約書を隅々まで睨め付けた。そして読み終わるや、助手の目の前のテーブルにバンと叩きつける。


「この契約書には、新しい治療法とやらの詳しい内容が一切書かれていません。こんな曖昧なものに、弟の命を預けることはできません!」


 ソフィアの剣幕を前にした助手は、しかし、引き下がることも憤慨することもなかった。


 ……助手がソフィアたちに見せたのは、わざとらしく困った顔だ。


 助手は、ソフィアを宥めるように、やけに優しい声で言う。


「ソフィアさん。新しい治療法の契約とは、そういうものなのです。なぜなら、初めて人に施す治療とは、その経過を観察することも目的に含まれていて、今回のもミカくんの症例を元に、これから更に発展していくものなんですから……。不思議に思われるかもしれませんが、内容がわからないのは、仕方がないことなんですよ。それも込みで、合意をいただくための契約書なんです」


 助手の回答を聞きながら、ソフィアは、相手から向けられる視線に心当たりがあると思った。類似した状況が、警告を発するように頭に浮かんでくる。それは、学校の教室や、神父の説教、……ミカの病気がどんなものかについて問うた時、はぐらかした親たちの顔。これは、大人が世間知らずな子供を諭すときの喋り方だ。経緯の全貌を知り事情を悟っているソフィアに対して、助手は敢えて、大人が子供に対する時の態度をとっている。そうやって、ソフィアの言動を全て子供の屁理屈かなんかのように扱って、側で聞いている母親を洗脳するつもりなのだ。


 だからこそ、ソフィアはいち早く父に援護を求めた。


「だって、父さんもおかしいと思うでしょ!?」

「ああ……」


 父も、奥から妙に、よたよたとやってきて、母の肩に手を置いた。


「わたしたちは、もう何年もミカのことを、あなたの博士に預けている。それなのに、ミカの病気が良くなっているという報告は、一度も受けたことがない。そこへ今更、新しい治療法を見つけたなんて、信用できるはずがない」

「あなた……!」


 父は、口を出そうとした母の肩を強く抑えた。

 助手は今度は、大人としても誠意を見せる姿勢を取る。


「お父様のお気持ちも、深く理解しております。ですから、これは今までの治療の契約とは別に、新しく契約するものなのです。わたしたちは今までの発展のない治療を深く反省し、また新たな体制で、ミカくんを迎えたいと思っているのです」


 これは、一度契約を切ったにも関わらずまた契約書を持ってやってきたことについて、遠回しに弁明している。母の手前、一度契約を切ったことには言及しないようにしているのだ。ソフィアたちにとっても、博士たちにとっても、母には何も知られない方が良い。今までミカが受けてきた治療が偽りのものであったと知られてはいけない。博士たちにとって、母は、御し易い存在でなくてはならないのだ。


 その母が、助手の言葉にまんまと感化されている。


「ねえ、あなた! ソフィアも!」


 ついに、母が父の手を振り払って立ち上がった。


「新しい治療が怖い気持ちもわかるけど、わたしはミカの気持ちを優先するべきだと思うの! ミカ! ミカはどうしたい? どんなに厳しい道でも、自分の病気を治したいと思うわよね!?」


 ミカは母に詰め寄られ、曖昧に笑った。


「そりぁ、病気が治るならやって欲しいけど」

「母さん、その言い方たと、ミカはやるとしか言えないじゃないか!」


 父が母を追いかける。


「何よ! あなたもソフィアも、ミカを応援してくれないの!? なにがあってもこの子の病気を治すって決めたじゃない。この子の病気は珍しいんだから、新しい治療でも試さないといけないのよ! わたしは、ミカに普通の人生を送って欲しいの!」


 ヒートアップした母は困ったもので、自分の思っている通りにならなければ、なかなか手をつけられなくなる。しかし、今回ばかりは父も簡単に引き下がることはできない。

 厳しく言い返そうとした父だったが、それを遮る呑気な声があった。


「あー、いいよ。父さん、俺、治療受けるよ。別に、やることは前と変わらないんだろ?」


 喧嘩になる雰囲気を察して、ミカがそう言ったのだ。

 それに答えたのは、助手だ。


「いえ、ミカくんが博士の元で治療を受けるのは、来月の一日だけで済みます。新しい治療法は、継続治療が必要な類のものではないので」

「そうなの? それなら、ずっと楽になるよ。ねえ、母さん。父さん」

「ええ! ええ!」


 母は、感動して涙を流し始めた。そのままの勢いでサインしようとペンをもつ母の手を、しかし、父が叩き落とす。

 ソフィアは目を覆った。

 もうこの場はめちゃくちゃだ。


「正気になれ、母さん! 継続治療が必要じゃないってことは、博士に必要なのは一度のチャンスだけなんだ。一度だけでもミカに接触できればいいと思っているってことだ! ミカがその後、無事に帰ってくる保証はない!」

「滅多なこと言わないでよ! 病気の治療で……まさか、死ぬわけないわ!」

「ただの治療だったらな! でも、あの博士を信用するな! お前の判断のせいでミカが殺されたら、俺はお前を恨むんだぞ!」


 両者、涙を流しながらも、強い口調で口論する。だが、残念ながら、両親が必死になって騒いでも無駄なのだ。心優しい無邪気な子供は、彼らが騒げば騒ぐほど、自分の力でどうにか解決しようとしてしまう。


「ねえ、サインって、保護者のじゃないとダメなの?」


 いつのまにか、ミカが助手に話しかけていた。


「ええ、すみません。未成年のサインでは、契約は成立しませんから」

「そっか。はい、母さん。ペン落としたよ」


 ミカは契約書を母の前に広げ、ペンを差し出す。


「サインして」

「ミカ!」


 ミカは父に微笑みかけた。その笑顔は、こんな状況でどうしてか、普段と変わらないように見える。


「だって、二人が喧嘩するところなんか、見ていたくないよ」


§



「父さん」


 サインした契約書を持って助手が帰ってから、ソフィアは父に駆け寄る。

 ソフィアはもう何もかもが恐ろしくて、母のサインを止められなかった。

 祖母だってそうだ。父とソフィアが治療を拒否する事情を知らない祖母は、無駄な口を出すまいと、全て終わってから母の肩を抱いて寝室に連れて行った。

 父は難しい顔をしていたが、ソフィアの頭をポンポンと撫でてくれた。


「もう、一月の辛抱だ。ここまでくれば、一月なんて大した問題じゃない。そうだろう?」

「ええ」


 ソフィアは大人しく頭を撫でられていた。

 父は、ソフィアが博士と交わした会話の全貌を知らない。だから、あの契約書は、ミカの扱いに関わることだけを取り交わすものだと思っている。だが、実際にはもう一つあるはずだ。「ミカの治療に、ソフィアの経血を使うこと」。この承諾が、契約には含まれるはずである。


 ソフィアは、自分に言い聞かせた。

 ……自分の血によって、ミカの狼になる体質が治るなら、万々歳じゃない。

 治らなかったとしても、構わないわ。もし治らなかったなら、それは、悪魔の儀式なんて迷信だったってことだもの。呪い返しで、わたしに悪いことが起きたりしないわ。

 ……そもそも、ミカは病気じゃないのよ。治る治らないじゃないの、狼になるのはミカの個性なのよ。

 だから、悪魔との契約だって成立しないわ。

 だからもちろん、わたしとミカは、これからもずっと仲良しで、幸せに暮らすんだわ。

 だから、だから、何を怖がることがあるのよ……。


§


 さて、その翌月。新しい契約書のとおり、ミカは一日だけの約束で博士に連れて行かれ、そのとおり、次の日に無事に帰ってきた。治療は成功であり、これにて治療の契約は完了とのことだった。


 こうして、博士がミカたち家族と「全く関係ない人」になってから三日後のこと、これに関係あるやら無いのやら。


 村のとある羊飼いが、狼に襲われたという噂を流し始める。

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