第九十一話 一晩明け篇――その二
ソフィアを乗せた博士の車は、しかし、街に向かうことはなく、そのまま森の中に入った。
人目から隠れた車内では、ソフィアの尊厳が奪われた。博士はソフィアが思っていた以上にろくでもない思想の持主のようで、どうやら悪魔を相手に実験をすることもあるらしい。後部座席で男たちに取り押さえられ、あの女の助手に「処女の経血」とやらを採取された。それを悪魔に捧げることで、何かしらの実験に役立つというような話しぶりだった。博士は一切こっちを見ず、助手席に座ってまっすぐ前を見ていた。
「こんな酷いことしといて、気を遣っているつもりなの?」
「誤解しないでほしいな。僕は基本、紳士的なんだよ」
採取が終わって助手が運転席に戻った後、博士はソフィアを振り返って、こんなことを言った。
「ところで、取引きをしないかい? 君は今夜のことを誰にも黙って、ミカくんの治療を邪魔しないと約束するんだ。約束を守れないなら、僕はこの君の血を、悪魔との実験に使おう」
「何、その約束? 今更、悪さがバレるのが怖くなったの? わたしが誰にも話せるわけないって思って、勝手にベラベラ自白したのはあなたじゃない?」
「お母さまには話せなくても、お父さまには話せてしまうんじゃないのかい? だけど、僕がこう約束を持ち掛けたのは、別に何かを恐れたからじゃないさ。人の血を実験に使うとき、僕は必ず、本人に断りを入れるようにしているからだよ。繰り返し言うけど、僕はそんなにひどい人間じゃない。人の血を勝手に使うことはないのさ」
「ずいぶん慎重なのね」
「当然さ! だってね、君の血を使用したとき、悪魔が君に何かするかもしれない!」
それを聞いて、ソフィアはつばをごくんと飲み込んだ。だが、こんな不確定な脅し文句一つでひるむ性格ではない。
「ふん、それがどうしたの? わたしのことなんかどうでもいい。その取引きは成立しないわ。バレるのが怖いわけじゃないなんて信じないから」
実際のところ、ソフィアは今夜のことを母に告白したところで、信じてくれるかどうかは五分五分だと思っている。でも、父なら理解してくれるはずだ。父の協力を得て、母がショックを受けないように慎重に動き、いずれ博士から逃げればいいと思う。
ただ、気がかりなことと言えば、一つあった。ミカのことだ。博士の「治療」が嘘のもので、本当はただの「実験」だったとしても、ミカが狼になれること――博士の言葉を借りれば、狼の血を引いていること――は、事実なのである。博士を頼れなくなった今、ミカの力と向き合うには、どうしたらいいのだろう? また新たな専門家を探さないといけないのか? だが、母と父には、もう当てがないだろう……。
威勢のいい返答の裏で不安に駆られていた時、博士が残念そうに「そうですか」と言い、一拍置いてこんなことを言い出した。
「ちなみに、君の血を使って悪魔との契約を交わせば、ミカくんの狼になる力を封印することができるよ」
「……え?」
「ミカくんを普通の人間にすることができるよ。そうなれば、君も月経の度に一人ぼっちで小屋にこもる必要はない」
ソフィアの頭がぐらりと揺れて、中身が全部ひっくり返った気がした。
「あなたが悪魔と、そんな契約するわけないでしょ? あなたに得がないわ」
「そんなことない! 君がここで取引きを結ばずに帰れば、僕は君の家との契約を切られてしまうんだろう? そうなれば、僕の被検体は手元からいなくなるし、僕が丹精込めて育て上げた論文は途中で終わってしまって、世に出せなくなる! それどころか、いつか別の研究者がミカくんのことを見つけて、また僕と同じように研究し、僕が出せなかった論文を発表するかもしれない! ……もし本当に僕がミカくんに会えない日が来れば、最悪の事態になる前に、ミカくんから被検体としての価値を奪うと思うよ」
「……それは本当なの?」
「さあ? 嘘かもしれない。君は、僕と何も約束してくれないから」
ソフィアは落ち着くように深呼吸した。二度、瞬きをしてから、博士を見返す。
「そうよ。わたしとあなたの間に、約束なんかない。だから、わたしたち家族が、あなたとの契約を切ったとしても、わたしがその血を実験に使うことに同意したことにはならないわ。あなた言ったわね、人の血を勝手には使わないって。これは、わたしとあなたの間の約束じゃなくて、あなたの中のモラルだから、わたしが取引きしようが約束を破ろうが、結果は変わらない言葉よ」
「ふむ。君の意見はよくわかったよ」
前を向いて返事をした博士は、やがてすっきりしたような顔で言った。
「もう用済みだ。放してやりなさい」
こうして、ソフィアは男たちに腕をつかまれ、車外に放り出された。車は砂ぼこりを上げて走り出し、後には、疲弊したソフィアが一人、森の中に残された。ソフィアの小屋までは、歩いて幾分かかかる。足に、赤いものが垂れてくる感覚と同時に、体中の力が膝の下までずーんと落ちてくるのを感じた。最悪の気分だった。
§
翌日の朝、小屋で毛布に包まって横になっていたソフィアに、母が朝食を持ってきた。昨日、ヒステリックに騒いでいた母は、ソフィアの前では別人のように落ち着いている。
「ソフィア。起き上がれる? ごはんを持ってきたよ」
「母さん。大丈夫よ」
「本当? いつもならとっくに起きているじゃない。お腹が痛いんじゃないの?」
「ちょっとだるかっただけよ。貧血だわ。母さんもわかるでしょう?」
母は、ソフィアを気遣うような目で見て、眉を下げた。いたわしい、と顔に書いている。感情の発露がわかりやすく、繊細な人なのだ。だから、ミカに対して母としての感情が爆発している。
母を見ていると、ソフィアはミカの姉として、その仕事をしっかり果たさなければという責任感に駆られる。
「ねえ、母さん。昨日、学校の宿題をしていてわからなかったところがあるの。父さんに訊くから、あとで呼んでもらえる?」
「あら、いいけど……。ソフィアにわからなかったことが、父さんにわかるかしらねえ?」
「きっとわかるわ。得意分野だもの」
ソフィアは、マグカップからミルクを一口飲んで緊張をごまかす。もう一口、二口と飲んだ。
昼前に小屋へやってきた父は、娘に頼られたことをひそかに喜び、若干誇らしげに胸を張って扉を開けた。しかし、小屋の中で待っていたソフィアは、部屋の奥から緊張した面持ちをのぞかせている。父はすぐに、呼ばれた要件が宿題ではないことに気づいた。
「ソフィア? どうした?」
ソフィアは毛布を固く握っていた。父の目が、握られて白くなった拳を見て、それから揺れる瞳に移る。そうだ、ソフィアの瞳は揺れていた。娘のことを大切に見続けてきた父には、彼女の表情の癖というのがわかる。ソフィアの緊張は、不安と怒りからきているのだ。
ソフィアは、揺れる声でゆっくりと語り出した。
「父さん。昨日の夜、わたし、博士に会ったの」




