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第八十九話 俺の帰宅と姉の不在篇

 それは、博士の研究所から帰ってきた日のことだった。

 博士の送迎車がミカの家に着いた時には既に日没後で、ミカの母が真っ暗な中で玄関先に立ち、ランタンを提げて車の到着を待ってくれていた。

 ミカは、道中の車内で、姉のソフィアの言葉を思い出していた。


 ーーあのね、私が思うに、ミカは生まれてくる時一度死んだのよ。


 人間は、生まれた時のことなど覚えていない場合がほとんどだ。ミカだって「人間」の例に漏れず、ニ歳より以前のことは今や覚えていない。とはいえ、生まれたての人間が何も認識できないわけではない。母の腹の中にいる時の記憶や、生まれた瞬間の記憶を覚えている人間も稀にいる。だから、ミカの病気を治そうという博士は、まずミカの頭の中に、生まれた時の記憶を呼び戻すことを企んでいるらしい。


 あの時、ソフィアの言葉はこう続いた。


 ーーでも、神父さんがなんとかしてくれたから、ミカは今こうして生きてるの。


 村の神父が何をしてくれたというのか、ミカは知らない。しかし、博士はそれをしつこくミカに質問してくる。

「ミカはどこから来たのか?」

「ミカの両親は誰なのか?」

 繰り返し訊かれる問いは、実はミカの生まれた時の状況を知りたいだけなのだと、ミカは気づいている。なぜなら、博士が最初にこんなことを言っていたのだ。


 何げない日常会話や繰り返しの習慣とは、時に奥底にある記憶を呼び覚ますものなんだよ。

 奥底とは、無意識の奥底のことだよ。その中身を探るには、無意識のキッカケに頼るしかないのさ。


 そんな話をしてからというもの、博士はミカの生まれについて、治療のたびに探りを入れ始めた。そこに、ミカの「病気」を治す手立てがあるとでもいうように。


 さて、ミカの母親が言うには、ミカは「生まれつきの病気」であるらしい。その「病気」の治療法はまだ見つかっておらず、博士がミカの体を研究して探している段階だ。しかし、ソフィアの言う通り「病気」のせいで死産となりかけていたところを神父が助けてくれたのなら、神父はこの「病気」の治療法について何か知っているんじゃないか?


 ミカは帰路で車に揺られながらそんなことを思い至り、帰宅後に博士がいなくなってから、母に疑問を投げかけてみた。


「ねえ、母さん。神父さんは俺の病気の治し方を知らないの?」

「えぇ?」


 母は博士を見送った後、疲れ切って椅子に座りこんでいた。テーブルの上に両肘をつき、深く頭を抱えている。ミカの問いかけに返事した声は心底鬱陶しそうで、疲労も不機嫌さも隠そうとしていなかった。


「あんたねぇ、神父様がわかることなら、こんなにも苦労する必要はないでしょう!?」


 母の形相に怯んだミカは、部屋の隅で目を泳がせる。


「だって、俺が生まれた時、死にかけだったのを助けてくれたのは神父さんなんだろ?」

「それは、そうだけど……、あれは違うの。ダメだったのよ。神父様は、あなたの『病気』の発作を治めることまでしかできないっていうのよ。あなたの病気は、もっと根本から治す必要があるの」

「体質の問題なのかよ」

「ああもう、イライラさせないで!」


 母はテーブルをバンと叩いた。


「今回もダメだったそうじゃない! こんなに時間をかけて、博士の言うことも聞いてるのに……あんたちゃんと治療する気あるの!? あんたのためにやってるのよ! このままだとどうなるかわからないの!?」


 大きな音と怒鳴り声を聞いて、寝室から父が飛び出してきた。母の肩を抱き、背中を優しく叩く。父は囁くように母を宥めた。


「やめなさい。ミカは大丈夫だ。ミカは今日も落ち着いているよ。大丈夫だ、ミカはいい子だよ。博士を信じよう。僕たちは神に祈るだけだ」


 父にしばらく抱かれていると、母の声は怒鳴り声から、懇願するような泣き声に変化していった。


「ああ神様、こんなにも祈っているのに。まだ足りないの? ええわかっています、いくらでも祈りますから。お願いしますから……!」


 父の目がチラリとミカに移り、父の背後へとミカの視線を誘導した。父のアイコンタクトに応えて部屋の奥を見ると、隣の寝室から祖母がこちらを覗いて、手招きしている。

 ミカは、祖母のもとに近づいた。


「ミカ、二階に上がりなさい。もうおやすみ、お母さんも疲れているようだから」

「わかったよばあちゃん。姉さんはもう寝てる?」

「ソフィアはいないよ。『隠れる日』になったからね」

「ああ、そうなんだ」


 ミカは祖母に頷いてみせると、静かに階段を上がって自室に入る。母がヒステリーを起こすことは珍しくなかった。家族は皆、慣れたものであった。


 ーー母さんたちが教会に通うのは、ミカのことを本当に大切に思って、神父さんに、感謝しているからなのよ。


 ねえ、姉さん。姉さんはそう言うけれど……。

 もし、教会通いや博士の治療が母さんと父さんにとって辛いことなら、もう辞めちゃえばいいのにと思うんだ。

 だって、治療はうまくいってないし神父さんは全然助けてくれないけど、実際、俺はずっと元気だぜ。



 ミカは窓を開けて、遠くに見える小さな屋根をみた。羊の放牧場を挟んで家と反対側にあるそこは、昔、ミカの祖父が若い頃に住んでいた小屋で、今はミカの家の、予備の納屋として使われている。そして、ミカの姉・ソフィアが一ヶ月に一回の頻度で血の匂いを纏う頃、そこに隔離されるための小屋でもある。

 小屋の屋根に植えられた植物は、室内の気温調整にも役立つ。中にはストーブと毛布を持っていっているはずだし、ソフィアは今頃暖かくして眠っているだろう。


 ふと、ミカは血の匂いを近くから感じ取った。納屋から漂ってきた匂いだとすれば、あまりに距離感が違う。ミカは窓から周囲を見渡したが、怪我をした誰かがいる様子はなかった。


 不思議に思いながらも、ミカは窓を閉めた。長距離を移動して治療を受けてきたところなので、体力は大分擦り切れている。

 ミカは祖母に言われたとおり、大人しく寝支度を始めることにした。

 ソフィアに会いたかったな、と、少し寂しさを感じながら。

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